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●  雪に残った足跡-9-  ●

 いつものように、ほんわりと無垢な笑みを浮かべた託生を一瞬だけ勘違い男に見せ、コートで託生を包んだ。即効性だから、たぶん意識は朦朧としているだろうが、会話が聞こえないように、託生の耳を腕で押さえる。
 こんな託生を誰にも見せたくないのに、一瞬だけでも見れたことに感謝しろ。これほど幸せそうな託生の笑顔は、オレの腕の中でしか見れないんだよ。
 勝ち誇ったようにニヤリと笑ったとたん、男の顔が怒りに満ち、真っ赤に変わる。
「お……俺という男がいるのに………!」
「いいかげんにしろ。迷惑なんだよ」
「迷惑なのは、お前だ!タクミと俺は………!」
「託生と手を繋ぐことも、キスすることも、ましてや抱き合うこともないのに、よくそこまで妄想できるよな。夢と現実の区別ぐらいしろよ。託生が愛してるのは、このオレだ。お前じゃない」
 自分で口にして、そういうことを、こいつが想像しているだろうことに気付き、舌打ちをする。他人の男に脳内であれ、託生がどうこうされるなんて、腸が煮えくり返りそうだ。胸糞が悪い。
 ふいに腕の中の託生から力が抜け、慌てて抱きなおす。と同時に、いつの間に戻ってきていたのか島岡が現れ、
「準備完了」
 一言耳打ちして、オレの手からバイオリンと荷物を取り上げた。
 軽く頷きながら託生を抱き上げ、頬にキスをする。
 ごめんな。お前には聞かせたくないんだ。
「お前、託生になにをした!」
「眠らせただけだ。これで、お前とさしに話せる」
 言いながら、男にゆっくりと視線を移す。今まで故意に隠していた本心を曝け出して。
 こんな空気に触れてしまえば、託生が怯えてしまうだろう。しかし、守りたいと思っているただ一人の人間を傷つけられた怒りは、昨日から燻り続けているんだ。
 モノクロの景色の中、ターゲットのお前だけが浮かび上がっている。
 退学だけで終わらせない。NYから追い出すだけでは、腹の虫が収まらない。
 お前は、託生の心を傷つけた。それなら、その高いプライドってやつを、ズタズタに形残らず切り裂いてやる。
「さっき金と顔だと言ったな。じゃあ、それ以外で、お前がオレに勝っているのはなんだ?お前のなにを見て、託生が好意を寄せるんだよ?」
「ふん。さっきのは物の例えだよ。俺なら、そんなちっぽけな指輪より、もっと立派なヤツを買ってやれる」
「託生は、大きくても小さくても、宝石はただの石だと言い切るヤツだぜ?その立派な指輪ってヤツを贈られても迷惑だと」
「それは、貧乏人の自己弁護だ」
「へぇ。金しかオレに勝てるものがないのか。可哀想なヤツだな」
 実際は違うけど。鼻で笑って男を挑発する。
 プライドの高いヤツらしいから、バカにされ笑われるのは到底許されない行為だろう。
 案の定、カッと赤を散らし体の横で拳を握りしめた。
「ひ……広い心だ!タクミが過去どれだけ男と関係があっても、俺は許せる!」
 勘違い男の台詞に、背後の人間の視線が鋭くなったのが見える。
 事ここに来て、この様子を窺っている人間達の視線に、男への苛立ちと怒りが混じっていることに気付いた。
 なるほどな。どうも周りはオレの……いや、託生の味方ばかりのようだ。
 二人の会話を娯楽として楽しんでいたというよりは、男が託生の態度にイラつくのを、ほくそ笑んで見ていたわけか。
 そして、自分が笑われていたことに、この男は気付いていない。
 なぜなら、自分は特別な人間だから。一般人とは比べ物にならないくらい素晴らしい人間だから、一般人が笑うことはおろか、感情をぶつけられることはあり得ないと、そう確信しているのだろう。
 それなら、どう思われているか骨の髄まで実感してもらおうか。
「ほんと、想像力豊かだな。人の婚約者でそこまで妄想できるのは、一種の才能かもしれないけど。じゃあ、調べてみろよ。託生が過去に付き合った男は一人もいない」
 これは事実だし、否定はしておかないとな。託生が起きてたら、また兄貴のことを思い出してしまうかもしれないから言えないが。
