● ● 振り向けば、ただありふれたペンの先 -1- ● ●
四年間、保留していた大学院に入学して、早一ヶ月。
自分の講義が終わったオレは、ALP(American Language Program・コロンビア大学付属語学学校)のカレッジに入り、託生の講義が終わるのを待っていた。 しばらくすると、ガタガタと椅子を引く音が響き、教室から続々と学生が出てくる中、愛しい婚約者の姿が見え手を上げた。 まだTシャツ一枚の人間もいる中、託生はしっかりと長袖のシャツを着て、片手には薄手のカーディガンを持っている。 そろそろ気温の差が激しくなりつつある時期。 先日、一気に十度も下がり、しかしその翌日にはまた一気に上がるというNYの気候に、 「嘘だろ?」 と、呆然と玄関のドアの前で立ち尽くし、託生は着込んでいた上着を脱いだ。 それから毎日天気予報を見るのを欠かさなくなり、日本人らしく小まめに体温調節ができるようにと、必ず上着を持参している。 オレ達アメリカ人ほどアバウトでなくてもいいけど、もう少し気楽に構えてもいいのにと思うのだが、三ヶ月ごとに切り替わる明確な四季を持った日本の気候で暮らしていた託生には、慣れない環境らしい。体調を崩されるよりはマシだが。 オレの姿を捉え、託生が足早に駆け寄ってくる。 目の前でフィアンセ宣言したヤツらが、悔しげな視線を送っているが、当の託生には全く見えていない。 たとえ見えていたとしても、その思惑に気付くことなく、 「また、明日」 とでも笑って手を振るだろう。 オレしか見えていないらしい託生の姿に優越感を感じつつ、さりげなく肩に手を回し出口へと促す。 「終わったのなら帰ろうか。週末のデートの予定でも立てながらさ」 今日も託生はオレのものだとアピールすることを忘れず、声をかけるタイミングをなくしたヤツらの眼前をこれ見よがしに通り過ぎ中庭に出た。 あちらこちらに、日向ぼっこをしている学生が見える。 昼寝をして休憩している人間もいれば、寝転がって勉強をしている者、芝生に座り込んでディスカッションやディベートに熱中しているグループ。 活気ある学生の空気に初めて触れたとき、託生はそのアメリカ学生のバイタリティに驚き「勉強しなきゃと触発される」と感心していた。 そして、初めて体験することばかりの生活に尻込みするよりは、できることから一つずつクリアーしたいと、治療やカウンセリングを初め、様々な事柄に対して前向きに努力を続けている。 「ギイ、迎えに来てくれるのは嬉しいけど、無理しなくていいんだよ。ぼく、一人で帰れるし」 ゆっくりゲートに向かって歩いていると、少し複雑な表情をして託生がオレを見上げた。 嬉しさ半分、申し訳なさ半分と言ったところだろうか。 仕事と自分の講義の合間、時間があれば足繁くALPに通うオレの忙しさを心配しているのだろうが、託生と一緒にいたいのはもちろん、害虫駆除ができる一石二鳥のチャンスをオレが見逃すわけないじゃんか。 「無理とかじゃなくて、オレが託生と帰りたいんだよ。一緒の大学生活ってのは貴重なんだぞ。祠堂の生活が三年間だったのと同じように限りがあるんだから」 託生がALPに入学したとき、こんな託生を男連中の中に放り込むなど、なんて危険なことをと思ったのだが、九月になりオレも大学院に入学したとき、実はナイスな選択だったんだなと唸った。 もちろんカレッジは違うが、時間さえあれば託生と通学を共にできる。 高校生活だけじゃなく、大学生活まで共有できるなど予想していなかったものだ。 元々、日本とアメリカの遠距離になると思っていたし、仮にオレが日本にいたとしても、託生は音大に入学していたはずなのだから。 親父との約束の期限は二年。それまでは学生をやっていてもいいけれど、あとは仕事に専念しろと言われている。 オレがスキップしてなかったら、どうするつもりだったんだと問いたい気分だが、それでも、今、現に託生と大学生活を送れているのだから文句は言うまい。 もちろん、託生がALPに通うのは、音大に入るまでだ。 しかし、ジュリアード音楽院は同じモーニングサイド・ハイツ内にありコロンビア大学と提携プログラムを組んでるし、マンハッタン音楽院はお隣さんだ。 オレが大学院を卒業するまでは、今のような学生生活を保障されているに等しい。 「それに、来週から出張だからさ。託生と少しでも一緒にいたいんだよ」 言いながら右頬にちょんとキスすると、反射的に目を閉じ、そしてハッとしてキョロキョロと周囲を見回す。 「ちょっと、ギイ。引っ付きすぎ」 ついでに、肩を抱いている手にも気付き、急にあたふたと暴れだした。 今更だと思うけどな。アメリカに来て半年も経つんだから、いいかげん慣れろ。 「いいじゃん。オレ達、婚約者なんだし」 「そうだけど。でも、大学は勉強するところなんだから……」 「いちゃいちゃするなって?」 託生の台詞を引き継いで続けると、拳を握り締めてくこっくりと頷く。 「勉強も大切だけど、それよりも大切なものもあるんだぜ?」 長い一生の中、そのときにしか経験できないもの。偶然が重なった一瞬の巡り合い。 それが人との繋がりであったり、忘れえぬ思い出であったり、しかし、確実に自分の人生に少なからず影響を及ぼす大切なもの。 オレは祠堂に行って、初めてそれを知った。 託生と大学生活を送れるのも、その大切な一つだ。 「ギイ。それは屁理屈って言うんだよ」 いつものごとく、これまた妙な方向に解釈した託生が眉間に皺を寄せる。 そんな表情さえも、オレには、かわいらしいだけだが。 「なに?」 苦笑したオレに馬鹿にされたと思ったのか、ムッと口唇を尖らせた託生の眉間の皺を伸ばすように撫で、内緒話をするように口を寄せる。 「今日の晩飯はなにかなって」 「……お腹が空いてるんなら、早く帰ろうよ」 呆れながら大きな溜息を吐いて、託生がためらいなくオレの左手を握った。 人目を気にして祠堂の麓の町を歩いていた頃に比べたら雲泥の差だ。 「あ………」 少し湿った秋の風が頬を撫で、託生の髪を揺らした。 乱れた前髪に右手を伸ばせば、成すがまま安心しきった表情でオレの指を受け入れ、目を閉じる。 託生はわかっていないだろうが、傍から見ればこれこそ『いちゃついてる』ってやつだと思うんだけどな。章三がこの場にいたら、間違いなく殴られてるぞ。 ツンとしたさくらんぼ色の口唇がキスを誘っているように艶やかに光る。 子供のような表情とのアンバランスに苦笑いしつつ、 「これでよし、と。じゃ、帰るか」 繋がれたままの託生の細い指にオレの指を絡ませ、ゲートに向かって歩き出した。 |