● ● ヒ・ミ・ツ(2013.2) ● ●
なかなか進まない共同プロジェクトにイラつき、ギリギリまで神経を研ぎ澄まして、疲れきった体を引きずるように走り回っていたオレの状態を考慮してか、島岡が少し早めに仕事を切り上げ、ついでに二日間の休暇を告げた。
このまま各方面と話し合いをしても、平行線だと判断したわけだ。 すでに用意されていた車に乗り込み、飛び込む勢いで帰ったペントハウスの玄関ホールで、まだ二人ともキッズルームにいると執事に知らされ、気持ちを入れ替え意気揚々とドアを開けたのだが……。 「ただい………は?」 NYの中でも超高級マンションと言われ、しかもここは最上階のペントハウスだ。 派手ではないが、そこかしこに置いてある物は全てが最高級品。 執事にメイドにシェフに運転手にと、何人もの使用人を使わないと管理できないくらい広いペントハウスの一番日当たりのいい部屋は、本来応接室として使っていたのだが、現在キッズルームになっている。 もしものときのために応接室を作っただけで、客を連れてくることは皆無に等しかったから、これと言って支障はない。 日がさんさんと差し込む室内は、大樹が転んでも怪我をしないようにとクッション材を敷き、これまた角が危ないからと家具は置かず、広々とした室内に目立っているのは、大きなおもちゃ箱とすべり台。 ……のはずだったのだが。 「ギイ、おかえ……」 「まみぃ、ちー」 「あ、あぁ、そうだったね。しーだよね」 「ちー」 異様な光景の中、クスクスと二人分の笑い声が耳に届いた。 オレの目の前には、このペントハウスに不似合いな茶色の大きなダンボール箱が、これでもかと言うくらい存在を主張している。 見間違いじゃないよな。 首を捻り振り返れば、玄関ホールを飾る花が目に映り、その向こうにメインのリビングルームに置いてある大型テレビが見える。 ふむ、いつもと同じ光景。 そして、キッズルームに視線を戻せば、チープなダンボール箱。 理由を考えるよりも、当事者に聞いたほうが早い。 近づいて箱の横に座り込み、その側面に小さく開いている穴を覗き込んだ。 「なにしてるんだ?」 「きゃーっ」 「見つかった!」 見つかったって、おい。見つからないわけがないだろ。こんな不自然に置かれたダンボールが目の前にあるのに。 大樹が中でピョンピョン飛び跳ね、ダンボールが揺れる。 「大樹、壊れちゃうよ」 「こわれうぅ?だめぇ」 「じゃ、こっちにおいで」 託生の言葉に素直に頷き、大樹は床に腰を下ろしている託生の膝に座り、オレと小さな穴を通して向かい合わせになった。 覗く四つの瞳が、なぜか嬉しそうに笑っている。 なんだろうな、この光景。 「託生」 「なに?」 「これは、なんだ?」 大樹のラクガキだろう。カラフルなマジックで、ぐちゃぐちゃに絵のような線のようなものが描かれているが、これは見紛うことなくトイレットペーパーのダンボール箱だ。 本来、裏口からオレ達の目に触れないよう、直接ストック部屋に運び入れるダンボール箱が、なぜここにあるのか。 しかも、四つ。 「秘密の隠れ家だよ」 「だよぉ」 オレの素朴な疑問に、あっけらかんと答える託生に、グラリと体が傾いた。 こんなにこんなに存在感があるのに秘密ってなんだ?てか、全然隠れてないのに隠れ家? 託生の全てを理解していたつもりだが、まだまだ奥が深いらしい。 大樹が生まれて以後、このようなことが増えてきたような気がするが、無邪気に過ごせなかった託生の子供時代を考えれば、童心に帰って楽しむのはいいことだとは思うけど。 「今日、日用品の配達があって運び込んでたからさ、貰っちゃった」 貰っちゃった、のか。トイレットペーパーの箱を。 眩暈を感じるのは、気のせいだろうか。 託生はオレの妻で、このペントハウスの女主人。 一歩外に出れば、大富豪崎家の若奥様で、Fグループ次期総帥夫人。 セレブの中のセレブな人間が、トイレットペーパーのダンボール箱ぉ? 「ちなみに聞くけど、あの奥にある箱は?」 積み上げられている同じ箱を指差すと、 「あれは、一〇〇号と二〇〇号と四〇〇号。まだ作ってないけど」 微妙に的を外れた答えが返ってきた。 聞きたいのは、そういうことじゃないんだが。 しかし、あの三つの箱がそれなら、この目の前にある箱は三〇〇号ってことなんだな。いや、それよりも中途半端な数字から始めるなよ。意味はなんとなくわかるけど。それなら三〇五号でもよかったんじゃないかと思うんだが。というか、託生、もう少しネーミングセンスをなんとかしようか。じゃなくて! 現実逃避し始めた己の思考を手繰り寄せ、託生と向き直る。 