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●  君が帰る場所-5-  ●

 ドアマンがマンションのドアを開け、ロビーに足を踏み入れたとき、奥のエレベーターホールから絵利子が現れた。
「あら、ギイ?」
「なんだ、遊びに来ていたのか」
「ううん。託生さんに渡したい物があったからちょっと寄っただけ。勉強の邪魔はできないわよ」
 肩をすくめる絵利子の配慮に頷いた。
 五月に入ってからというもの、託生は後期試験に追われている。エキストラワークを提出すれば、多少成績が考慮されるような普通の大学とは違い、出された課題に対する取り組み姿勢や熱意がそのまま成績にスライドされる厳しい大学だ。
 大きな腹を抱えながら遅くまで机に向かう姿を、オレは毎晩のように見ていた。
「お腹を触らせてもらったわ。赤ちゃんもポコポコ動いてて元気そうだった」
「でも、あまり夜遅くまでうろつくなよ、未成年」
「なによ。九月から大学生よ」
 悪態をついてベッと舌を出した絵利子が「あら?」と首を捻った。そして、じーっとオレの顔を見ていると思ったら、
「ちょっと付き合って」
 オレの腕を掴んで引っ張り、ドアに向かって歩き出した。
「お…おい………」
「ギイに話があるの」
 背後にいるSPが絵利子の迫力にさーっと左右に分かれ、ドアに向かって一本の道になる。強面の体格のいい男達の間をズカズカと歩き、
「いいから乗って」
 と、降りてきたばかりのリムジンにオレを押し込んだ。
 おい、やっと帰ってこれたんだ。オレは託生の顔を見て癒されたいんだぞ!
「適当に流してちょうだい」
 インターホンで運転手に指示を出し、絵利子がオレを振り向く。
「いったい、なんなんだ?」
「ギイ、今、自分でどんな顔してるかわかってる?全然余裕のない顔してるわよ。それじゃ、託生さんに心配かけさせるだけだわ」
「そんなことないぞ」
 どうせポーカーフェイスをかぶっても、絵利子には見破られるのを承知しているから、オレは今表情を偽っていない。
 それに仕事が忙しいのはいつものこと。疲れが滲んでいるかもしれないが、今のところ難しい案件はなにもないから余裕はある。プライベートだって、絵利子がさっき見てきたとおり、オレの幸せを丸写ししたような生活だ。
 言われた内容が理解できなくて、オレは絵利子を見返した。
「なにか切羽詰っているように見えるのよ」
「気のせいだろ」
「ギイがそんな顔をしてるのは託生さん絡みだとは思うけど、本当に自覚ないの?」
「託生?」
 そりゃ、あの大きな腹で大学に行き、そして今は大学生にとって一年で一番忙しい時期と重なって、負担をかけさせてるなとは思うが。
「どう?」
「この時期に、あの腹だからな。負担になっているだろうなとは思っている。それに、生まれたあとも、オレがこんな状態で帰りが遅いから、育児のほとんどを託生に任せることになるだろうし」
「それだけ?」
「あぁ、そうだ。できることなら負担なんてかけさせず、なにものからも守りたいのに」
 オレの言葉に、絵利子は一瞬目を見開き、そして呆れたような眼差しを向けた。
「なんだよ?」
 オレ、なにか変なことを言ったか?当たり前のことを言っただけだぞ?
 葉山家と完全に縁が切れた今、託生が全てをオレに任せてくれたんだから、今まで以上にオレが託生を守るのは当たり前だよな。
「ギイが日本から帰ってきたとき、山ほどの縁談が舞い込んできたわよね」
「………あぁ」
 急になにを言い出すのかと思ったら、あれか。あまり思い出したくない事実。
 オレがアメリカに帰ってきたとの情報が回ったと同時に、本社、本宅共に来客が押し寄せた。下手に顔を見せると面倒なことになるからと、親父とお袋が全てを引き受けてくれたおかげで、どの女の顔も見てはいないが。
 その代わり、疲労困憊した親父に八つ当たりのように仕事を押し付けられ、それはそれで大迷惑だったのだ。
「ギイには言わなかったけど、あのとき託生さんの部屋までおしかけてきた女がいたのよ」
「なんだって?!」
 初めて聞く爆弾発言に腰を浮かせた。
 どうして、そんな重大なことを黙っていたんだ?!
 親父もお袋も託生の耳に入らないよう、わざわざ両親のプライベート用の応接室を使っていたはずなのに。
「託生さん、どうしたと思う?」
 オレの怒声を聞き流して、チラリと横目でオレを見た絵利子の目が楽しそうに光る。
 その目に、ゾクリと悪寒が走った。聞いてはいけないような気がする。なんとなくだが、自分の分が悪くなりそうな予感に顎を引いた。
 絵利子は人差し指を口唇に当て、思い出すように宙を睨み、
「『鼻をかんでいるギイを想像できますか?』」
「………は?」
「『トイレに行くギイを想像できますか?』」
「…………」
「『ボサボサ頭で大あくびしているギイを想像できますか?洗えば落ちるとか言ってどこででも寝るギイを想像できますか?面倒なことは丸投げして逃げ出すギイを想像できますか?自分の要求が通るまで駄々をこねまくるギイを想像できますか?食べても食べても腹減ったと言っているギイを想像できますか?缶コーヒーを飲んでると必ず横取りするギイを想像できますか?』」
「…………」
「『ギイは人形なんかじゃない。上っ面だけを見て想像するのは自由ですけど、たぶん貴方の許容範囲を越えていると思いますよ』……だったかしら?」
 だったかしら……じゃなくて。
 あまりの言いように力が抜ける。どれもこれも身に覚えがあることばかりだが、託生………。
 一応、結末も聞いておいたほうがいいのか?予想はできるけど。
「………それで?」
「毒気を抜かれて帰っちゃった」
 やはり、聞くだけ無駄だったか。
「ギイ、いったい、祠堂でなにしてたのよ?これで幻滅されなかったのが奇跡よ」
 呆れた口調の中に、オレを責める色が混じる。
 そうだよな。そこで幻滅されていたら、託生はここにいなかったかもしれないんだよな。
 うん、こう第三者から言われれば、オレも確かにそう思う。よく託生がオレに呆れなかったなと。
「今まで言わなかったのは、託生さんにそう頼まれたから。ギイが気にするだろうからって。託生さんは強いわよ」
「それは知ってるさ」
 絵利子に指摘されずとも、誰よりも強いのは知っている。
 他人のために、自分がずたずたに傷ついてでも守ろうとする強さを託生は持っている。
「だったら、どうしてそこまでこだわるのかしら。守ることに」
 絵利子の言葉が、静かな水面に石を落としたかのように波紋を広げた。
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