● ● 振り向けば、ただありふれたペンの先 -5- ● ●
階段を下り薄暗いホールを横切って、奥にあるベンチに座った。
頭上には大海原を悠々と泳いでいるような、等身大の鯨の姿が浮かんでいる。 自然史博物館は、託生が、今、見学に行っている音大から徒歩十分ほどの距離だ。 音大の前で待っていてもよかったのだが、佐智の口利きなら、案内人が託生を見送りに出てくるかもしれない。そうなれば、託生が気にするのが目に見えていたので、ここを指定したのだ。 しばらくすると、ぼんやりと鯨を見上げている視界に影が映った。 「ギイ、お帰り」 「ただいま」 あの夜から 初めての会話。 託生はオレの隣に座り、同じように鯨を見上げた。 一人きりで見ていたとき、それはいつも大きく重く、オレは息苦しさを感じていた。 自分の生まれた家、自分にかけられた期待、いつかこの肩に圧し掛かる責任と重圧。 逃げることができない己の運命を嘆くこともできず、ただただ流されるがままに生きていたオレの前に現れた託生。 そのとき、この腕の中に託生を閉じ込め、鯨を見上げたいと思った。それが恋とは知らないまま………。 初めて二人で見たとき、託生はオレを思い出してくれた。そして、何度でもオレと恋をするんだと、涙に濡れた瞳で綺麗に笑った。 託生は静かに鯨を見上げたままだ。 今なら、オレの言葉を聞いてくれるかもしれない。誤解を解くことができるかもしれない。 オレは託生に向き直り、まっすぐに頭を下げた。 「託生、ごめ………!」 「ギイってさ、どうしてコロンビア大学に行ったの?」 勢い込んで謝罪しようとしたオレの言葉をはばかって、託生が無邪気に質問する。 拍子抜けしてポカンと託生の横顔を見ると、つい先日、二人の間に何事もなかったかのように、小首を傾げてオレの顔を見上げ確認してきた。 「昔、進路希望調査書に、東大、ケンブリッジ、マサチューセッツ工科大だっけ?書いてたよね?」 「あ………あぁ、あれな」 選択科目を決めるために、全員に提出が義務付けられていた進路希望調査書。 もうすでに大学を卒業していたオレには必要のないものではあったけど、学校側としては一応生徒の動向を確認しなくてはいけないものなので、適当に書いて提出しただけだ。 それを、なぜ? 「ギイだったら、世界中のどこの大学でも選び放題だと思うんだけど、どうしてコロンビアを選んだの?もしかして、ぼくがNYに来たせい?」 選び放題って、まるで誰かに言われたかのような台詞だな。 なにを考えて託生が今更こんなことを聞いてきたのかわからないが、託生のせいだと、これまた勘違いされては困る。 「まさか。仕事があるのに、NYから離れられると思うか?本社が、ケンブリッジ市やイギリスにあったら、そっちに行ってたかもしれないけど、現実的に無理だろ?」 オレの返答にホッとして、託生が肩の力を抜いた。 「託生?」 「じゃあ、あの進路希望調査書は?」 託生のペースに巻き込まれ、謝罪するタイミングを逃し、納得がいかないような気もするが、とりあえず立て続けの託生の疑問に答えていく。 「あれは、まぁ、ざっくりとした単純な希望というか。書くのはタダだからな」 「だったね。書くのはタダだもんね」 高校三年の春、友人としてのオレとの接点のためだけに、マンハッタン音楽院の名前を書いたことを思い出したのか、託生がクスリと笑った。 「なんだか不思議」 「なにが?」 「だってさ、あの頃はNYに行くなんて、絶対できるはずがないと思ってたんだ。遠い手の届かない異国のような気がしてたのに、こうやって、ギイと一緒に過ごせるなんて夢のようだなって」 託生の目が優しく笑う。 数日前、傷つけ泣かせてしまったオレに、なぜそのように笑えるのか。 消えてしまいそうな幻のように感じ、思わず伸ばした腕の中に、託生が落ちてくる。 「行きたい大学があるんだ」 「どこ?」 「まだ、見学に行ってない大学があるから確定じゃないけど………」 「それは、それだ。託生は、今、どこに行きたい?」 「マネス音楽院」 視線を合わせて、きっぱりと託生が言い切る。 真剣に各大学を見学し比較検討していたからこそ、自分の行きたい大学を見つけられた。 託生が先刻見学に行っていたマネス音楽院。アッパー・ウエストサイドにある少数精鋭の音楽大学。 少人数だからこそのきめ細かい指導と、半数が留学生という背景から設置されてあるインターナショナルスチューデントサービスで、留学生をサポートしてくれる。 生徒数八百人という大所帯のマンハッタン音楽院より、託生には合っているかもしれない。 運命に流されたようにNYに来て、でも、託生が自分の意思で初めて決めた第一歩。ここで、生きていくと託生なりに覚悟を決めている証拠。 それを、オレが邪魔をするなんてできるはずがない。 「じゃ、がんばるしかないよな」 「うん……あの、マンハッタン音楽院………」 「明日、一緒に行こうか」 たぶん入学することはないだろうけど、滑り止めとして受験はするかもしれないのだから。 