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●  Go for it!-7-  ●

 違う!この音じゃない!
 事務所で聞いた言葉が、ぼくの胸に突き刺さっていた。
 佐智さんにOKを貰い、ギイの許可を貰い、子供達も喜んで応援してくれて、ある意味、有頂天になっていたぼくを、あの言葉が現実を見せた。
 しかし、今、ぼくにできることは、練習だけ。
 そう思い子供達を寝かせたあと、ギイの帰宅が遅いのをいいことに、夜半過ぎまで防音室に篭る日が続いていた。
 しかし、弾けば弾くほど、どんどん何かがずれていっているような気がする。レコーディングのときは、こんな音ではなかったはず。
 明日は、佐智さんとのリハーサルなのに………!
「……くみっ、託生!」
 ぐいっと右腕を引かれ、弦に当たった弓が不協和音を鳴らしてハッとする。
 なにも映していなかった視界に、心配そうにぼくの顔を覗き込んでいるギイが見えた。こめかみを冷たい汗が流れ、バイオリンの音しか拾っていなかった耳に、自分の荒い息遣いが聞こえてくる。
「ギ………」
「どうした、託生?」
「な………なんでもない」
「なんでもないわけないだろ、そんな顔色して?」
 心配そうな瞳に首を振るも、頬を包むギイの大きな手の暖かさに、何故か鼻の奥がツーンとしてきて、泣いちゃだめだと顔を俯かせた。
 今、ギイの顔を見ると、絶対甘えてしまう。
「ごめん、ギイ。もう少し練習したいから………」
 出ていってくれないか、と続けようとしたぼくに、
「一人で抱え込むな」
 怒鳴るような声量ではないけれど、有無を言わせないような強い口調でギイが口を挟み、ぼくの体がビクリと震えた。
 そんなぼくを見て、軽く息を吐き、
「今、託生が思っていることを言ってみろよ?」
 ギイが口調を変え優しく問いかける。
 言えるわけがない。あんな言葉一つに心を乱されて、自分の音がわからなくなっただなんて。
 バイオリニストになると決めたのは自分なのだから、弱音も泣き言も言っちゃいけないんだ。
「託生、口に出してみろ」
 けれども、優しいギイの言葉に甘えてしまいそうになる
「ぼくが、乗り越えなくちゃいけないことなんだ」
 バイオリンのためなら、どんなことでも耐えられると思ったのに、なんて様だ。あんな言葉一つに惑わされるなんて。
 ギイは、俯いたまま体を固くしたぼくを、ギュッと包み込むように抱き締めて、
「託生が乗り越えないといけないことだろうけど、一緒に考えることはできるだろ?」
 そう言って、頑なに口を閉ざすぼくの背中を、子供を宥めるように軽く叩き、ときに優しく撫でさすり、ぼくの名前を呼びながら辛抱強く待っていた。
 ギイの手のリズムに、ぼくの心が落ち着いていく。張り詰めた風船のようになっていた自分から、不要な空気が抜けていくようだ。
「………思ったとおりに弾けないんだ」
「うん」
「こんな音じゃないんだ。どんどんずれていって、本当の音がわからなくなって………!」
 一つ吐露すれば、涙と一緒にどんどん溢れ出す。焦って、慌てて、思いつめて、でも、どうしようもなくて。事務所に行った日から、ずっとずっと………!
「それでも、オレは託生の音が好きだよ」
「え……?」
「託生が知っているとおり、音楽に関しては素人だけど、オレは託生の音が一番好きだ」
「ギイ………」
 ギイは、バイオリンと弓をピアノの上に置き、ぼくの手を引いてソファに座らせ肩を抱いた。抱き寄せられるままギイに体を預けると、体全体にギイの声と鼓動が響いてきた。
「デビュー前ってそうだよな。自分が今まで生きてきた小さな池の中から大海に飛び出していくようなもんだ。自分の力が世間に通用するかどうか、尻込みしちまってもおかしくないし、もっと上をと望んで、ギリギリまで足掻いて、努力して………」
 思い出すように言葉を紡ぐギイの声に、ふと思った。
 いつも超然として、どんなことにでも余裕で対応し、それどころか楽しんでいるようにさえ見えるギイだけど、彼だって初めて仕事をしたときがあったはずだ。祠堂にいる頃には、もうすでにお義父さんの手伝いをしていたから、ずっとずっと子供の頃に。
 ギイも、同じように思ったことがある?
 見上げたぼくの目尻に口唇を寄せ、涙の粒をペロリと舐めたギイの目が笑う。
「託生はさ、今、卵の殻の中にいるヒヨコと同じなんだよ」
「ヒヨコ……?」
「そう。ヒヨコが殻を内側から割るだろ?あれって、かなりの力が必要なんだ。ヒヨコにとって、初めての試練ってやつだな。だからと言って、外から手伝うことはできないんだ。なぜだと思う?」
 ぼくの目をじっと見つめて、ギイが問う。
 外からパリパリと剥がせそうなのに、生まれてこようとしているのは一目でわかるのに、何故?
 首を振ったぼくに、ギイがわかりやすく説明する。
「殻の内側には血管が張り巡らされていて、ヒヨコはそこからカルシウムを摂取して、自分の体力をつけるんだ。同時に殻も薄くなって割りやすくなる。外から手伝えば、ヒヨコがカルシウムを摂取したあとかどうか、わからないだろ?もしも手伝って外に出てきたとしても、長くは生きられない。親鳥が手伝うときもあるが、それだって、タイミングが合わなければ同じだ」
「そ……うなんだ」
 外に出たときに必要なものを、卵の中で蓄えないと生きられないのか。
「それから、卵の中である程度大きくなると空気が足りなくなるんだ。そうすると殻と薄い膜の間にある気室という部分……卵を割ったとき、ぷくっと空気が入ってるところがあるだろ?ヒヨコは自分でそこに穴を開けて空気を補充する。でも、その中の空気は六時間しか持たないから………」
「殻を割らなければ窒息する?」
「そういうこと」
 まさにヒヨコにとって殻を割るのは、命懸けなんだ。知らなかった。
 ギイは、愛しそうにぼくの頬を親指で撫で、こめかみを伝って指を髪に差し込んだ。
「この数年、託生のやりたいことを後回しにさせて、オレもそれに甘えて子供達のことを任せきりで、申し訳ないと思ってる。本当に感謝してる。でも、もう託生自身、窒息する寸前なんだと思うんだ」
「ギイ………」
「オレ達は、外から託生にがんばれって応援するしかできないけど、託生の力を信じてる」
 近づく口唇に目を閉じた。柔らかく包み込み、ギイの想いがぼくに流れ込んでくる。
 がんばれ、負けるなって。
 小さくて、体力もなくて、それでも真っ暗で狭い卵の中から殻の外に憧れ、精一杯の力を込めてヒヨコは殻を突く。外の世界がどういうものかも知らない。それでも、無限大の世界に向かって殻を割る。
 そして、ヒヨコは太陽の光を見る………!
「諦めなければ、殻は絶対に割れる。大丈夫だ」
「うんっ!」
 微笑むギイに、力を込めて頷いた。今なら、ぼくの音が戻ってきているような気がする。
 まずは、明後日の佐智さんのコンサート。そして、四ヵ月後のデビューコンサートへ。
 ぼくは、必ず殻を割ってみせる………!
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