● ● 振り向けば、ただありふれたペンの先 -3- ● ●
五日間の日本への出張は目まぐるしい忙しさで、オレは休む暇もないまま、慌しく時間だけが過ぎていった。
それでも、移動時、仮眠を取る合間などに、メールを送るくらいの時間はあった。 しかし、今更なにを言っても、託生には通じないだろう。 謝ったとしても、元々、本を遠ざけたかったオレの理由を知らない託生には、おざなりの謝罪にしか見えないだろうし、願書を一人で……なんて言えば、それこそオレが言った言葉が嘘になり、嫌味にしか聞こえなくなる。 何度も画面を開けては、なにも打てないまま閉じることの繰り返し。 昔、託生を傷つけたときも、オレはなにもできなかった。 あのとき、アクションを起こしたのは託生のほうだ。どうしたらいいのか途方に暮れていたオレに、託生はコーヒーを手に迎えに来て、バカなオレを許してくれた。 同じ過ちを繰り返した自分に、自己嫌悪を通り越し情けなさが身を包む。 「託生………」 託生なら許してくれるという甘い考えと、今度こそ呆れ返られ捨てられるかもという恐怖が、交互に浮かび上がる。 託生からのメールも届かない。 じりじりとした胃の痛みを感じながら最終日を向かえ、成田空港に向かう車の中で、やっと一言『今から帰国する』とだけ送った。 色々と考えた末に送れたのが、こんな陳腐な一言だとは………。 大きな溜息を吐いて内ポケットに入れようとしたとき携帯が震え、慌てて画面を覗き込むと『気をつけて』と一言だけ返信が来た。 無視されてもおかしくはないし、託生の性格なら、どれだけ怒っていても返信だけは返さなくてはと、律儀に送ってきたのかもしれない。 それでも、オレには泣きたいくらい嬉しかった。 成田国際空港の第一ターミナルで車を降り、ロビーに足を踏み入れたとき、麗しい幼馴染が片手を上げた。 「佐智?」 「たぶん、この時間だろうと思ってね」 にこやかに、親しげに。 他人から見れば、久しぶりに会った旧友を相手に、穏やかな微笑を浮かべているように見えるだろう。 しかし、オレの背中にはゾクリと鳥肌が走っていた。 こいつ、滅茶苦茶怒ってないか? 「帰国したところか?」 佐智の機嫌に気付かない振りをして、スーツケースについたままのクレームタグに目を移し、揶揄するように問いかけると、 「うん、そう」 あっさりと肯定する。 こういうところは、相変わらず頓着しない佐智だから今更気にすることはないが、そのタグに印刷されている文字が目に飛び込み、胸の前で十字を切りたくなった。 もしかしてこのために、クレームタグをつけっ放し……いや、やはり相手は佐智なのだから、それはあり得ない。単純に、気になっていないだけだ。 「NYに行ってたのか?」 「義一君と入れ違ったみたいだよ」 軽い口調なれど目は笑っていない。 わざわざオレを待っていたということは、電話では言い切れないほど激怒しているってことか。 「場所を変えようか?」 佐智に異論はなく、オレ達はその場を離れた。 「相変わらず忙しそうだな」 「それは、お互い様だね」 喫茶室に入り、当たり障りのない会話をして、ウェイトレスが運んできた飲み物を置いて奥に下がったとき、 「託生くんに会ってきたよ」 佐智が真正面から切り出してきた。 ………やはりな。 今まで、NYに来てもオレん家に寄ることなんて滅多になかったのに、託生がNYに来てからは、少しでも時間を作って本宅に顔を出していた。 先日のことを、託生から聞いたのだろう。 「きっかけはどうであれ、アメリカに行ったのは託生くんの意思だ。それに関しては、僕はどうこう言う気はない。でもね、君、ジュリアード音楽院とマンハッタン音楽院しか、託生くんに言ってないらしいじゃないか」 コンサートの合間、世界中の音大からゲスト講師として招かれている佐智には、NYの音大など百も承知。渡米してかれこれ半年近くなるのに、NYの音大事情を知らない託生に唖然としたのだろう。 オレが、その二校しかこの街にないような口調で言い続けていたのだから、託生に罪はない。もちろん、佐智も、オレが原因だとわかっているだろう。 だからこそ、この場にいるのだ。 「ジュリアードは世界的に有名な大学だし、エリオット教授に託生の腕なら入学は大丈夫とお墨付きを貰ったぞ」 「確かに託生くんの腕なら入学できると思う。けど、義一君、忘れてないかい?ジュリアードの新入生は全員寮に入ることが規則で決まってるんだよ」 佐智の反論に、言葉を失った。 寮だって?! 「君が託生くんと離れて暮らしたくないだろうというのは置いといて、今の託生くんに集団生活は酷だと思うよ」 戸籍上は、まだ男。しかし、すでにホルモン治療の成果が顕著に表れている託生の体では、たとえ一人部屋を希望したとしても、とても複雑な状態になるのが目に見えている。 それだけではなく、なにも知らない他人の中で集団生活ができるほど、託生のメンタル面は安定していない。医師に相談するまでもなく、ジュリアードはNGだ。 調査不足のミスに頭を抱え、しかし、それならばともう一校を聞いてみることにした。 「だったらマンハッタン音楽院……」 「マンハッタン音楽院と同レベルの音大なら、まだNYにある。それに、まさかと思うけど、一校しか受けさせないつもり?滑り止めなしで?託生くんのレベルなら合格するだろうけど、そんな心臓に悪いことを託生くんにさせる気なのかい?」 