● ● Fair Love-2- ● ●
楽譜の取り寄せを依頼していたお店から電話があり、ぼくは一人で街に出てきていた。
外出しようとしたぼくに、 「託生さん、日焼け止めクリームを塗っていって!」 と、絵利子ちゃんが慌てて塗ってくれたけど、これだけ日差しがきついとあまり効果はないような気がする。 日本と同じく、アメリカでも本来は春か秋に結婚式を挙げることが多い。だから、最初はギイが大学を卒業したあとすぐにと話が出たけれど、ぼくは祠堂の皆に来てもらいたかった。 日本を出国するとき「式には呼べよ」「また会おうな」と約束したから。 もちろんギイも皆のことを考えていて、でも、春休みはさすがに急すぎて、ぼくのドレスが間に合わないと言われ、それならと「その次の長期休暇の夏休み、どうせなら八月八日の末広がりで縁起のいい日にしよう」とギイが決めた。 「日焼けがーっ!」と、お義母さんと絵利子ちゃんの顔が引きつっていたけれど、ぼくは日焼けよりキスマークの方が心配だったりする。この頃はギイも痕をつけないように気を付けているみたいだけど。 NYに来て、三回目の夏。春になっても雪が残っていたから、夏は日本より涼しいのだろうと思っていたぼくの予想を裏切り、NYの夏もそれなりに暑い。 しかし。 「街のど真ん中で、水着を着て日光浴してるとは思わなかったよ」 セントラルパークの芝生が、まるでビーチになったかのような光景を初めて見たときは目を疑った。その場で脱ぎたそうにしていたギイにも呆れたけれど。こういう環境で育ったんだなと認識すれば、ギイの自由奔放で奇奇怪怪な行動も納得できる。 二年住んだと言っても、まだまだ知らないことはたくさんあると思う。 けれども、おっかなびっくり、全てが初体験だった二年前に比べたら、こうやって一人で買い物に出られるようにもなったし、なにより、ぼくはもう日本に帰るつもりはない。 居場所がないのは事実だけど、本気で帰る気があれば住む場所くらいは作れるだろう。 でも、ぼくは、ギイの側で生きていくと決めたから。人生を一緒に歩いていこうと決めたから。二人で幸せになろうと、約束、したから。 たった二十年生きてきただけでも、色々なことがあった。でも、これから先の方が長いのだから、もっともっと厄介な問題が出てくるだろう。ぼくもギイも。 接触嫌悪症だったぼくをギイが助けてくれたように、ぼくもギイの手助けをしたい。彼を支えていきたい。それだけの力を持っていないかもしれないけれど、他の誰かに譲りたくはないんだ。ギイにとって、そういう人間でありたいんだ。 彼の配偶者であるという公明正大な理由があるのだから、誰にも文句は言えないだろう。………ギイ自身にも。 無事楽譜を手に入れ、どこかでお茶して帰ろうかと歩いていたぼくの横を、リムジンが通り過ぎたと思ったら停車した。 ギイ、ではないよね。ギイだったら、止まったと同時にドアを開けそうだし。 そう思いながらリムジンを見ていると歩道側の窓がスーッと下り、 「託生さん」 お義父さんが、にこやかに顔を覗かせた。 「お義父さん」 「買い物かな?」 驚いて駆け寄ったぼくの手にしている紙袋を見て、お義父さんが微笑む。とたん頬が熱くなってきて、誤魔化すようにコクコクと頷いた。 練習に付き合っていただいたときも思ったけれど、お義父さんってギイに似てる。あれ?いや、反対か。ギイがお義父さんに似てるんだ。 「はい。取り寄せてもらっていた楽譜が入ったと連絡があったので」 そう、と目尻に皺を寄せ笑ったお義父さんを見ていたら、ギイもこんなダンディな紳士になるのかなと、ふと浮かんだ。………ちょっと二十年後が楽しみかも。 「託生さん、これから時間あるかな?」 「え、ありますけど」 「君に、少し話があるんだ」 「ぼくに……ですか?」 お義母さんとは、よく話をすることがあるけれど、お義父さんと二人でというのは初めてかもしれない。仕事がお忙しくてなかなか家にいらっしゃらないし、練習のときはお義母さんと絵利子ちゃんも一緒にいたし。 「うん。家だと義一の邪魔が入るからね。乗ってもらえないかな?」 でも、ぼくに断る理由はないので、頷いてリムジンに乗り込んだ。 お忙しいだろうし、車の中でお話するのかなと思っていたら、落ち着ける場所でと言われ、着いた先は高層ビルの車寄せ。 あちらこちらに警備員の姿が見え、出入りしている人の数も半端ない。まさか、ここは………。 「お義父さん、ここ………」 「本社だよ」 あっさりと返され、顔が引きつる。まさか、本社に連れてこられるとは思わなかった。 