ホッとしたように一瞬頬を緩ませた託生が、姿勢を正した。 「ここは日本じゃないんだから、心配になって当たり前だよね。それをギイがバカにしてるなんて勘違いして、ごめん。意地になって、一人で行くなんて言い張って……」 「いや、違うんだ。託生が謝る必要は………」 託生からの謝罪に慌てて口を挟むも、自分の気持ちでいっぱいいっぱいになっている託生には、オレの言葉は届いていないらしい。堰を切ったように、託生が言葉を重ねる。 「あああのね!佐智さんが大学に話を通してくれて、いくつかの大学の願書を取りにいったんだ。ギイが心配してくれたけど、一応、ぼくの語学力でもなんとかなったから。安心してって言いたいけど、やっぱり心配になっちゃうよね………」 徐々に小さくなっていく語尾に、罪悪感がグサグサと胸に突き刺さる。 この数日、オレはこんなにも託生を悩ませていたのか? 言い訳なんて考えず、さっさと電話でもメールでもして、誤解を解く努力をしていれば………。 「託生、ごめん!オレは、託生を頼りないなんて思ってないし、願書だって一人で取りに行けると思ってた。託生が謝る必要なんて、これっぽっちもないんだ」 「でも、ギイ。あのとき、なにか別のこと考えてなかった?」 あぁ、それは、気づかれていたんだな。 「オレは、託生にジュリアードかマンハッタン音楽院に行ってほしかったんだ」 「どうして?」 不思議そうな顔をして、託生がオレの顔を覗き込む。 そりゃ、そうだろ。託生が行く大学に、オレが物言いをつけるなんて、普通考えつかないだろうし。 オレの答えを待っているらしい託生の顔を見て、覚悟を決める。 呆れられても、笑われても、今更だ! 「そうしたら、託生と一緒に、今までみたいに大学に通えるだろ?あの二校はコロンビア大学の近所だから」 「は?」 早口で言い切って、視線をそらした。 ホールに響く他人の声が、やけに大きく聞こえてくる。二人の間に流れるこの沈黙が痛い。 余りにも静かな託生に、横目でチラリと反応を伺うと、先ほど目の前にあった託生の顔が消えていた。そのまま視線を下にずらせば、上半身を折り曲げ肩を震わせている託生が目に入ってくる。 必死になって笑いを堪えているらしい。このホールは響くもんな。 「託生………」 「だ………って………ギイ、子供………ぶふっ」 託生が顔を上げ、オレの視線が合ったとたん、またもや笑いのツボを押したようで再び膝に顔を埋めた。 お前、笑いすぎだぞ。だいたい人の顔を見て笑うなんて、失礼にもほどがある。 でも、あんな傷ついた顔を見るなら、笑ってくれたほうがいいけどな。 「はぁ……疲れた………」 ぐったりオレに体を預け、頬を紅潮させた託生が呟く。 そこまで笑ってもらえたら、こんな餓鬼臭い理由で恥ずかしい思いをしたかいがあったよ。 託生は遠慮なく散々笑ってくださり、しまいには堪えすぎたせいで、咳が止まらなくなって、 「お……おいっ」 オレは慌てて背中を撫で、託生を落ち着かせたのだ。 目尻にたまった涙を指でぬぐいながら、 「ギイって、バカ?」 と、おかしそうに聞いてくる。 「あぁ、バカだよ」 正真正銘、誰から見ても、究極の託生バカだ。これだけは、胸を張り自信を持って言えるぞ。 「でも、バカなギイもギイだもんね」 内緒話をするように、そっと手をオレの耳に当て、託生が頬にキスをした。 「ギイと大学生活を送れたみたいで、楽しかったよ」 「バカ、過去形にするなよ。入学するまでは一緒だろ?それに受験はこれからだ」 「うん。がんばる」 託生のレベルなら大丈夫と佐智には言われたけれど、こればかりは蓋を開けてみないとわからない。 「あ、でも、マンハッタン音楽院も受けるつもりなんだけど、受かったらそっちのほうがいい?」 「こーら。マネス音楽院に行きたいんだろ?オレも応援するから」 「応援してくれるんだ?」 バカな理由でマンハッタン音楽院に行ってほしかったと言ったオレの希望とは正反対な言動に、託生が大袈裟に驚く振りをする。 このやろ。 「なんだったら、体育祭のときの応援合戦の学ランでも着て、マネス音楽院の前で、三・三・七拍子でも」 「………却下」 そんな恥ずかしいマネするなよ。 横目で睨む託生が可愛くて、さっきの託生のマネをするように耳に手を当て、 「愛してる」 ささやいて頬にキスをした。 思いを交わしたあの入寮日から、まだ三年も経っていない。しかも、あの驚愕の事実が発覚してからは数ヶ月だ。 元々、託生はオレとの恋をゆっくり育んでいきたかったんだ。 きっかけはどうであれ、こんなに慌しく託生の生活が変わるなんてこと、望んではいなかった。 運命の流れ、環境の流れ、自分の体と心のバランスが落ち着き、やっと客観的に自分を見れるようになってきた今、オレがしっかりと託生を支えなければ。 ――――反省と誓いを胸に秘めた、ある秋の日の出来事。 |