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●  雪に残った足跡-8-  ●

 マネス音楽院に着いたとき、まだ託生の姿はなかった。
 しかし、ぽつりぽつりと出てくる学生の姿に、そろそろかなとドアを挟みセントラルパークと反対側の木の陰で立ち止まる。
 一悶着起こす予定だし、サブウェイへ向かう道のど真ん中では邪魔になるだろうとの配慮だ。
 煉瓦作りの外観に、白枠が映える窓。そろそろ百年になる古い建物で、三百人に満たない大学生、院生が勉学に励む音楽学校。
 今思えば、近代的な設備を持つ学校もいいけれど、このような趣のある学校で学ぶのもいいものだよなと、あの古めかしい祠堂に思いを馳せる。
 託生が、何故この学校を選んだのかは聞いていなかったが、姿は違えど祠堂と同じような空気を持つこの空間が懐かしかったのかもしれない。
 しばらく待っていると、託生がドアを開けて出てきた。
 視線を巡らせオレを探す間もなく、託生を追いかけるように一人の男が出てくる。馴れ馴れしく話しかけている様子から、あいつが勘違い男なのだと直感した。
 また、なにかしらの侮辱を受ける可能性もあったので、最後の講義だけでいいと言ったオレに、きちんと朝から出ると言ったのは託生。
 こんなことで、音楽の勉強を邪魔される言われはないと、ぼくには講義を受ける権利があると頑として聞かず、それならと、本社に向かうオレの車に乗せ、ここまで見送った。
 婚約者が迎えに来るとでも言ってるのだろう。
「託生!」
 執拗な男の手から助け出すように呼ぶと、
「ギイ!」
 男が一瞬こちらに視線を向け気を取られた隙を縫い、託生が手を伸ばして走り寄り、オレの胸の中に飛び込んできた。
 いつもなら周りを気にして、せいぜい手を繋ぐぐらいしか許してくれない託生が、自ら飛び込んできた事実に、昨日より事態は悪化しているのだと予想する。
 そのまま託生を抱きしめ、腕の中に閉じ込めたまま、視線を前に向けた。男との距離は十メートルほど。
 男の目が、信じられないものを見るように見開いている。
 一応、自分がモデル並のルックスをしているのは自覚しているし、今、身に着けているのは卸したばかりのオーダーメイドスーツだ。小物も全て一流品。
 そこらの大学生には、早々手が出せないであろうものばかり。
 だが、勘違い男は、一式揃えることはできるようだな。一応、名の通る会社の坊ちゃんらしいし。ただし片田舎だけで。
「託生、あいつか?」
 視線を男に定めたまま囁くと、託生が腕の中でこっくりと頷き、
「婚約者が迎えに来るって言ったんだけど………」
 そして、短く今の経緯を説明した。
「託生の婚約者だ。託生に付きまとっているらしいな。昨日のことも聞いている」
「婚約者………?」
「聞こえなかったか?もう一度、言うぞ。託生の婚約者だ。お前の付きまといに迷惑している。即刻、ストーカー行為を止めろ」
 一応、形式上、警告をした。これで終わる相手だとは、鼻から思っていないけど。
 男は、オレを上から下まで何度も視線を巡らし、プルプルと震えだした。
「ストーカー行為だと?タクミは、俺を弄んでいたのかっ!」
 あぁ、やはりそう来るか。思っていた通りだ。
 勝手に恋人認定して勝手に逆切れか。どこまでも妄想で生きている男だな。
 そう、返そうとしたオレの側から、
「ぼく、初めから婚約者がいるって言ってたはずなんだけど、信じられなかったんだよね?遊んでるつもりはなかったよ?」
 的外れな答えが聞こえてきて、唖然と託生を見た。
 本気の発言………だよな。
 誰かがどこかで吹き出し、誤魔化すように咳払いをしたのが聞こえてくる。
「子供に見えるから婚約者がいるようには見えなかったかもしれないけど、これでも、一応十九歳なんだ」
 ………昨日のやり取りで「託生に気があるから」と訂正したらよかったのか?しかし、そのあと、相手の行為はセクハラだと託生には説明したよな?
