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●  振り向けば、ただありふれたペンの先 -2-  ●

「ポンポン出張を入れてくれるけど、オレ、まだ学生なんだぜ?」
 綺麗さっぱり忘れているような有能秘書にクレームをつけるも、
「日本に行く前に、MBA(Master of Business Administration・経営管理学修士)は取っていらっしゃったはずですが?」
 なにをトボけたことを?と言いたげに、島岡はチロリとオレに視線を移した。
 確かに、祠堂に行く前に取ったけどな。
 明日の出張に備え、用意された各資料に目を通しながら溜息を吐く。
「専門が違うだろうが。今回はlaw school(法科大学院)だぞ?」
「J.D.(Juris Doctor・法務博士)は持っていらっしゃいましたよね。法律家になられないのなら、LL.M.(Master of Laws・法学修士)まで必要はないと思いますが」
「どうせなら弁護士資格も欲しいよなぁ。ニューヨーク州だけでもいいから」
「………義一さん」
「託生になにかあった場合、使えるだろ?」
 オレの言葉に、島岡が押し黙った。
 本来なら、日本の法律を学ばなくてはいけないのだろうが、生憎そこまでの自由はない。それならば自国の法律を徹底的に叩き込む方が早い。
 いざというときに、オレが対処を間違えるわけにはいかないのだから。
「会長とのお約束は二年でしたね」
 深い溜息を吐き島岡が確認する。
「あぁ。LL.M.過程は一年だけど、初めから二年かけて取得するつもりだからな。その代わり余裕がある分、仕事はできるだろ?」
 ついでに、大学に行っていると思っている託生の目くらましにもなる。さすがに、スキップして大学を一年で卒業は、あまりにも無茶な話だ。
「卒業されたときには、目一杯働いていただきますからね」
「……ほどほどにしてくれよ?」
「二年後、私が覚えていたらいいですね。こちら、杉浦商事の資料です」
 意趣返しか、澄ました顔でドサリと書類をデスクに置き、
「一時間で、お願いします」
 鬼のようなことを言い置いて、島岡が退室していった。
 あのやろ。絶対忘れないくせに、なにを言ってやがる。
 託生との時間が少なくなることは覚悟しているけれど、託生不足になったらオレは動けないぞ。そのときは、ボイコットしてやるからな。
 こっそり呟き、目の前の書類を引き寄せた。


 記憶力の限界に挑戦したような疲れを引きずり、本宅に戻ったのはどっぷり夜も更けた頃。
 朝から託生の顔を見ていなかったオレは、そのまま託生の部屋に直行しドアをノックした。
「おかえり」
「ただいま」
 嬉しそうに出迎えてくれた託生を抱きしめ、口唇を重ねる。
 ただいまのキスにしては深く長いキスをして、託生の感触を確かめた。
 ………あぁ、生き返る。
 口唇を離したあとも、肩に頭を預けて目を閉じる託生が愛しくて、黒髪の感触を楽しみながら撫で下ろしていたオレの視界に、それは飛び込んできた。
「どうしたんだ、その本?」
 テーブルの上に置いてある『アメリカ留学ガイド 』。もちろん、日本語。ただし、前年度版だ。
 オレの問いに首を傾げ、視線の先を振り返った託生は「あぁ」と頷いた。
「ALPで一緒の人がくれたんだよ」
「どうして?」
「前にね、みんなで昼食を食べていたとき、ALPの受講が終わったあとどうするんだって話になって、ぼくが音大を受験するって言ったら、『もう必要ないから捨てようと思ってたんだけど』って、今日持ってきてくれたんだ」
 下心で持ってきたのか、純粋な好意で持ってきてくれたのか。その場にいなかったオレには判断がつかないが、それは問題ではない。ここに存在することが問題なんだ。
 『アメリカ留学ガイド 』
 アメリカに留学しようと考えている日本人ならば、たぶん一度は手に取るに違いない留学の手引書。
 しかし、託生にはオレがいた。
 学生ビザを取得する手続きを初め、全ての書類の取り寄せ、病院の手配を、オレが託生に代わり準備した。
 もちろんビザの面接など、託生自身がするべきことはあったが、まだ術後一ヶ月ほどの状態の託生に無理させることなど言語道断。
 それに、託生がNYに来てくれるためなら、複雑な手続きなど喜びに代わった。
 だから、オレの指示通りに動くだけの託生は、このような本の存在を知らなかったはずだ。
 それを、なんで今更………。
「でも、託生にも必要ないだろ?」
 本心に気付かれないよう、何気ない雰囲気を映しソファに座った。
 オレも読んだことはないが、分厚いその中には、ありとあらゆるアメリカ国内の大学の説明が載っているのだろう。………NYにある音楽大学の全てが。
 あの放課後の第一校舎の廊下で、託生と会う口実のためにジュリアードとマンハッタン音楽院の名前を出したが、今になってその選択は正しかったのだと思っていた。
 この二校であれば、今と同じような生活を送れるのだから。
 警告が鳴っている。他の音大の存在を託生に気付かれてはいけないと。
「そんなことないよ。去年のものだから日程が違うけど、手続きとか詳しく載ってるし。そろそろ本腰入れて大学のこと考えなきゃいけないし」
