● ● Go for it!-3- ● ●
子供達が寝たのを確認したあと、ぼくはそのままプライベートの居間に戻った。
今日は、もうすでに何時間もバイオリンを弾いていたし、レコーディングの余韻に浸りたかったのもある。 居間の隅にあるコーヒーメーカーをセットしようとして、コーヒー豆の缶をキャビネットから取り出し、でも、ふと思い直してバニラマカダミアの缶を手に取った。 自分が、どこまでも非日常な異空間を欲しているように思えて、クスリと笑う。 一人分の粉を入れスイッチを入れると、しばらくしてメルヘンな香りが部屋中に漂い初め、うっとりと目を閉じた。 この二週間、慌しくもあったけど、本当に楽しかった。 自分一人で練習しているときとは違い、心地よい緊張感を纏い、佐智さんや伴奏の人と最高のものを作ろうと意識を高め………。 脳裏に、音楽が流れ込んでくる。 楽譜を貰ったときは、無我夢中で音を追いかけていたけれど、ある日、すっとぼくの中に音が入ってきて、ぼくと音が一体化した。そのときの喜びと高揚感がよみがえってきて、思わず声が出そうになり奥歯を噛み締めた。 何度でも味わいたくなる習慣性のある薬のようだ。まるで自分が中毒患者になったような気分になる。 大きく息を吐き、すでに出来上がっていたコーヒーをカップに注いでソファに座った。ミルクを入れなくても、今日のコーヒーは甘く感じる。 ぼんやりとしながらコーヒーを飲んでいると、小さな音を立ててドアノブが回り、ギイが帰ってきた。 「お帰り、ギイ」 「ただいま」 疲れを滲ませながらもギイは笑顔を浮かべ、立ち上がりかけたぼくの肩に手を当て、ただいまのキスをする。そして、覆いかぶさるように、ぼくを抱き締めた。 うーん、今日は、少し煙草を吸いすぎてるな。スーツに染み付いた煙草の匂いが、いつもよりきついような気がする。 「子供達は?」 「寝たよ。大樹がちょっと膨れて大変だった」 「大樹が?珍しいな」 「うん、ギイと佐智さんに会えなかったからって」 本人も仕方がないことだと理解しているみたいだけど、それでも、自分だけギイと佐智さんに会えなかったというのは面白くもないだろう。実際に、ぼくも、九鬼島で赤池君だけ井上邸に行ったとき、同じように気分が悪かったから、大樹の気持ちはよくわかる。 聡い子だから一颯と咲未に当たることはないけれど、その分、内に秘めてしまうから気をつけてやらないと。 子供達の性格を充分理解しているギイが頷き、 「明日の朝、大樹の部屋に行ってみるよ」 心配するなと、ぼくの頭を撫でた。 それだけで、肩に入っていた力が抜ける。 基本、ぼくが子供達の世話をしているけれど、なにかがあれば必ずギイがフォローしてくれるから、安心して子供達と向かい合えるんだ。 「うん。大樹も喜ぶと思うよ」 佐智さんは無理だけど、ギイが朝一番に自分に会いにきてくれたら、大樹だって喜ぶに決まっている。 「佐智のコンサートに出るんだって?」 ネクタイを緩め、手にしていた封筒をテーブルの上に置きながら、ギイが問いかけてきた。 「う……うん。急な話でびっくりしたけど、NYだけだからって言われて………」 ギイからコンサートの件を振られるとは思っていなかったので一瞬言葉に詰まったが、あらかじめ佐智さんが説明してくれていたんだと納得して、こっくりと頷いた。 レコーディングの最終チェックが終わり、スタッフ全員の拍手を受けたあと、突然佐智さんから告げられたのだ。コンサートツアーの幕開けがNYだから、出演して欲しいと。 そのときの空気に流されたように、悩む間もなく返事をしてしまったけど、でも、ぼくは今でも出演承諾を後悔していなかった。 だって、もっと弾いていたかったから。あの高揚とした音の洪水の中で、自由に泳いでいたかったから。 ぼくの返事に頷き、ギイがソファに腰掛けた。 「それで、託生のサインが欲しいんだ」 「え?」 「佐智との約束を託生が破ることはないってのはわかってるけど、このままじゃ本人同士の口約束だろ?コンサートってのは観客も入るれっきとした仕事の場だから、うやむやにはできないんだ。だから、出演を決めたのなら、きちんとした形で佐智側に示すのが、佐智への礼儀だと思う」 そう言いながら、ギイはテーブルの上に置いた封筒を手に取り、胸ポケットに挿している万年筆を抜いた。 