でも、家でもなく車中でもないというのなら、ここしかないかもしれない。Fグループの総帥が、そのあたりのカフェに気軽に入るわけにはいかないだろうし。 「託生さん?」 「で、でも、部外者のぼくが入ってもいいんですか?こんな恰好ですし……」 お義父さんが手招きしてくれたけど、周りにいる皆はもちろんスーツで、ぼくは普段着だ。それに、お仕事をする場所に、ぼくなんかが入っていいものだろうか。 「ははは、気にしなくていいよ。それと、これが託生さんのIDカードだからね」 と笑って、お義父さんがぼくの首にホルダーをかけた。 「ぼくの……ですか?」 「託生さんは部外者だっていうけど、列記とした関係者なんだよ。だから、勝手だと思ったけど作らせてもらった。姓が変わったあとは、またICチップを書き換えるからね」 「はい………」 関係者……なのかな?ギイの婚約者ってだけなのに。 SPに囲まれて一歩ロビーの中に入ると、その場にいた人達の視線が一斉に集まった。 ビクリとして固まったぼくとは違い、お義父さんは悠々としていていつもと変わらない。こんなところも、ギイに似てる。どんな場所にあっても、自分を崩すことがないんだ。 大きな吹き抜けのロビーには所々観葉植物が置かれていて、その影にあるソファで話し合っている人達がいたり、モバイルを操作している人がいたり、携帯で話している人がいたり。見るからに誰もが多忙なビジネスマンで、音楽大学の雰囲気しか知らない学生のぼくには異質な世界だ。 ビジネス街の中でも、一際抜き出るように立っていた。ここが、Fグループ本社。 ギイの仕事場に興味がなかったわけではないけど来る理由もなかったし、お仕事の邪魔になるかもと、あえてぼくはこの地区に足を踏み入れなかったから初めて見た。 本当は、ぼくなんて逆立ちしたって入れないような場所なのだろう。エリートばかりが集まってそうな気がする。 そう観察している中、またザワリと空気が動いたような気がした。皆が注目している方向に目を向けると、ギイ………! お義父さんと同じくSPが周りを固め、左背後についている秘書らしき人に指示を出しているみたいだ。秘書って島岡さんだけじゃなかったのか。知らなかった。 あちらこちらから投げかけられる羨望の眼差しを一身に集め、ギイが颯爽と歩いている。昔からよくみる光景でギイも慣れているだろうけど、どこにいても人の目があるのは疲れるだろうなと思う。 ぼんやりとギイを見ていると、視線に気づいたギイが顔を上げた。と同時に、一瞬憮然とした表情を見せ、足早に真っ直ぐぼく達に向かって歩いてくる。すぐにポーカーフェイスを被ったみたいだけれど、ヤバイ。ギイ、怒ってる! あぁ、どうしよう。やっぱり、ぼくなんかが来ていい場所じゃなかったんだ。 しかし、オロオロとしているぼくには目もくれず、 「会長、これはどういうことですか?」 ギイは、お義父さんに低く噛みついた。 ギイって、お義父さんのこと、仕事場では会長って言うんだと変なところにピントがあったのは、たぶんぼくの逃避行。 一発触発の空気に、さっきまで羨望の眼差しで見ていた人達でさえも固唾を飲み二人を見ている。 ぼくのせいで親子喧嘩勃発なんて、どうしよう………。 そう思ったとき、ギイの背後にいる島岡さんが涼しげな表情を崩さず片目を瞑り、口の前で人差し指を立てた。まるで「心配ないですよ」と言っているように。さっきギイと話していた秘書の人も、同じく安心させるように数度頷いている。 「君が話すつもりがないのなら、総帥として私が話すしかないだろう?」 ギイに話すつもりがない?なんの話を? ギイとぼくが知らなかっただけで、これは計画の一部のようだ。お義父さんがぼくをここに連れてきたのも、この場でギイとバッティングさせたのも。なにかの話をギイにさせるために。 「ギイ?」 小さく声をかけたぼくの顔を見てギイはバツが悪そうに俯き、観念したかのように溜息を吐いた。 「わかりました。オレが直接託生に話します。ですから、これ以上無粋な手出しは無用です」 そう言って島岡さんを振り返り、 「どれくらい時間が取れる?」 「二十分です」 「部屋に戻る。時間になったら声をかけてくれ」 そう言い置いてぼくの手を握り、今出てきたばかりの通路へと向かう。 慌てて振り返ると、お義父さんが安心したようににっこりと笑い、なぜか今までギイについていた秘書もSPさえも、その場に残っていた。 突き刺さるような視線が痛い。 Fグループ後継者のギイと親しい間柄だと一目瞭然なぼくに投げかけられたのは、無遠慮な興味、妬み、羨み。人間の裏側が垣間見えるような、暗い視線だった。 |