「あのな、託生」 「うん?」 「こういうの、トイショップに売ってるよな」 もっとカラフルで、もっと大きくて、可愛らしいデザインの。なんだったら特注したってかまわないのに。 「別にいいじゃない。リサイクルにもなるし、大樹も喜んでるし。ねー?」 「ねー」 可愛らしく大樹と頷きあって、オレの提案をぶっ飛ばしてくれるが、そういう問題なのか? なぜか、ものすごく会話が噛み合わないような気がするんだけど。 「ギイも入っといでよ」 「オレも?」 「そっちにドアがあるから」 託生の言葉に覗き込むと、四角く切り込みが入ったドアらしきものがあった。ドアノブは二つ折りにしたガムテープ………あぁ、やっぱり三〇〇号だったか。 大樹のらくがきに隠れることなく、くっきりと黒マジックで書いてある。 「ちっさ……」 「そりゃ大樹用だもん」 体を横にして、潜り込むように箱の中に入ったオレをけらけら笑い、一層狭くなった箱内に、大樹が興奮して飛び跳ねる。 「大樹、壊れるぞ」 「だーめーっ」 「ダメって言うんなら、大人しくしろ」 はしゃぐ大樹を左腕で捕まえ、右腕を託生の首に回し、二人の頬にただいまのキスをしたら、ほぉっと体から力が抜け安堵の溜息が出た。 この二人の存在を肌で感じ、やっと我が家に帰ってきた実感がする。玄関のドアを開けてから、だいぶ時間が過ぎているのに。 大人しくなったと思ったら、胡坐をかいたオレの膝の上に乗り上げ、遠慮なくぺちぺちと顔を触っては、 「いちゃい」 と、伸びた髭に文句を言う大樹に苦笑する。 面と向かってオレに文句を言える人間なんて、そんなにいないんだぞ?お前は知らなくていいことだけど。 託生と大樹の息遣いが聞こえるほど近い距離に、オレの高ぶっていた神経が落ち着いていく。 忘れていたけど、疲れてたもんな、オレ。 まだまだ言葉があやふやな大樹よりも言葉が通じない人間相手に苛立ち、一歩も進まない話に頭を悩ませていた状態だった。凝り固まっていた自分が癒され、心がほぐれていくような気がする。 大きな部屋に置いた薄暗い箱の中。 家族の時間を邪魔しないよう、使用人達も気を利かせて奥にいるらしく、物音一つ聞こえてこない。 ふと、両腕に自分の大切なモノを抱きしめたら、このくらいのスペースで収まってしまうんだなと感じた。 金も地位も名誉も、あらゆるものをそぎ落として腕の中に残るもの。 日頃、意識なんてしていなかったが、ダンボールの中の大きさがあれば充分なんだって実感すれば、自分がいかに無駄なものに囲まれているのかがわかる。 それに。 「大樹が喜ぶから、か」 「え、なに、ギイ?」 キョトンと腕の中で見上げる託生にちょんとキスをして、 「愛してるよ。ありがとう」 思い出させてくれて。 無駄なものに囲まれすぎて、こうあるべきなんて形に囚われて忘れていた。 大切なのは心だ。 もしもトイショップで、カラフルな家を買ったとしても、大樹が選ぶのは、このラクガキだらけのトイレットペーパーのダンボール箱だろう。 このペントハウスに不釣合いだとか、そんなこと、大樹には関係ない。託生と笑いながら二人で作った秘密の隠れ家だから、大樹は喜ぶんだ。 金でも手腕でもなく、人を動かすのは心。 今、プロジェクトが進まないのは、オレが根本を忘れていたからなのだと、託生は気付かせてくれた。 ビジネスなのだから、時にはシビアに対応しなければならないけれど、共同プロジェクト、イコール、協力し合って進めていくプロジェクトなんだ。オレ一人が突っ走ったって、上手く行くわけがない。 深い霧に覆われた視界が一気に晴れ渡ったようで、今なら話が進みそうな気がするが、島岡のありがたい配慮だ。 ここは、遠慮なく甘えさせてもらって、 「大樹。明日、ダディとこの隠れ家を大きくしようか?」 オレのスーツのポケットに、あちこち手を突っ込んで遊んでいる大樹に声をかけた。 「おーきくぅ?」 「あっちの一〇〇号と二〇〇号と四〇〇号をくっつけて大きくしよう。ピカピカ光るシールも張って」 「ちーゆ!ちーゆ!」 「だから、暴れるなって。壊れるぞ」 目を輝かせて飛び跳ねる大樹に、顔がほころぶ。 こんな小さなことで大喜びしてもらえるなんて、オレの方こそお前に感謝だよ。 「ギイ、お仕事………」 「大丈夫。二日間の休暇」 できない約束は絶対しないって、わかってるだろ? 顔を少し曇らせて、おずおずと進言した託生も、安心したように表情を緩め、嬉しそうに微笑んだ。 明日は三人で秘密の隠れ家を作ろう。 秘密なんだからな。誰にもナイショだぞ。 (2013.2.20 ブログより加筆転載) |