● ● ただひとつの願い事(2014.7) ● ●
七月五日、日曜日。
昨晩、音楽室の後片付けをギイに任せてしまった代償として、遅くまで寝かせてもらえなかったぼくは、案の定寝坊し、朝食が終わるぎりぎりの時間、食堂に滑り込んだ。 もうすでに人はまばらで、でも、端のテーブルにギイの姿を見つけ、カウンターで受け取ったトレイを手にギイの向かいの椅子を引いた。 「おはよう、託生」 「おはよう……起こしてくれてもいいじゃないか」 文句を言いたくなったのは、なんとなくギイの顔を見るのが恥ずかしかったから。そういうことがあった翌日の朝、ぼくはどんな顔をしていいのかいまだわからない。 のを、充分理解しているギイは、 「託生があまりにもぐっすり眠っていたからな」 ウインクをして、にっこり笑った。そして、お茶を入れてくれる。 「……ありがと」 「どういたしまして」 置かれたお茶を一口飲んで、誤魔化されたのか、誤魔化してくれたのか、判断がつかないけれど、とりあえずぼくの小言はスルーされたようだ。 ギイのトレイは、すでに綺麗に片付いている。その隣に折り紙の束と筆ペン。 「短冊用?」 「の、つもりだったんだけどな、こんなにたくさんいらないだろ?」 「確かにね」 願い事がたくさんある人はともかく、普通の人は一、二枚だ。 「残してても仕方ないし、いるヤツにあげようかと思ってさ。託生も書くか?何色がいい?」 折り紙の袋を手に取り封を開けようとしているギイに、 「……ううん、ぼくはいいよ」 首を横に振った。 「そうか?」 「うん、これと言って願い事なんてないし」 と返した自分の台詞にギクリとし、でも何事もない振りをして味噌汁のお椀を手に取ってみたけれど、聡いギイだから気付かれてしまっただろうか。混じってしまった、ぼくの本音に。 しかし、狼狽えそうになる自分を隠して、お椀を口元に持ってきつつ、前髪の間からギイをちらりと見たけれど、その心配はなさそうだ。ギイはそれ以上話を突っ込むことなく折り紙を元の位置に置いたから。 「おい、ギイ!」 学食の入り口の方から誰かがギイを呼び、二人揃ってそちらに視線を向けた。自分の腕時計を指差している様子を見ると、なにか約束事があったようだ。 日曜日だっていうのに、相変わらず忙しい。それなのに、トレイが空になっているにも関わらず、悠長にお茶を飲んでいたのは、もしかしてぼくが来るのを待っていたからかもしれない。 普段なら喜ぶところだけれど、今は少し一人にしてほしい。ポーカーフェイスは得意じゃないんだ。 ギイは片手を上げて返事をし、立ち上がりながらトレイと折り紙を持ち、ぼくに向き直った。 「このあと、託生はどうする?」 「街に出る予定もないから、部屋にいると思うよ」 「わかった。昼前には一度戻るから」 「うん」 ぼくの髪をくしゃと撫でたギイが、足早に学食から出ていったの確認して、詰めていた息を大きく吐いた。 朝食を食べ終わり、一人戻った寮の一階は、ロビーと言う広々とした空間なんてどこへやら、天井まで届く笹の木で埋め尽くされている。 よくこんな大笹をロビーに入れたなとか、「子供じゃないんだぜ?」と文句を言いながらも、あっというまに短冊でいっぱいになる祠堂生の要領の良さに苦笑するも、山奥に閉ざされた空間の数少ないイベントを精一杯楽しもうという心意気は、賞賛に値するものがある。 「七夕か……」 あちらこちらから入れ代わり立ち代わり、見物に来ている人間に混ざって笹を見上げた。 日本人なら誰でも馴染みがある恒例行事。 それこそ幼稚園の頃から「願い事を短冊に書きましょう」とか言われて、色とりどりの折り紙に願い事を書いたっけ。 なにを書いていたのか忘れてしまったけれど。いつから書けなくなったのか忘れてしまったけれど。 願い事が叶ったらいいなと短冊を笹の葉に結び見上げていたあの頃は、幸せだったのかもしれない。願い事を書けたのだから。 いつからか願い事を浮かべることさえしなくなった。ぼくにとって願い事なんて無意味なことだったから。 ぼくは、七夕の日が嫌いだった。 三〇五号室に戻り暇つぶしに図書室から借りてきた本を読んでいると、唐突にドアが開きギイが顔を出した。 「おかえり、ギイ」 「託生。ハサミと糊」 「は?」 ただいまの挨拶もせず部屋を大股で横切り、自分の机の引き出しを開けたギイをポカンと見つめる。 