● ● 沈丁花の香りが包み込む時 -2- ● ●
「三洲先生!長野君の意識が戻りました。すぐに来てください」
休んでいた仮眠室に、看護師の声が響いた。壁にかけてあった白衣を手に取り、薄暗い廊下を歩きながら手早く羽織る。 居眠り運転のトラックに追突され、一家4人中3人が死亡する事故があった。長男の一也だけが助かり……それでも、この3日意識が戻らず生存する可能性は五分五分だったが、意識が戻ったのであれば一安心だ。 「長野君、気分はどうかな?」 ICUに入り声をかけると、ぼうっと視線を彷徨わせていた長野一也が俺に気付き、ほんの少し驚いたように目を見開いた。 「………」 「え?」 「………」 「無理にしゃべらなくていい。俺が言っていることはわかるかな?」 長野はかすかに頷きつつ、目で俺と看護師の姿を交互に確認し、今の状況を判断しているように見えた。 「ここは病院だ。君は今、怪我をしていて治療中だ」 家族のことを伏せ、現況だけを伝える。彼が話せるようになってから詳しい検査を行い、状況に応じて伝えることになっていた。 「痛み止めを流しているからね。まだ寝返りができないと思う。看護師がすぐ側についているから、体勢が苦しかったら遠慮せずに言ってくれ」 長野が頷くのを見届けてから、データに目を通し担当の看護師に指示を与える。俺達を目で追っていた長野は、気付けばうとうとともう一度眠りに落ちていた。 それ以後、何事もなく仕事は終わり、朝の引継ぎを済ませて裏口から病院を出た。 春が近いといえども、3月に入ったばかりだ。朝のキンと張り詰めた空気が頬を撫で、ぼうっとしていた頭をすっきりとさせていく。 これから仮眠を取るのに、眠気が飛んでいくのは困ったものだな。 そう思いつつ公園の角を曲がったとき、 「当直お疲れ様っす」 真行寺の元気な声が聞こえてきた。 「なんだ、迎えにきたのか」 「今日は、仕事が休みでしたから」 手こずっていた案件が、やっと片付いたのだろう。お互い忙しく尚且つ時間的にも俺の方が不規則な仕事をしている生活では、数週間すれ違うことも多々あった。これは、もう長年のことで、今更話題にさえ出ないことだが。 ふいに柔らかな香りが鼻腔をついた。その香りを辿って首を巡らすと、 「沈丁花っすね。ばあちゃんが好きで、よく庭に咲かせてたっす」 俺の視線に気付いた真行寺が、同じように小さな花を見つけ目を細める。 春を呼ぶ花。淡いピンクの小さな花が手毬状に集まり、ほのかな香りを漂わせていた。一つ一つの花は小さいのに、人が振り向くくらいの存在感。 「アラタさん。沈丁花の花言葉知ってますか?」 「いや……」 「こんなに小さくて可愛い花なのに、『不死』『不滅』『永遠』なんてご大層な花言葉がついてるんすよ」 「ふぅん」 不死なんて、ただの人間の願望だ。どれだけ才能や財力があったとしても、誰にでも平等に訪れる死。 あいつなら、この経済界を変えられるだけの力があっただろうに、あっけなく逝ってしまった。最愛の恋人を置いて。自分が一人逝けば、残された恋人がどうなるかなど、わかっていただろうに。 16年も前のことなのに、昨日のことのように思い出せる出来事。胸にこみ上げる息苦しさを振り払うように、 「真行寺、俺は疲れてるんだ。さっさと鍵を開けてくれ」 「す……すんません!」 真行寺に言い放ち、助手席のドアを開けどさりと座り込みシートベルトを締めた。 「アラタさん、少し休んでください。家についたら起こしますから」 そっとかけられた気遣いの言葉に、素直に目を閉じる。エンジンの音が遠くなるのを感じながら、沈丁花の香りが俺の体を包み込んだような気がした。 |