● ● 永遠という名の恋 -5- ● ●
誰しも、忘れてしまいたい記憶がある。けれども記憶をまっさらにする事はできない。だから、忘れたふりをして辛い記憶を封印する。生きていくための防衛本能だ。
褒められて育てられた子供は、自分に揺るぎない自信がある。けれども、親に無関心で育てられた託生には、何に対しても自信がない。本当にこれでいいのか、それとも間違っているのか、教えてもらえなかったからだ。 学生時代から無意識に一歩下がった場所に、託生は立っていた。 だからと言って人の言動に無関心なわけでもない。頭で考えるより、感覚で全てを吸収する。自分にとって必要な事も不要な事も全てだ。それで傷つく事も多かっただろう。 でも、それは、託生のせいじゃない。 誰にも選別する方法を教えてもらえなかったんだ。全部吸収するしか方法がなかった。 内なる記憶。託生さえも忘れていた小さな頃の記憶。心の奥底に眠っていた託生のインナーチャイルドが、一気に表面化した。 託生から全ての話を聞いていると思っていた。いや、託生自身、封印していたのだから話す術もなかったのだろう。 日常生活の中で、一つ一つは些細な出来事であろうとも、産まれてから長期間も積み重なれば心が壊れる。壊れる前に封印した託生の本能は正当な判断だ。 しかし、今、この時。 その全てを思い出した託生には、あまりにも過酷で残酷な記憶だった。 ゆっくりと時間をかけて治療していくつもりだったのに、次から次へとフラッシュバックを起こし、託生の心が休まるときがない。けれども、託生の側についていたくとも、学生の時とは状況が違う。どれだけ休みたくても仕事は待ってくれない。 あまりのショックに熱を出し、ぐったりベッドで横になっている託生を見ながら、今後のことを考えていた。 「託生、本宅に帰ろう」 だから、誰か託生の側についていてほしくて提案した。 とたん託生は涙ぐみ、必死に首を横に振る。 「向こうなら、お袋も絵利子もいる。オレも本宅から仕事に行くから。だから」 「いやだ」 「どうして?」 「会いたくない……お義父さんにもお義母さんにも、会わす顔がない」 「そんなことあるわけないだろう?」 「子供産めないんだもん。ぼくは責務を果たしてない」 「責務ってなんだよ?オレがいらないって言ってるんだ。託生のせいじゃない」 何度子供の事を考えなくていいと言っても、託生は納得しなかった。封印していた記憶と子供を切り離さなければ、いつまでも前に進めない。 「そんな人間じゃないのは、知っているだろう?」 「わかってる。わかってるけど、会えない……」 それ以上無理強いする事ができなくて、せめてメシだけは食べてくれと約束させ、メイド達にも指示を出し、後ろ髪を引かれつつも仕事に戻った。 後日、病院に連絡をし一度だけマンションを出たときの事だ。 偶然に見かけた子供に自分と重ねあわせたのか恐慌状態に陥った。 病院に着くなり鎮静剤を打ち、落ち着いてから医師と一緒に託生の話を聞いたのだが、「迷子」になった時の事を思い出したそうだ。小さい頃、親の足の速さについていけなくなって逸れてしまい、捨てられたんだと思ったらしい。その時の気持ちがフラッシュバックした。 その場に慌てて戻ってきたのは兄貴だけ。 「両親から怒られて。でも兄さんが『歩くの早くて託生がついていけないんだよ』って言ったら『それも、そうね』って。けど、あんまり速度は変わらなくて、必死に兄さんの手を握ってついていったんだ」 伸ばした託生の手を握ったのは、両親ではなく兄貴だった。 尚人は、自分を必死に慕ってくれる託生を愛おしく思い、託生は尚人だけが自分を見てくれる存在だと、そんな小さな頃から気付いていた。 親に捨てられる恐怖。託生の心に、どれだけの傷を残したのだろう。 そして、託生を病院に連れて行けたのは、その一度きり。その時の恐怖感からか、怖がって部屋から出なくなった。 何がきっかけで起こるかわからないフラッシュバック。 泣いて抵抗する託生を無理矢理連れて行くことなんてできなくて、「薬を取りにいってくる」と託生の様子を伝えるために、オレだけ病院に行くようになっていた。 「崎さん。いつかは認識しなければならなかったんです」 「でも……」 あんなに憔悴しきった託生を見るのは初めてなんだ。もっと別の方法があったのではないか。そう思わずにはいられない。 「今がスタートなんです。託生さんは大丈夫ですよ、貴方がいるのですから。だからこそ結婚をOKしたんです」 医師の言葉にほんの少し気分は浮上したが、だからと言って、今オレにできることは限られている。どうしたら………。 「その証拠に、崎さんの立場を考えて離れたほうがいいと思っているだけで、託生さんは貴方の心を拒否していないでしょ?それどころか、貴方が離れていく事を恐れている。矛盾してますが、託生さんの本心です」 それは、わかる。 「別れてほしい」 と言いつつも、オレを見る目は不安に震えていた。 オレが託生を捨てるなんて、ありえないのに。 子供の事は考えなくていい。託生だけでいいんだと、何度もそう言っているのに……。 言葉では納得できない何かがあるのか?どうやったら、託生の心にオレの言葉が届いてくれるんだ。 「落としどころがどこかはわかりませんが、託生さん自身が納得できるところがあるはずです。ただ、今は表面化した自分に振り回されている状態なので、パニックになっているかと思われます」 「どうしたら………」 「その時は、抱き締めてあげてください。そして落ち着いたら、当時託生さんがどう思ったのか、どう感じたのかを、ゆっくり聞き出して肯定してあげてください。自分は何も悪くなかったのだと思う事で、自信がつき自分を認められるようになります。そうすれば、おのずと子供の事も整理して考えられるのではないでしょうか」 複雑に絡まった糸。その糸口さえまだ見つかってはいない。 ただ託生を抱き締めて声をかけるしかできないオレを、空虚な無力感が包み込む。 「崎さん」 「あ、はい」 うっかり自分の世界に入り込んでしまったオレは、医師の呼びかけに反応が遅れてしまった。そんなオレに頓着せず、医師は、 「貴方自身は、眠れてますか?」 と、聞いてきた。 「えぇ、まぁ、一応は」 「睡眠導入剤を出しておきましょう」 「いえ、オレは」 いざというときに目が覚めなければ、託生を抱き締められない。薬を飲むわけにはいかない。それに睡眠不足なんてオレの日常の一つだ。まだいける。託生の苦しみに比べたら雲泥の差だ。 医師は「うーん」と首を捻り、重ねて聞いてきた。 「託生さんがうなされるのは、寝入ってからどのくらいですか?」 「だいたい……三時間後くらいですか」 毎晩、可哀想なくらい必ずうなされ、涙を流す託生。あんな託生を一人で泣かせたくはない。泣くならオレの腕の中で泣いてほしい。 「じゃあ、安心して飲んでください。効き目は二時間で切れます」 「いえ、だから………」 「先は長いんです。がんばりすぎて共倒れになっては本末転倒ですよ。崎さん、貴方しか託生さんは救えないんです。だから、私はそのお手伝いをしたいと思ってるんです」 にっこり笑った表情の裏に、オレの焦りを指摘されているような気がした。 |