いきなり、なんなんだ。 ベッドに座ったままギイの成り行きを見ていたぼくを振り返り、 「ハサミと糊、持ってないのか?」 「あるけど……」 そりゃ学生なんだから、ない方が困るんだけど。 訝しげに問いかけてきたギイに首をかしげつつ、自分の机に寄りハサミと糊を取り出す。 「ほら、行くぞ」 「ちょっと、ギイ」 ぼくの予定なんてないけれど、勝手に引っ張りまわされるのも癪に障る。説明くらいしろよ。 その早急な行動に付いていけなくて、咎めるように呼んだぼくの声にギイが足を止めた。その背中が動揺しているように見える。 そんなにきつく呼んだつもりがなかったので、ぼくの方こそ狼狽えてしまった。 「あ、あの、ギイ?」 小さく肩で息をしたギイが、振り返ると同時にすっぽりとぼくを抱きしめる。 きつすぎず、弱過ぎず。ただ、守るかのように、長い腕と大きな掌がぼくの背中を包み込み、促されるようにギイの肩口に頬を預けた。………のだけれど、瞬時、音を立ててぼくの頬にキスをして覗き込んだギイは、なにかを企てているときに見せる悪戯っ子のような表情で、さっき感じた違和感はぼくの気のせいだったんだとホッとする。 「談話室でな、余った折り紙を集めて七夕飾りを作ってるんだよ」 「七夕飾り?」 「なんだったかな。提灯とか網とか。幼稚園や小学校で作ったんだろ?」 「………あぁ、あれか」 「どうせ折り紙なんて置いてても使わないから、七夕飾りを作ろうって盛り上がってて、オレは作ったことがないし、託生も一緒にどうかなと思ったんだけど」 あ、そうか。ギイ、作ったことがないんだ。興味津々だから、それで急いでいたのか。 「それはいいけど、ぼく、あまり覚えてないよ?」 「他のヤツらもいるから、見ているうちに思い出すかもしれないじゃん。それに、こよりも足りないから作らないとだし」 「折り紙で?」 「いや、印刷室に置いてあるミスプリを拝借してきた」 オレに抜かりはないと言わんばかりの手際の良さに笑ってしまった。 ほんとに、なんでも楽しいイベントに変えてしまうんだね。 「七夕飾り、一緒に作ろうぜ」 「うん、いいよ」 頷いたぼくに、ギイは嬉しそうに微笑みキスをした。 さすが祠堂。話が出たと同時にギイはぼくを呼びに来たのだろうが、談話室に下りてみれば、どこからともなくわらわらとハサミと糊を持参した人間が集まり始めて、あちらこちらで工作の時間のような懐かしい風景が広がっている。 「幼稚園の頃、やらされたよなぁ」 「スティック糊じゃなくて、指先でつける糊だったから、机も自分もべたべたになってさ」 「スイカとかもあったよな」 床に座り込みながら皆が童心に返り、この時期にしか手に取らない折り紙を折りながら、色々な形の七夕飾りを作っていく。 「なにを作ってたっけ?」 幼い頃の記憶を手繰り寄せながら、とりあえずオーソドックスな提灯を作ろうと、ぼくも折り紙に手を伸ばした。 確か、上下に余白を取って、切れ目を入れたっけ。それなりに、結構覚えているものだ。 しかし。 「ギイ、それどこまで伸ばすの?」 ひたすら正方形の紙を糊付けして……ひし形つづりかな?一メートル近い長さにまで伸ばしているギイに声をかける。 「だって、あの笹だぜ?これくらいじゃ足りないだろ?数メートルは必要じゃないか」 「………あのね。七夕飾りは吊るすものなの。クリスマスツリーのライトみたいに、周りに這わすものじゃないんだよ?」 ぼくの言葉に、ギイの手が止まりポカンとぼくを見る。 ギイにひし形つづりを教えたのは、誰? 「適当な長さのをいくつか作った方がいいと思うよ」 「うーん。じゃ、これは三つくらいに分けてと、飽きてきたから別の物を作るか。お、あれなんだ、託生?」 興味津々に指差したギイの視線の先には、細かな網飾り。 「えっとね。折り紙の真ん中が起点になるように何度か折って、交互にハサミを入れるんだ。細長く折ってハサミを入れたら、天の川のようになるよ」 手元にあった折り紙を折りながら説明したぼくに、ふむふむと頷き、 「グラデーションの折り紙が合いそうだから、貰ってくる」 とギイは立ち上がった。 散々、騒ぎながら作られた山ほどの七夕飾りを各自が大笹に吊るし、昨年以上に華やかになったロビーに、外出組が目を丸くして立ち止まったり、驚きの歓声を上げている。 