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●  雪に残った足跡-4-  ●

「それで、託生くんは大丈夫なのかい?」
 佐智が心配げに問いかける。
 マネス音楽院に行ったものの、約束をしていた託生がいない事実に疑問を持ち、そのまま本宅を訪れ、ちょうどこちらに向かおうとしていた絵利子と合流したらしい。
「寝ているからなんとも言えないが、たぶん大丈夫だと思う」
 ただしバランスが崩れた状態から呼び戻しただけで、原因追求はこれからだ。
 寝室の隣。ドアを挟んだオレの部屋のソファに座っている佐智と絵利子の前に、コーヒーを入れたカップを置いた。
 リビングに通すことも考えたが、今はあまり託生の側を離れたくなかった。
 こちら五番街のペントハウスは、高校時代に数日泊まっただけ。あまり託生には馴染みがない場所で、一人きりにしたくはない。
「実際、よくがんばってるよ、託生くんは。なんらかの精神障害を起こす人も多いし、最悪、自我が崩壊することもあるんだろ?」
「あぁ。性別が違ってたってのは、今までの人生をひっくり返すようなことだもんな。それに、アメリカに来たことも、かなりのストレスになっているだろうし」
 単純に留学しただけの人間でも、うつ病になることは多い。言葉の壁、習慣の違い、慣れない環境での勉学。不安や孤独感を味わい、精神的に参ってしまう。
 ………あぁ、昔、三洲にも言われたな。

