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●  振り向けば、ただありふれたペンの先 -4-  ●

 NYに戻り本社に顔を出したあと、島岡のスケジュール調整によって帰宅が許され、夕方に差し掛かる時刻に本宅に戻ることができたが、託生はまだ帰ってはいなかった。
 佐智のアドバイスどおり、真面目に大学の見学に行っているらしい。
 ホッとしたような、寂しいような複雑な気分で私室に戻ろうと歩きかけ、ふと託生の部屋が気になり方向を変えた。
 鍵のかかっていないドアを開き、一歩中に足を踏み入れる。
 ………この部屋は、こんなに暗かっただろうか。
 カーテンも家具の位置も変わっていないのに、無機質な雰囲気が漂い寒々しく感じた。
 託生の気配がない。「おかえり」と出迎えてくれる笑顔がない。
 人間一人の存在が、これだけ部屋を豹変させてしまうありさまを認識し、視線を巡らせた。
 窓際に置かれた机の上には、見学に行った数だけの願書の封筒が積み重ねられている。
 その一つを手に取ろうと腕を伸ばしたとき、
「そこにない大学は、明日、ギイと行くつもりなんだって」
「え?」
 背後からかけられた声に振り向くと、絵利子が開いたままのドアの前に立っていた。
「オレと、どこへ?」
「約束したんでしょ?出張から帰ったら、一緒に願書を取りにいくって」
「………託生が言ったのか?」
「そうよ」
 オレが行くと言ったから?
 誤魔化そうとして苦し紛れに出した案を、その後、誤解とは言え託生を傷つけ「自分が取りに行く」と断言した自分の主張を曲げ、オレを待っていてくれた?
 同じ過ちを繰り返し、愛想をつかされても仕方がないことをしたのに。
 封筒の陰に隠れていたメモが、パラリと足元に落ちた。
 拾い上げ目を通すと、見慣れた託生の文字の横にチェックがついていないのは、マンハッタン音楽院だけ。
 胸に、愛しさと懺悔が広がっていく。
 甘やかしすぎだぞ、託生。
「託生さんに、ALPを勧めたのは私なの」
「絵利子?」
 呆然とメモを見ていたオレに、絵利子が唐突に口を開いた。
 ALPがなんだって?
 続きを促すように絵利子に視線を移したオレを見詰め返し、
「アメリカに来たのは、基本、治療とカウンセリングのためよね。大学のこととか、ギイとの結婚とかはあとから取ってつけたようなものだから、それが理由ってことじゃないものね」
 今一度、オレに確認する。
「あ……あぁ」
 女性と判明したから、その治療を受けるために託生は渡米を決めた。
 そうでなければ、佐智の言ったとおり、今頃、日本の音大に通っているだろう。
「だから、託生さん、なにもすることがなかったのよ」
「え?」
 絵利子のまっすぐな視線に当惑する。
 いったい、なにを言いたいんだ?
「そりゃ、ここに来た当事は右往左往していたわよ。言葉もあまりわからなかったし。でも、一ヶ月も経てば一応生活にも慣れてくる。そうすれば、通院以外なにもすることがない。お父様とギイは仕事。私は学校。お母様だって毎日家にいるわけではないし、屋敷に残っている人間は仕事中だから、邪魔にならないようにって部屋に篭っていることが多かったらしいのよ。なにもすることがないというのは、普通の人には苦痛よ。だからALPを勧めたの」
「………なに?」
 絵利子の言葉に、頭を殴られたような衝撃を受け、呆然となった。
 急にALPに通いだしたのには、そういう理由があったとは。気付かないにも程がある。
 託生が笑っているから、側にいるから、オレを受け入れてくれるから。
 託生がどういう一日を送っているのか、ここに来てどう思っているのか、一度でも聞いたことがあるか?
 表面上のことならいくらでも思い出せる。
 しかし、託生の内面は?
 その日、その日を、どういう思いで過ごしていたのか、この部屋でなにを思っていたのか、聞き出したことはなかった。
 連れてくるだけ連れてきて、オレは一体なにをしていたんだ。有頂天になっていただけじゃないか。
「すまなかった」
 自分自身の幸運に目が眩み、託生が見えていなかった。
 あのとき、お袋にも気を使えと散々注意されたのに。
「託生さんが元気になってくれたらそれでいいの。それよりも、受身だった託生さんが、今回初めて自分から動いているのに気付いてる?」
「あ………」
「自分の生き方をこの街で見つけようと、懸命に探してる託生さんをギイは反対するの?」
 この街でオレと生きていくために。
 一時的な滞在ではなく、ここに根付くために、託生なりに模索し、その第一歩が大学への進学だった。
 ちっぽけなオレの独占欲で、オレは託生を人形のように操るつもりだったのか?
 違うだろ?
 託生が託生だから、オレは恋に落ちた。託生が自分を押し殺してまでオレの側にいたって、それは託生じゃない。
 託生が自分らしく生きていけるよう守らなければいけないのに、オレは入ってはいけない領域にまで土足で踏み入れ、託生の心を傷つけた。
 託生に会わなければ。会って今すぐ謝らなければ………!
「今日はここに行ってるの。迎えに行ってきたら?」
 絵利子が指差したメモの文字は………。
「ありがとう、絵利子。行ってくる」
 託生の携帯に一言だけメールを入れ、オレは屋敷を飛び出した。
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