「そんなはずはない!昨日、聞いたら顔色を変えたぞ!図星だったから……」
「タクミが飛び出したのは、それが原因かっ!」
「お前、最悪な人間だな」
「最低ーっ」
 あちらこちらから、男を非難する声が上がる。
 昨日、佐智の実演講義に託生の姿がないのを心配していたのは、佐智だけではなかった。
 元々少人数のマネス音楽院。すでに、バイオリン科全員の顔合わせは終わっており、誰か一人がいなければ、すぐに気付いてしまう。
 佐智の話によると、託生に対して好印象を抱いている人間がほとんどらしいし、昨日だって、佐智の講義ギリギリまで探してくれていた人間がいると聞いている。
 歳相応に見えないことと、この性格が功をなし、好感度でバイオリン科に溶け込んでいるらしい。今の光景を見ると、多少マスコット的扱いのような気がしないでもないが。
 ついでにと、佐智はピアノ科の人間にも話を聞いていた。もちろん男の評価を。
 横暴で癇癪持ち、気に入らないことがあればすぐに怒鳴り散らし、自分のミスを他人に擦り付ける、所謂嫌われ者。
 こいつが託生に目をつけたのは、ペアを組んだことだけじゃない。託生しか、相手にしてもらえなかったからだ。
 だからと言って、同情も情けもかける気はないけどな。
「お前、大和撫子を知らないのか?日本人女性は繊細なんだ。そんな下品な侮辱、ショックを受けて当然なんだよ。そこがアピールポイントと胸を張れるなんて、チェリーボーイの思い込みってのは、すごいもんだな」
「な………っ」
 プライドだけは高い勘違い男だ。とことんバカにした言葉を投げかけ、畳み掛けるように言葉を続けた。
「あぁ、そう言えばハイスクール時代、プロムに誘った女性全員に断られたらしいじゃないか。その中には、プロムに行かなかった人間もいたよな。お前と行くくらいなら、プロムを諦めるとは、ベストな選択だ」
 ニッと笑って、こいつのウィークポイントを刺激する。
 直後、勘違い男の背後から、クスクスと笑いが起こる。
 プロムはハイスクール時代最後の一大イベント。女性ならば、好きな男にエスコートされて目一杯着飾ってダンスを楽しみ、思い出を作る。誰もが楽しみにしているプロムの思い出より、こいつと行くことを拒否したわけだ。
「でっち上げだ!」
「そのときの暴行事件が原因で、NYに来たんだったなぁ。名前と出身地だけで、すぐにお前のことは調査がついた。親がもみ消したみたいだけど。あぁ、チェリーボーイってのは謝っておくよ。合意ではなかったけど、経験はあったようだし」
 オレの言葉に、ざわりと周りの空気が動く。様子を窺っていた女子学生が男から遠ざかるように、一歩後ろに下がった。
 暴行事件イコールレイプだと、誰でも気付いただろう。
 だいたい、こういうヤツが、今までなにも事件を起こさずに、生きてきたわけがないんだ。
 案の定、地元では誰もが知っていたことであり、ほとぼりが冷めるまでと親がNYに逃がした。
 隠していた過去を暴かれ、それこそ言葉を失った男の顔が見る見る青ざめていく。
「いい病院を紹介してやるぜ?ここ専門の」
 自分の頭を指差しながら揶揄したオレの言葉が終わる前に、悲鳴が上がった。
 激高してナイフを手にした男が切っ先を向けて走ってくる。
 五メートル、四メートル、三メートル………。
 車の陰から飛び出したSPが足払いをしつつ腕を確保し、雪が積もったコンクリートの歩道に押し倒した。ナイフが横に転がっていく。背中側で腕を捻られ勘違い男がわめき散らした。
「痛い!離せ!離せよ!腕が………!」
「暴れると、筋を違えるぞ。ピアノ科の人間には致命的だろ?」
 もう、やっちまってるかもしれないが。力の加減をしろなんて言ってないし。
 それを合図に、その辺りに身を潜めていたSPがオレと託生を守るように取り囲んだ。
 常時SPがガードに付くほどの人間ってのは、それほど多くはないよな。実際、この男にSPがついているような気配はないし。
 片田舎では、親の権力と金でやりたい放題していたらしいが、所詮崎家とは格が違う。