佐智の言葉が突き刺さる。 あの二校に拘っていたから、滑り止めに受ける大学の存在なんて眼中になかった。 もしかして、託生はそれを知りたいがために、あの本を貰ったんじゃないだろうか。 だったら、託生にとって命綱のように大切なものを、オレは独断で取り上げようとしていたんだ。 佐智がここまで怒る理由もよくわかる。 非情な自分の行動に、今更ながらどっぷりと落ち込んだ。 「アメリカ国内はもちろん、ニューヨーク州だけでも山ほどの音楽学校があるんだ。市立大学、州立大学の音楽学部も合わせれば、その数は二十六。日本国内より充実しているこの環境なら、託生くんに合った音大を選ぶべきだと僕は思う」 「じゃあ、本命をマンハッタン音楽院で、あとは滑り止めで何校か………」 「義一君がマンハッタン音楽院を押すのは、コロンビア大学の隣だからじゃないのかい?」 オレの言葉に、佐智は軽蔑したような眼差しで、図星を指さしてきた。 やはりバレていたか。 「あのさ」 大きな溜息を吐いて、佐智が呆れたようにドサリと背もたれに体を預けた。 「……なんだよ」 「去年、ツアー真っ最中の僕の携帯に電話してきて、『相談に乗ってやってほしい』だったかな?そう言いながら、留学を説得させようとする魂胆が丸見えだったけど、NYに行く経緯はともかく、義一君の希望どおり託生くんはアメリカにいるじゃないか」 思い出せば、そういうこともあったな。 あの頃は、必死だったんだよ。託生と離れたくなくて、どうにかしてNYに連れてくることばかり考えていた。 託生が日本の音大を受けると言ったときには、オレが日本に残るための道を模索しようとして、勘のいい相棒にバレ、章三経由で託生にもバレ、全力で拒否された。 『ぼくのために、道を間違えてほしくない!甘えるな!』 怒りに目を潤ませ、殴りかかりながら叫んだ託生を、章三は止めることもせず傍観し、オレは託生の気迫に引き下がるしかなかった。 「君、贅沢すぎるよ。だいたい、託生くんが受けるはずだった音大の入学は、ほぼ決まってたんだ」 「なんだって?」 まさか、裏口入学させる気だったのか? 「失礼なことを考えないでくれるかな?」 心の声が聞こえたようにきっちりと否定して、佐智が続ける。 「京古野さんに僕、そして須田先生が太鼓判を押していたんだ。大学側から見れば、もうそれだけで充分合格レベルに達していると判断してもおかしくないだろ?それに雅彦さんだって、託生くんが来るのを楽しみにしていたのに」 「あー、雅彦さんには申し訳ないことをしたと思っているよ。オレも、託生も」 「それは仕方がないことだけどね」 穂乃香さんから、聞いていた。 託生が入学するかもと聞いて、雅彦さんがとても楽しみにしていたことを。 だから、アメリカに行くと決めたとき穂乃香さんに連絡を取り、託生に病気が発覚して、アメリカでないと治らないからと、穂乃香さんから説明してもらい、雅彦さんに納得してもらった。 「なぁ。マンハッタン音楽院は、託生に合ってないのか?」 「それを決めるのは託生くんだよ。だから、マンハッタン音楽院と同レベルの音大をいくつか紹介しておいたから」 プロの目から見て、託生の腕と釣り合う大学を紹介してもらえるのは非常にありがたいことなのだろうが、オレがいぬ間にどんどん話が進んでいるのが、なんとなく気に入らず、恨みがましい目で佐智を見ていたらしい。 「義一君がなんと言おうと、ことバイオリンに関しては口を挟ませてもらうから」 しかし、ピシリと言い返し、視線を跳ね除ける。 音楽に関することだけは、妥協を許さないからなぁ。 「託生はなにか言っていたか?」 「なにも。義一君が自分勝手な独占欲で、託生くんの進路を決めようなんてセコイことを考えているとは、全然気付いていなかったみたいだけど」 聞いてみるんじゃなかった。 こいつ、相当怒っているな。時間さえあれば、一日中でもネチネチ言われそうだ。 「その場で各大学の関係者に電話して、見学できるように口利きしたから、今頃、順番に見に行ってるんじゃないかな」 「事後報告かよ」 「君の許可はいらないんだ」 「でした」 佐智直々に見学予約をしたのなら、あの生真面目な託生が見学に行かないなんてありえないだろう。託生が誤解した、一人で行く、行かないの問題は、おのずと解決したことになる。 誤解を解くのは別の話だが。 音大に関しては、数日の内に決定しそうだな。 オレの思惑通り行けば御の字だったが、こうなったら人間諦めも必要だ。 しかし。 「お前、そこまで世話焼きだったか?」 「そりゃ、託生くんのことだから。このまま腕を上げてほしいと思ってるし、義一君の思うがままになっているのが気に入らないんだよ」 「お前、本人を前に言う台詞か?」 佐智こそ、託生が日本の音大に行かなかったのを、根に持っているんじゃないだろうな? 「釘ぐらい刺したいじゃないか。右も左もよくわからない環境で、自分の進路なのに自分で決めることができないなんて。あ、通学時間の長さで選ぶのはいいけど、学費で選ぶことだけは禁止と付け加えてるから」 「それはそれは、ご丁寧にありがとうございます」 言いたいことは全て言ったとばかりに、すっきりとした表情で席を立った佐智とは反対に、ぐったりとした心境でオレは力なくチェックインカウンターへ向かった。 |