『渡米するのは諸刃の刃だ。しかし、その方法しか取れないのなら、葉山の精神力にかけるしかないな』

 オレが隣で支えることを承知の上で、それでも不十分なのだと、気をつけてやれと注意を促した。
 祠堂を卒業する最後の最後まで、託生のルームメイトとして、良き理解者として、託生の身を案じ気にかけてくれた友人。
 NYに来て一年半。
 たまに不安な表情をすることはあったが、ここまで心のバランスが崩れたことはない。
「佐智。マネス音楽院で、なにか気付いたことはなかったか?」
 託生とは入れ違いではあるが、もしかしたらオレが知らない事実があるかもしれない。
「あったよ。託生くんが真っ青な顔をして、大学を飛び出して行くのを見た人もいるし」
「教えてくれ!」
 生真面目な託生が、連絡もなしに約束を破るなんてことはあり得ないと調べてくれたのか、佐智はあっさりと頷き、噛み付くように問いかけたオレに向き直った。
「なにがあって飛び出したのかまではわからないんだけど、先月から、託生くん、ピアノ科の男に絡まれてるらしい」
「絡まれてる?」
「ランダムにピアノ科の人間と組んで演奏するっていう課題で、一度組んだだけらしいんだけど、勝手に恋人認定してるみたいな?」
 バイオリンを弾いているときの託生は、オレが嫉妬してしまうくらい幸せそうな顔をしている。音楽という海で自由に泳いでいる人魚のような美しさだ。
 その表情で、自分に好意を持っていると勘違いしたのか?
 我が婚約者ながら、あの顔は罪作りだよな。
「学内では有名みたいで、でも、託生くんに婚約者がいることも、託生くんが相手にしていないのも、みんなが知っている。だから、この頃は託生くんを守るように、学内では誰かが側についていたみたいだ」
「あのバカ。どうとでも対処を考えるのに、なぜ言わなかったんだ」
「学内のことだから言いにくかったんだと思うけど、託生くん自身、全く取り合っていなかったらしいから、それほど気にしていなかったのかもしれない」
「でも、顔色を変えて飛び出したんだろ?」
 そして、一時でも心のバランスを崩し、自分は変わったのかと、自分は誰なんだと、自分の存在そのものを疑問視するような自己否定をした。
「その辺りがわからなかったからさ、教えてくれたバイオリン科の学生に男を連れてきてもらって、直接聞いてみた。託生くんのことは、日本で知り合った一学生だということにして」
 佐智と親しい間柄なんだと知られてもかまわないが、ただの知人の近況を知りたいということなら、あることないことなんでも喋りそうだもんな。
「どんなヤツだ?」
「宇宙人」
「はぁ?」
「その男、話が通じない人間らしい。託生くんに婚約者がいることを指摘しても、知っているけど、託生くんが好意を持っているのは自分なんだと、なにを根拠に言っているのかわからないんだけど断言するんだよね。全部、自分の良いように解釈してるんだと思うよ」
 周りの人間に、託生の言い分が伝わっているのだから、おかしいのは勘違い男。託生に落ち度はない。
 考えたくはないが、もしも仮にそいつが託生に手を出す暴挙に出たら………。
 そんなことがあれば死んだ方がマシだと思える状態にまで追い込んでやるが、それが託生の自己否定に繋がるかと問われれば疑問が残る。
 しかし、そいつがオレの託生を傷つけたのは事実だ。
「託生のバイオリンがストラディバリウスだということは、学内で知られているのか?オレの素性は?」
「まだ、三ヶ月も経ってないからね。どちらも知られてないんじゃないかな。f字孔から中を覗かなきゃ、ストラディバリウスだなんて確信持てないし」
 なるほど。日本からの留学生だとしか、思ってないわけだ。婚約者がオレだと、誰も知らない。
 佐智が持ってきてくれた情報を頭に叩き込み、どうしてやろうかとシュミレーションを繰り広げようとしたそのとき、
「そういうヤツって、女性蔑視が激しいわよね」
 オレ達の会話を黙って聞いていた絵利子が、忌々しげに吐き捨てた。
「え?」
「託生さんが、ステディリングをエンゲージリングに換えるほどアピールしてるのに、聞いてないんでしょ?舐めてんのよ、託生さんを。しかも、婚約者云々でごちゃごちゃ言ってるのなら、女なんだから黙って男の言うことを聞け、なんて勘違いしてるんじゃないの?女ってだけで、いい迷惑だわ」
 まるで自分のことのように頭から湯気を出して、絵利子が怒りの表情を見せた。
「それ、絵利子の経験談か?」
「別に私だけじゃないわよ。たぶん、世の中の女性ほとんどが、多かれ少なかれ、同じようなこと経験してるはず。性別でしか判断できない、男であることしか自慢できない可哀想な人間だと思ってるけど」
 絵利子の言い分に、佐智と目を見合わせた。
 オレ達にはそういう経験がない。当たり前だ。男なのだから。
 女性である絵利子は、今まで生きてきた中で、このような不愉快なことを感じることがあったのだろう。
 しかし。
「体は女性だけど、考え方も意識も男だぞ?託生の場合、女性蔑視の発言に嫌悪を抱いたとしても、自分に当てはめるというのは考えにくい」
 だから、いつもお袋や絵利子は女性なのだからと、フェミニスト精神を発揮して丁寧すぎるほど優しく対応しているんだ。自分が同じ女性だということは、あいつの頭に欠片もない。
「じゃあ、なにがあったのかしら?」
 小首を傾げて悩む絵利子の声が空気に溶ける。それは、当事者である託生に聞くしかないな。どれだけ三人で考えても、予想の枠を超えることはできない。
 無意識に寝室のドアに目をやったオレに、
「で、義一君はどうするんだい?」
 佐智の目が、鋭く光る。
 こいつも相当怒ってるよな。大切な友人を傷つけられて、黙っている人間でないのは、オレがよく知っている。
「もちろん、勘違い男を排除する」
 二度と託生の目に付かないよう、あらゆる手を使って。
 佐智はオレの返事に満足したように笑い、
「僕が義一君と託生くんの友人だって言ってもよかったんだけど、なんだか火に油を注ぎそうな気がしたのと、僕なんかより義一君が出ていったほうが早そうだから放っておいたんだけど」
 と、意味深に言葉を切り、
「でも、気持ち悪いものを聞かされた僕としては、個人的に動きたいな」
 口調は軽いが、佐智の言っている内容が一瞬で理解できる。
「お好きにどうぞ」
 たとえオレが反対したって、お前はやるだろう?
 佐智がその場で一言言えば、火に油を注ぐどころか、一気に事態は収拾するだろう。相手は国際的バイオリニスト、サチ・イノウエだ。
 しかし、それではオレの気がすまない。自分の手で落とし前をつけないと不完全燃焼だ。託生の婚約者としてのプライドもあるしな。
 そいつを真正面から叩きのめすのはオレに譲るから、好きなようにさせろ、か。
 オレの意見なんて最初から聞くつもりもない宣言なのは一目瞭然。「だよね?」と、絵利子と微笑んで頷きあう佐智の黒いこと。
 託生にも佐智のファンにも、こんな姿見せられないな。


 帰り際。
「私、口が軽いから、お父様に言っちゃうかも」
 なんて物騒なことを、嬉しそうに言ってくれる絵利子を諌めることもせず二人を送り出し、持ってきてくれた食事を温めるために厨房に向かった。
 ポケットの中には、佐智が残してくれたメモとメモリーカード。
「ありがたく、使わせてもらうよ」
 幼馴染の友情、乾杯だ。
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