● ● Love & Peace-7- ● ●
「あのさぁ」
背後から聞こえてきた声に、しまった!と気付いたものの時既に遅し。途中から、ハリーの存在を完璧に忘れていた。 オレ達の、崎家の内部を見せて怖がらせてしまったか?こんな複雑な人間と付き合うなんてと、離れてしまっても仕方がないけどっ! 内心焦って、どう言い訳しようかとパニクっている側から、 「なぁ、あの小さい花瓶、本当に百万ドルもするのか?」 戦々恐々と、しかし、興味津々にハリーが居間の一角を指差した。 「花瓶………?」 指の先を追って目に入ったのは、大理石のサイドテーブルの上に飾られている、お袋お気に入りのクリスタルの花瓶。 「うん。さっきイブキが言ったじゃん?百万ドルって」 好奇心に目を輝かせながら花瓶に近づいたハリーに唖然とした。 もしかして、オレ達の口論より花瓶の値段の方が気になっていた………のか? 呆気に取られ、がっくりと力が抜ける。 ハリー、お前ってヤツは………。 「なわけないじゃん。てか、オレもよく知らないんだ。子供の頃からあったものだし」 花瓶を眺め回しているハリーの背後から、投げやりに答える。 ただ母さんが大切にしているから、暴れて壊されたら悲しむだろうなぁと思ったから、はったりをかましただけだ。 「あいつ、よく信じたな。百万ドルって…………ぷっ!」 そのときのことを思い出したのか、兄貴が耐え切れないように吹き出した。 まぁ、オレも、桁を二つ、三つ多く言いすぎたかなと内心焦ったけど、まさか本当に信じるなんて思わなかった。 「それ、母さんが日本の百円ショップで買ってきたガラスの花瓶だぞ?でも、気に入っているから、壊したら大目玉だろうけど」 しかし、続けられた台詞に、体も頭もピシリとドライアイスのように凍った。 ………………なんだってぇ? 「百円ショップ………?」 「そう。赤池さんの結婚式で渡日したとき、一緒に行ったじゃないか」 「………って、一歳のときの記憶なんてあるわけないだろ」 オレの一番古い記憶は、せいぜい咲未が生まれた前日の花見だ。 いや、そんなことより、一般庶民出身で倹約家とは言え、大富豪崎家に嫁いで十九年も経つのに。そりゃ、物は大切に扱えと散々教えられてきたし、値段なんて関係ないけどさ。関係ないけど、お袋………。 今度こそ体の力が抜け、その場に膝を抱えて座り込んだ。 「百円ショップってなんだ?」 「日本にあるチェーン店で、こちらの九十九セントオンリーストアのようなものだよ」 オレの頭上で、不思議そう聞いたハリーに兄貴が説明したとたん、ハリーもそのままへなへなと同じようにオレの横に座り込み、 「九十九セント………億万長者の家に、九十九セント花瓶………」 呆然と何度も「九十九セント」と呟き、ぼんやりと花瓶を見上げている。 うん、黄昏たくなるのはわかるよ。まだ朝だけど。 兄貴が部屋を出て行った気配はしたけれど、オレ達はその場から動けなかった。目の前には、磨きこまれ埃一つ付いていないキラキラと輝く百円花瓶。 「今まで、クリスタルガラスだと思ってたのか?」 「あぁ、ずっとな………」 ボソリと聞かれ、力なく答える。 「クリスタルガラスと普通のガラスの違い、わからなかったのか?」 「オレに、そんな目利きを求める方が間違ってると思う」 ついでにダイヤモンドとジルコニアの違いもわからないぞ? 「なぁ、もしかして、一颯って母ちゃん似?」 「………オレも、今そう思った」 それがいいのか悪いのかはわからないけれど。 「やっぱりお前、お坊ちゃまには見えないよ」 溜息交じりの三度目のお坊ちゃま発言に怒る気力もなく、オレは頷くしかなかった。 ハリー、それ以上突っ込まないでくれよ?なんとなく哀しい気分になりそうだから。 休憩室に避難させていた咲未も居間に戻り、入れなおしてもらったコーヒーを飲んでいると、テーブルに置いていた咲未の携帯が鳴った。 表示された名前に、咲未が慌ててラインを繋ぐ。 「おかあ………お父様!」 「「父さんっ?」」 てっきりお袋だと思ったのに、親父自ら連絡してくるとは。 「うん……うん……う………お…とうさ……ま……、お父様、お父様ぁ…………!」 