 願書の締め切りは、大抵の大学が十二月から一月。託生の言うとおり、そろそろ受験する大学を決め、願書を集めないといけない。
 しかし………。
 猛スピードで思考を巡らす。託生が気付かない方法を。どうやって、この本を託生の元から排除するのかを。
「だったらさ、今度、オレと願書を取りにいかないか?ジュリアードとマンハッタン音楽院へ」
 苦し紛れに零れた案は、オレとしては自画自賛できるものだったと思う。
 キョトンと見返した託生に、本から関心をそらすように畳み掛けた。
「ギイと?」
「なにか質問があったらその場で聞けるし、もしものときには、この優秀な頭脳が託生に代わって覚えているからさ。ついでに、中を見学させてもらうのもありだろ?」
 オレの言葉に託生は腕を組んで考え込んだ。
 アメリカに来て半年足らず。数ヶ月ALPに通っていることと、基本家族以外との会話は英語での日々を過ごしているせいか、リスニングはほぼ完璧に近い状態なれど、話すとなるとまた別問題。
 しかも、大切な受験の手続きに関することだ。
「んー、でも、自分でやってみる。わからないところはギイに聞くかもしれないけど」
 てっきり了承すると思っていたオレは、託生の答えに固まった。
「え………」
「ギイも忙しいだろうし、おんぶに抱っこばかりなのも改めないとね」
「い……いや、オレは全然かまわないぞ?明日にでも行くか」
「なに言ってるんだよ。明日から出張なのに」
「じゃあ、出張から帰ってきたら行こうぜ。その翌日は休みだから。な?」
「でも、ギイ、疲れてるだろうし……」
「そんなことないぞ。託生と一緒のほうが疲れが取れる。だから一緒に願書を取りに行こう」
「う……うん………」
 オレの勢いに飲まれたかのように、託生が頷いた。
 よしっ!
 ………そこで、一度話を切ればよかったんだ。
 別の話題に持っていって、部屋を出る直前に軽く「いらないだろ?」と持ち去るとか、それこそベッドに誘って託生が寝ている間に隠してしまうとか。
 そうすれば、託生にいらぬ誤解をかけることもなかった。
 しかし、仕事の疲れからか深く考えることを忘れ、
「じゃ、この本はいらないよな」
「え?」
「手続きも全部、オレが一緒に見てやるから」
「いや、ぼくだって、しっかり自分で確認したいし」
 すぐさま、託生の目の前から本を取り上げようとした。そして、託生の表情を見て、瞬時、自分の対応のミスに気付き頭を抱える。
 こんな怪しい行動、さすがの託生でも不審に思うぞ。
「ギイ、なにか怒ってる?」
 取り繕うと必死で言葉を探しているオレに、託生が顎を引いておずおずと聞いてきた。
「そんなことないぞ」
 それには、きっぱり否定する。
 自分が不利になる材料を託生の元に置いておきたくないだけなんだが。
「でも、なにか気に入らないんだろ?」
 しかし、妙なところで勘が冴える託生には、ポーカーフェイスが利かないらしい。
 そのとき、本についてある付箋に気がついた。託生の文字ではない、誰かがつけてくれたらしい『ジュリアード音楽院』と『マンハッタン音楽院』と書かれている付箋。
 これだ!
「ギイ?」
「……古本とは言え男からのプレゼントは、認められないな」
「プレゼントぉ?!」
「これ、男からだろ?」
「………そうだけど」
 わざわざ親切心でつけてくださっているらしい付箋の文字は、男の文字だもんな。
 本を渡した時点で託生は気付くだろうし、素直な託生は感激して、にっこりと相手に「ありがとう」と微笑んでいただろう。
 ………よくよく考えれば、これは、立腹に値する。オレという婚約者がいるのに、託生に微笑みかけられるなんて。
「だから、これは没収」
「…………」
 こんな横暴なことをすれば、普段ならギャンギャンと文句をつけるだろうに、託生は口を閉ざしオレを見上げた。
 まるでオレの本心を見極めるように、じっと見詰める託生にうろたえながら、二人を包むこの沈黙の空間になんとなく既視感を感じる。
 以前、これに似た空気を感じたことがある。あれは、いつだったか。
 手のひらが汗に濡れ、必死になってポーカーフェイスを維持しつつ、託生の視線を受け止める。
「ぼく、そんなに頼りないんだ」
「え?」
「そりゃ、今は大学の登下校に使う道くらいしか知らないし、自分でも騙されやすいと自覚してるけど、ギイに言われた注意事項は守ってるつもりだよ。でも、ギイはぼく一人では危なっかしいと思ってるんだ?」
 思い出した………!
 あの305号室で、軽口のつもりで鈍いと評し、託生を傷つけたときと同じ空気だ。
 託生の目が涙で揺らめいている。
「そんなことは思ってない。ただオレは一緒に………」
「嘘だ」
 間髪入れずに否定する言葉が、深刻さを増す。計り知れないほどの傷を、オレがつけた。
「願書は自分で貰いに行く。自分のことは自分でする」
 ピリピリと肌に刺さるように、託生の思いが流れ込んでくる。
 オレの独占欲が招いた誤解をどう解けばいいのか。
「ごめん。今はギイの顔を見たくない」
「託生………」
 くるりとオレに背を向け寝室に入った託生にかける言葉も見つからず、オレは部屋を出ていくしかなかった。
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