 日頃、鬱陶しいと思っている地位も名誉も金も、雲泥の差。一捻りで潰せるだけの力を、オレは持っている。
 こうやってお前に見せ付けるのは、託生を軽んじ傷つけたお前の、なによりも大切らしいプライドを叩き潰すためだ。
 一歩前に出て足元に転がっている男を見下ろした。
「タクミが愛してるのは俺なのに!邪魔するな!」
「いつ、託生がお前のことを好きだと言った?」
「言わなくても、わかる!」
「へぇ。まだ、そんな口を利けるのか。ま、例えそうであっても、託生は渡さないし、お前はもう二度と託生の顔を見れないぜ」
「どういう意味だ!」
「昨日、一枚のメモリーカードを貰った」
「それが、なんだ!」
「佐智が置いていったものだ。聞いてみたけど好き勝手に色々言ってくれたよな。オレがDV(ドメスティック・バイオレンス)だって?」
「サチ………サチ・イノウエ?」
「そう。バイオリニストのサチ・イノウエ。昨日、話したんだろ?オレの幼馴染で、託生の友人のサチ・イノウエと」
 オレの台詞に、男の顔色が紙のように真っ白になった。
 そりゃ、そうだろ。
 暴力暴言で託生が毎日泣いてるって?体中、痣だらけだと?いつか婚約者から託生を助けるなんてことを、佐智相手に力説していたよな。
 あまりにも力説しすぎて、佐智が嫌悪感に顔を歪ませていたことさえ気付かなかったみたいだし。
「サ………サチ・イノウエは、タクミを友人だとは………」
「別に言う必要はないだろ?たまに、託生のストラディバリウスを弾きに来てるぞ。元はオレのだけど」
「ストラディ………?」
 金持ちのお坊ちゃんでも、ストラディバリウスを買うだけの金は持っていない。買おうとすれば、それこそ会社を叩き売りにでもしないと、金は揃わないだろう。そこまで資本力のある会社じゃない。どちらにせよ、ピアノ科のこいつには関係ないが。
「これって、侮辱罪に名誉毀損だよなぁ。オレは託生みたいに優しくないから、徹底的にやるぜ?」
「い……慰謝料くらい、どうにでも………!」
「誰が個人で訴えると言った?Fグループ次期総帥崎義一で訴えるさ」
「Fグループ………?」
「すまないな。たぶん金もオレの勝ち」
 散々、自分より財力が下だと思ってバカにしていたみたいだが、最初から勝負にならない人間なんだよ。反対の意味でな。別に興味はないけど。
 こういうヤツは総じて小心者。なのに誰に対しても見下す態度なのは、なにか一つ自信を持っているから。その自信の下に、誰もが自分にひれ伏すと思い込んでいる。
 そんな思考の人間を、黙らせるのは簡単だ。
 地位には地位を。名誉には名誉を。財力には財力を。そいつより上のレベルを見せつければいい。
 そして、その自信を砕けば、こいつにはなにも残らない。
 傲慢に睨みつけていた目から光がなくなり、減らず口を叩いていた五月蝿い口元は、だらしなく開いたままだ。
 負けることが、それほどショックか?世の中、上には上がいるんだよ。これぞ、井の中の蛙大海を知らず、だな。
「とは言え、裁判に時間を取られるのは面倒だから、手っ取り早くやらせてもらう。これからどうなるか、楽しみにしておけよ」
 片頬だけ歪ませ、無様に転がっているヤツを一瞥する。
 もう聞こえていないかもしれないが。
「自分が蒔いた種だ。自分でなんとかしろ。………なんとかできるのならな」
 目の端に、島岡が一人の学生に封筒を渡しているのが見えた。一言二言言葉を交わし、隣の友人らしき人間と、慌ててもう一度学内に入っていく。
 男との間にSPが壁のように立ちはだかり、滑り込むように停止したリムジンに乗り込んだ。ゆっくりと託生をシートに寝かせコートを調える。
 運転手がドアを閉め、ふと見たスモークガラスの向こうには、さっきと変わらない光景が写っていた。
 押さえ込んでいたSPが開放しても男は身動き一つせず、降り出した雪を振り払うこともなく、無様な姿をそこに晒している。
 そして、興味がなくなったかのように、誰も声をかけることなく、皆が散り散りに帰路についていった。
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