 託生、真面目に返答しなくていいんだぞ。どんどん方向がずれていくから。
 こめかみに手をやりながら男の背後を見ると、興味津々にこちらを窺っている学生が多数立ち止まっていた。それに目線だけ建物に向ければ、二階三階の窓からも鈴なりに並ぶ顔、顔、顔。
 せっかく帰り道の邪魔にならないようにと、こちら側に来たのに、これじゃ見世物だな。
 ハラハラと二人のやりとりを見ている空気は全くなく、むしろ面白がっていると言うか。
 勘違い男と託生の天然ボケのやりとりは、考えたくはないが学内に娯楽を提供していたんじゃなかろうか。
 まぁ、託生以外、勘違い男の言い分が的外れで独りよがりの妄想だということは伝わっているだろうから、そこはとりあえず良しとしよう。
 しかし。
「そうじゃないだろ!俺はタクミに素直になれって言っただろっ!」
「だから、素直に婚約者がいるって言ったはずなんだけど。信じてもらえないみたいだから、本人に来てもらったんだ」
 ダメだ。この調子じゃ永遠にリピートする。会話のキャッチボールどころか、お互い変化球を投げまくっているだけじゃないか。
 とりあえず、ここを閉めなければ。
「託生、言ったって、こいつにはわからん」
「そうなの?」
「わかるようなら、毎日同じこと言わないだろ?」
「あ、そうか、そうだったね」
 あっさり納得してにっこり笑った託生にバカにされたと思ったのか、勘違い男の顔が真っ赤に染まり背後の学生達は笑いを噛み殺した。
 なんとなく、託生がオレに言わなかった理由がわかったような気がする。馬鹿馬鹿しすぎて、話にならないと思ったんだな。
「で、結局、お前はなにが言いたいんだ?昨日のことも含めて、聞かせてもらおうじゃないか」
「………タクミを助けたいだけだよ」
「へぇ、なにから?」
「君からだよ。そんなちっぽけな指輪で縛り付けられているのを見ると、タクミが可哀想だ」
 囚われの姫を助ける正義のヒーローを気取るも、
「どうやって指輪で縛るの?」
 不思議そうな顔をしてコテンと首を倒した託生の頭の中は、物理的に指輪をどうするんだろうと考えていることが想像できる。長い付き合いだ。
 指輪で束縛されているなんて、これっぽちも思っていないし、そもそもエンゲージリングだってステディリングだって、オレの好きなようにさせているだけ。
 つけていると、オレが喜ぶから。理由なんて単純だ。
 さて、どうするか。そう考えたとき、
「見たところ、金と顔だけじゃないか。そういうヤツってのは浮気を繰り返すもんだぜ?」
 知ったかぶりで……というか、そういう設定にされているのだろうけど、男がオレをあざ笑った瞬間。大人しく腕の中で収まっていた託生の体が固まった。
 と同時に感じる。託生の空気が変わったのを。
「声が出ないってことは、タクミ、身に覚えがあるんだろ?何度も浮気されてたんだろ?そいつじゃ、幸せになれないんだ。そろそろ自分の気持ちに正直に………」
「ギイが金と顔だけだって?」
 ペラペラと持論を展開していた男の台詞を、託生の剣呑な声が攫った。
 そろそろと横目で託生を窺うと、ゾクリとするほど綺麗な笑顔を浮かべ、さっきまで発揮していた天然ボケはどこに行った?と聞きたいくらい、纏う空気が変わっている。
「君は、ギイのなにを知ってるのさ?」
「なにって、そういうヤツは………」
「そういうヤツって、どういうヤツ?もしかしてギイと初対面じゃないの?どこかで会ったことがあるの?」
 バカだ、こいつ。託生の上っ面だけしか、見てなかったんだな。託生の地雷を踏み抜いた。
 片倉以外、ほとんど味方がいない状態の祠堂で、一年間過ごしたヤツなんだぞ。我慢強さと芯の強さは人の数倍。
 しかも、自分のことなら何を言われてもかまわないと、何度もそれは間違いだと指摘することが多々ある性格も、逆に言えば、他人に対して攻撃するヤツには容赦がない。その中でもオレに関することは真正面から受けて立つ侍のようなヤツなんだ。
 優しい笑顔の中にある、他人に対する思いやりが、時には牙を向く。
 託生も、今までの鬱憤が溜まっていたのだろう。怒髪天を衝く勢いで、勘違い男に噛み付いている。
 しかし、このような激怒した託生に顔を引きつらせ狼狽しながらも、
「だいたい、そいつが婚約者だという証拠がどこにあるんだ!俺にヤキモチ妬かせたいから、その辺りの男を連れてきただけだろっ!」
 地団太を踏むように、男が喚き立てた。
「………ギイ」
 託生がオレを呼んだ。
「うん?」
「キスして」
「いいのか?」
「やっぱり、信じてもらえないみたいだから」
 あ、うん、そうみたいだな。オレがここに来たのは「婚約者はいる」と相手に信じてもらうためだったな。託生としては。
「ん………」
「愛してる、託生」
 キスの合間に、囁いて、
「ぼくも………」
 なんて、託生からの言葉も貰って。
 と、同時にポケットに隠し持っていた小さなカプセルを口に入れ、託生の口に流し込んだ。
 別の方法を取ろうと思っていたけれど。
 やっぱり、お前には見られたくないんだ。臆病者ですまない。
 自分の口の中に異物が入ったと認識した託生は、薄く目を開けオレの真意を測るようにオレを見つめ、そしてもう一度ゆっくり目を閉じ、託生は躊躇いなくそれを飲み下した。
「あとは、任せてくれ」
「………うん」
 離れる寸前「愛してる」と、直接口唇に吹き込んで。
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