ずっと泣くのを我慢していた咲未の目が、見る間に涙で潤んでいく。号泣して言葉にならない咲未に、ラインの向こうで親父がうろたえているみたいだけど、これだけ心配させたのだから責任持って対処してくれ。 「うんうん、わかった。一颯お兄様」 しばらくして代われと言われたのか、鼻をすすりながら咲未がオレに携帯を渡し、使用人達のいる奥に走っていった。 「お父様から電話が入ったよーっ!」 使用人達の歓声が上がったのを横目に、急いで携帯を耳に当てる。 「父さん、怪我は大丈夫っ?」 『一颯か?あぁ、肩をかすっただけだ。心配かけてすまなかったな』 少し疲れたような様子だけど、こうやって声が聞ける状態だったのが嬉しい。ずっと、容態は不明だと言われていたのだから。 「ううん。母さんは………」 「散々泣いて怒鳴りまくったあと………今はここで眠ってるよ」 とたん甘い慈しむような空気が流れ、お袋の涙に焦りながらも幸せな顔をしていたのだろうと簡単に想像できて、クスリと笑った。 張り詰めていた糸が切れたんだろう。一睡もしていなかっただろうし、お袋が感情をぶつけられるのは親父だけだから、そのまま眠らせてやってほしい。 『託生から話は聞いた。お前の友達にも礼を言っておいてくれ。………ただし、今回の案はこれきりだ』 しかし、一瞬にしてむっすりと不満気に吐いた親父の言葉に吹き出した。 お袋が親父以外の男の服を着たんだもんな。それだけで充分親父が不機嫌になる要素は満たされる。 でも、これしか方法がなかったのも親父は理解しているだろうから、これ以上の文句は言われないようだ。 「うん、わかった。ハリーに伝える。兄さんに代わるよ」 『あぁ』 「父さん、大丈夫ですか!」 兄貴に携帯を渡し、反対側に座っているハリーに振り向く。 「ハリー、親父がありがとうって」 「よかったな、イブキ」 そう言ってハリーはオレの頬に、ハンカチを押し付けて笑った。 「あ………」 そうされて、オレは初めて自分が泣いていることに気が付いた。止めようもなく流れる涙に驚き、ぼやける視界を認識する。 人前で、しかも他人の前で泣くなんて何年ぶりだろう。 うろたえて俯いたオレの頭をポンポンと軽く叩いて、ハリーはなにも言わず静かに涙が止まるのを待っていてくれた。 オレや咲未と違い、結構長い間話をしていた兄貴が携帯を切ったのが見えて、顔を上げる。目が腫れぼったいような気がするけど、仕方ない。 「父さん、なんて?」 「とりあえず、このまま待機だってさ。まだ単独犯だと決まったわけじゃないから。ただ、SPに関しては、話を聞いた島岡さんが顔色を変えたそうだから、やっぱり違う指示が出ていたみたいだ。飛び出しそうになった島岡さんを、皆で必死に止めたって言うし」 「止めたって………もしかして島岡さんも怪我をしたとか?」 「らしいな」 確かに、指示を出したまま放り出すような人じゃない。実際に自分の目で確認を怠らない島岡さんが、この状態に気付かないはずがないんだ。 でも、親父が無事であることがわかった今、ここから出られないことなんてどうでもいいけど。 咲未がぐるりと回って声をかけた使用人が、居間に集まってきた。 「無事に母さんが病院に着き、今、父さんから直接連絡が入った。元気そうな声だったから、心配はいらない。とりあえずはこのまま待機していてほしいそうだ。なにかしらの変更があったら、直接島岡さんが連絡を入れてくれるらしいから、安心してくれ」 状況を簡潔に説明し言葉を切り、兄貴が皆の顔をゆっくりと見回した。 「ありがとう」 そして、深く頭を下げる。オレも咲未もその横で頭を下げた。 オレ達だけだったら、どうすることもできなかった。みんなの協力があってこそ、お袋を脱出させ親父の様子を知ることができたんだ。 拍手の中顔を上げると、皆の目に涙が光っていた。 親父とお袋が結婚したときから見守り、そして俺達兄妹を育ててくれ、心安らぐ空間を作り続けてくれている。血は繋がらないけど大切なオレ達の家族。 ………一緒にいてくれて、ありがとう。 「んで、俺はどうしたらいい?」 親父の無事が確認でき、歓喜の声を上げるオレ達の背後から、忘れ去られたハリーの声がまたもや空気に溶けた。 |