● ● 雪に残った足跡-2- ● ●
雪が降ってきたな。
午後からの講義に備え廊下を歩いている途中、結露で曇った窓を手で撫で、降り出した雪に目をやった。 積もったら厄介だ。去年もこの時期、よく滑って転んでいたからな。あいつ、どんな靴を履いていったんだ? 託生を迎えに……あ、午後から佐智がゲスト講師に来ると喜んでたから、何時になるかわからないな。あとでメールを打っておくか。 そのまま地面に落ちていく雪を追い、階下に視線をやったオレは、目に飛び込んできた光景に息を飲んだ。まさか………。 「ギイ、どうした?」 「………用事を思い出した。帰る」 「はぁ?おい、ギイ?」 慌ててロッカーから自分の荷物を取り出し、コートを羽織ながら階段を駆け下りる。 カレッジのドアを開けると、人気がなく日の当たらない木の陰で、ひっそりと託生が立っていた。 「なにしてんだ、託生!」 ぼんやりと顔を上げた託生の頬が冷気に色をなくしている。髪もコートも雪で濡れ、抱き寄せた体が氷のように冷たい。 くそっ、どうして今まで気付かなかったんだ。こんなに凍えるまで……。 「いったい、いつからここにいたんだ?」 今日は佐智に会えると、オレがヤキモチを妬くくらい喜んでいたのに。 それに、託生が講義をサボるなんて、考えられないことだ。口には出さないけれど、大学の金を出しているのがオレだからと、生真面目に大学に通っている。 その託生が、なぜ? 大人しく腕の中にいる託生が、オレの胸を軽く押し返し、なにかを言いたげに見上げた。 「託生、どうした?」 「………ぼくは、だれ?」 「なに言ってんだ?託生は託生だろ?」 「たくみ?」 「あぁ、葉山託生だ。生まれたときから、葉山託生だ」 「じゃあ、日本にいた葉山託生とぼくは、違う?」 「そんなことあるわけがないだろ?託生は託生だ。どこも変わってない」 覗きこむように視線を合わせ必死に言い募るも、焦点の合わない瞳に舌打ちをし、託生の肩を抱き寄せて強引に歩き出した。 意味不明な質問繰り返す託生に、不安が過ぎる。いったい、なにがあったんだ? しかし、ここでは無理だ。こんなに冷え切った託生をこのまま寒空の下に置いておきたくない。二人きりになれる場所は………。 通りに出て流しのイエローキャブを拾い、五番街のマンションまで移動した。 「義一様?」 いきなり現れたオレ達に驚いている通いの使用人達に、 「今日は全員帰ってくれ」 「は……はい」 有無を言わさず人払いをし、私室に託生を押し込んだ。 荷物を置き、託生をバスルームに連れ込み、湯を溜めながら、シャワーのノズルを捻る。一気に白く曇ったバスルームの中、託生はぼんやりと突っ立ったままだ。 乱暴にならない程度に手早く服を脱がせ、バスタブの中に座らせる。 「体が温まるまで、出てくるなよ」 言い聞かせ、大人しくバスタブに座っている託生にホッと息を吐き、バスルームのドアを閉めて携帯を手に取る。 「オレだ。明日まで、仕事はキャンセルしてくれ」 「義一さん?」 「無理なら会長に押し付けろ」 「………託生さんになにかあったんですか?」 託生に関係することならば、親父も動いてくれる。それを知っている島岡の声色が変わった。 「今は、まだわからない。話を聞けるような状態じゃない」 雪の中に立っていた託生の顔が、270号室で意識をなくした託生と重なった。このまま託生を失ってしまうのかと、恐怖に怯えたあのときと同じ。 大学でなにかがあったのは一目瞭然だ。朝はいつもと一緒だったのだから。 「わかりました。なにかあったら連絡をください。………ギイ、託生さんには貴方がいるんです。貴方しかいないんです」 水音がするドアを見つめながら、叫びそうな己を叱咤して拳を握り締め、つとめて冷静に声を出したつもりなのに、島岡がギイと呼ぶ。大丈夫だと、感情的になるなと。島岡の誠実な心が流れ込む。 あぁ、そうだ。オレが落ち着かなければどうする。託生が心の内にいくつもの爆弾を抱え、いつ、なにが起爆剤になってバランスが崩れるか、百も承知のはず。 託生を支えるのはオレだ。 再確認すると、すうっと頭が冷えていくのがわかる。 「………ありがとう。あとを頼む」 五番街のペントハウスにいることを伝え、島岡とのラインを切り、その足でバスルームのドアを開け覗き込むと、託生の体がしっかり湯に浸かっていた。 「少しは温まったか?」 ノズルを閉めバスタブの横に腰を落とし、小さく折りたたむように座って俯いている託生に声をかける。 頬に落ちた濡れた髪を耳にかけ、頬に手をあててみると、まだ少し冷たく感じた。 「ギイ………?」 「あぁ、オレだ」 「ギイ」 手の感触に俯けていた顔を上げ、託生がオレを見る。 まるで夢から覚めたように。確認するようにオレを呼ぶ。 どちらともなく口唇が重なった。お互いがお互いの存在を確かめるような、そんなキス。 パシャリと水音が鳴り、託生の手がオレの頬を撫でる。消えてしまわないように自分の手を重ね、託生の濡れた手のひらにキスをした。 「ぼくは、変わってない?」 「あぁ、なにも変わってないよ、託生は」 体つきが変わっても、その変化していく過程に、託生は眠っていたわけじゃない。日々生きていた。変わるはずがない。それはNYに居場所を移しても同じだ。 新しい知識が増えることがあっても、託生の本質はそのまま。オレが恋をした託生だ。 しかし、不安を滲ませた瞳が、あの入院中の混乱していた瞳と同じ色をたたえているのに気付き、託生を抱き締めた。 なにが、託生をここまで追い込んだんだ。ただでさえギリギリの淵で留まり、運命に必死で立ち向かっている託生に……! しかし、それを追求するのはあとだ。まずは託生を納得させなければ。 「託生が変わっていないこと、オレが証明してやるよ」 託生の口唇に、直接吹き込んだ。 |