さすが、ギイ。そういうことまで、全然気が回らなかったよ。 佐智さんがなにも言わなかったのは、ぼくを信用してくれている証拠だと思うけれど、これとそれとは別。 レコーディングに呼んでもらい、そしてコンサートの出演までさせてもらう身なのだから、ギイの言うとおり、きちんと書面で表すのが礼儀だ。 ギイに差し出された万年筆を受け取り、厳かな気持ちで目の前に置かれた紙に向かい合った。 「ありがとう、ギイ。どこに書けばいい?」 「この下の部分に………」 「漢字?アルファベット?」 「漢字でいいよ。自筆なら、なんでもいいから」 「うん………これでいい?」 ギイが指差した箇所に丁寧に名前を書いて、確認するようにギイを仰ぎ見ると、 「あぁ、これでいい。じゃ、明日、佐智の方に送るな」 そう言って、ギイは丁寧にファイルに挟んで、また封筒の中に入れた。 「その日は、オレも必ず聴きに行くからな。楽しみにしてる」 「うん」 同じ曲はCDでも聴けるけど、多忙なギイが必ず来てくれるのなら、ぼくもがんばらなくちゃ。 抱き寄せられるがままギイの肩に頭を預け、うっとりと目を閉じていたのだけど、ぼくの髪に指を絡ませて遊んでいるギイから、なんとなく躊躇っているような印象を受け、肩口から顔を上げた。 「ギイ?」 なにやら考え込んでいたのか、ハッとしてギイがぼくの顔に視線を移し苦笑する。 「あぁ、すまない。ぼんやりとしていたみたいだ」 その台詞と表情に、違和感を感じる。ぼくに話があるように見えたのだけど、気のせいだったのかな。 しかし、ギイの顔に疲れが滲んでいるのは事実なので、 「疲れてるんじゃない?シャワーでも浴びてきたら?」 今日は、少しだけだけど早く帰れたのだから、早めにベッドで休んでもらおうと声をかけたものの、 「あぁ、そうだな。………託生も一緒に入るか?」 意味深にニヤリと笑ったギイに、やっぱりいつものギイだったと溜息を吐いた。 でも、口にしただけかもしれないのだけど、ぼくだって、そういう気分のときがある。特に今日は、興奮冷めやらぬという状態だし。 「んー、じゃ、入ろうかな」 ぼくの返事に、おや?という風に片眉を上げ、 「珍しい」 大仰な口調で言うも、ギイの目の色が一瞬で欲望に染まったのを見て、意地悪くそっぽを向く。 「そんなこと言うのなら、入ってあげない」 「それは困る。託生、入ろう?」 「入らない」 「託生くん、入ってください」 「やだ」 「……と言われても、連れて行く」 「うわっ、ギイ………っ!」 言うなり、ぼくを抱き上げたまま長く濃厚なキスをして、 「今日は、かわいいツチノコが見れるかな」 やけに嬉しそうに顔を覗き込んで、ぼくを赤面させた。 翌日、ギイが仕事に行く前に大樹の部屋を覗き、短い時間だったけどギイを独占できたことに、昨日とは打って変わって上機嫌になった大樹をスクールバスの停留所まで送り、次は一颯の幼稚園に、と車で送ってもらっているとき、 「マミィ。佐智さんのコンサートに出るの?」 一颯が首を傾げて聞いてきた。 昨日話をしたときには、もう半分寝ていたから、今頃になって思い出したのだろう。 「うん、来月ね」 「バイオリニストになるの?」 「え………?」 「だって、バイオリンを皆の前で弾く人って、バイオリニストなんでしょ?」 「そうだね。でも、ぼくは違うよ」 「どうして?皆の前で弾くのに、バイオリニストじゃないなんておかしいよ。マミィは、コンサートに出るんだから、バイオリニストになるんだよ」 「一颯………」 一颯が言いたいことはわかる。人前で、しかもコンサートでバイオリンを弾く人間は、バイオリニストしかいないと。 でも、ぼくは、プロじゃない。これを仕事にしているわけでもない。 そう自分に言い聞かせている頭の片隅に、ギイの声が聞こえてきた。 『観客も入るれっきとした仕事の場だ』 昨晩、ギイが言った言葉だ。 客席の人は、自分のお金を払って音楽を聴きにきている。そんな中で、アマチュアですと、紹介できるのか?そんな甘い考えで、舞台に立てるのか? 今になって、佐智さんのコンサートに出演することの意味の大きさに気付き、体が震えた。 ぼくは、このままでいいのか? |