「こういう有意義な時間の使い方もいいな」 「有意義なのかな?」 ただの暇つぶしのようだったけど。 「日本の行事を、よりいっそう理解できる」 満足げに言われた言葉に、ハタと思い出す。 なんでも知っているようで、日本人よりも日本人らしくて忘れているけれど、ギイはアメリカ人。知識として身につけている七夕行事も、こうやって参加すれば、現代の七夕事情が見えてくるものだ。 七夕ってのは、子供の頃に幼稚園の先生に言われて飾りを作ったりするけれど、高校生にもなれば全く興味のないイベントであり、しかし、ここ祠堂だけはお楽しみに飢えているせいで、こういう状況になるってことを。 「残ったミスプリ、印刷室に戻してくるよ」 そう言って寮を出ていったギイを見送り、もう一度、大笹に目を向けた。 ここまで見事な笹は、たぶん街中に行っても見れないだろう。祠堂生だけの特権。 結局、ぼくは願い事を書かなかったけれど、七夕イベントに参加し楽しむことができたのはギイのおかげかも。ほんの少しだけ、嫌いってのを返上しようかな。 自嘲するようにクスリと笑ったぼくの視界に、見覚えのある七夕飾りが目に映る。 「あ、ギイの網飾り」 グラデーションの折り紙を貰いに行き、しばらくして戻ってきたギイの手には、茶系のグラデーションで作った網飾りがあった。 「この色しか残ってなかった」とギイは不満そうだったけれど、ぼくはギイの色だと思うから、茶色は好きなんだけどな。 七夕飾りというだけあって、普通は表側の目立つ場所に吊るすものなのに、奥まって目立たない場所に吊るされた網飾りに首を傾げ、ふと手に取ってみた。 「あれ、裏になにか書いてある?」 真っ白のはずの裏側が所々黒くなり、しかし、これだけビローンと伸ばしていては、なにが書いてあるのかわからないけれど、確実になにかが書いてある。 窺うように周りに視線を向ければ、大勢人はいるが大笹に気を取られ、ぼくなんかを注視している人間はいない。ギイも第一校舎から帰ってくるには、まだ早すぎる。 しばらく考えて、こっそりと伸びている網を縮めてみた。黒い点がどんどん繋がって、文字が浮かび上がり、そして………。 *********** 「マーミィ!」 キッズルームで大人しく短冊に願い事を書いていた子供達が、駆け寄ってきた。 「一颯、たくさん書いたね」 「うん、いっぱいお願い事あるから」 「なになに………おなかいっぱい、おかしをたべれますように………?一颯、おやつ足りないの?」 ガックリ肩を落としながら、あぁギイの子供だなと納得する。 「大樹は、書いた?」 「はい」 几帳面な文字が並ぶ短冊に、親としては嬉しいのだけれど、あまりにも優秀過ぎて少しだけ心配になる。ぼくは、年相応でいいんだけど。 我が子ながら英語と日本語を完璧にマスターし、しかもこれだけ文字が綺麗に書けるっていうのは、これまたギイの子供だな。 「まみ、まみ」 「咲未は………よく書けてるね」 「うん!」 全然読めないけど、大樹と一颯の真似をして、咲未なりに文字を書いたつもりなのだろう。 大樹が一歳になる少し前、ギイが仕事から帰ってくるなり言ってきたのだ。 「知り合いの土地に竹林があってさ、託生が七夕やりたいのなら、分けてもらうけどどうする?」 「………竹って、笹と同じなの?」 「同じ竹笹類だよ。竹皮が落ちる落ちないで区別してるけど、あまり関係ないかな」 「ふぅん」 「で、どうする?」 「やるやる!やりたい!」 そうして、毎年大きな笹の葉を譲ってもらい、ペントハウスで飾るようになった。 子供達に日本の行事を知ってもらいたいというのもあったけど、ぼくも祠堂にいた頃の懐かしさから、この時期をとても楽しみにしている。 前もって作ってあった七夕飾りと子供達の短冊を吊るし、最後に網飾りを吊るした。 その裏には、毎年同じ文字を書いている。ギイがこっそり書いて大笹に吊るしていたのと同じ………ぼくとギイの願い事。 『いつまでも愛してると伝えられますように』 書き始めたのは、いつものごとく一年前でございます; 案の定、当日に間に合わなくて、あー、またお蔵かと思いながら残していたもので、数日前からちょくちょく書いていたのですが、状態が状態なだけに、当日になってしまいました。 まぁ、仕上がっただけ、ヨシとしましょう。 (2014.7.7) |