● ● Go for it!-5- ● ●
一颯に言われてから、ずっと考えていた。バイオリンを弾くということに。
レコーディングが終わってホッとしたのと同時に、ぽっかりと心の片隅に穴が開いたような感覚には気付いていた。しかし、それは大仕事が終わって肩の荷が下りたからだと思っていたんだ。 けれど、そうじゃなかった。 考えれば考えるほど、突き詰めれば突き詰めるほど、自分の心の奥底に隠れていた本音が浮かび上がってきた。 バイオリニストとして舞台に立ちたいという本音が。 自分の演奏が世間に通用するかどうかも定かではないのに、バイオリニストになりたいと言うのは、エゴイストの自己満足と揶揄されることなのかもしれない。でも、自分の気持ちに気付けば、もう止めることはできなかった。 今の生活に不自由しているわけではない。ギイがいて、子供達がいて、毎日充実した生活を送っているのに、でも、ぼくの心が叫んでいた。 もっとバイオリンを弾きたい、と。 でも、ギイには言えなかった。佐智さんのコンサートを聴きにきてくれると言ってくれたにも関わらず、ギイがそれ以上のものを望んでいないような気がして………反対されそうな気がして、言い辛かったんだ。 だから、自分の腕がバイオリニストとして通用するものかどうかも含め、佐智さんに相談した。 決断を待ってたんだよと。あとは全てギイに任せればいいと返事を貰い、やっとぼくは、ギイと話をしようと腹を決めた。 「ごめんね、仕事中にメールなんかして」 「いや、急ぎの用事なんだろ?託生のメールなら、いつでも大歓迎だ」 メールの返事どおり早くに帰ってきてくれたギイは、そう言ってぼくの頬にキスをし、ソファにぼくを促した。 どう切り出そう。 ギイは、いつもの優しい笑顔を浮かべているのに、何故かピリピリとした緊張感のようなものを感じた。 ごくりと生唾を飲み込んで、ギイに向き直る。 「この一週間、バイオリンを弾きながら考えてたんだけど、ぼく、子供達が大きくなった将来、バイオリンを弾いていたいんだ」 「それは、今のような……言葉は悪いかもしれないが趣味のような形じゃなく、バイオリニストでいたいってことだな?」 「うん。でも、具体的に、子供が大きくなったらって何年後なんだろうと思って。その頃にやりたいと言って、できるものじゃないよね?」 バイオリニストとして舞台に立ちたいとは思ったけれど、ぼくには子供達がいる。咲未なんて、まだ一歳だ。 子供達がどのくらい大きくなったら手が離れるのか。でも、そのとき行動に移しては遅すぎるのではないのかと、ぐるぐると考えていたのだ。 「そうだな。十年後と仮定して……咲未が十一歳になってるから、充分だな。その頃には、託生は三十八歳。できないことはないだろうけど、それだけのブランクを抱えてたら、どのような仕事であれ、正直かなり難しい話だと思う」 ギイは具体的な数字を上げ、ぼくの気になっている点を明確に示した。 「………一颯に言われたんだ」 「なんて?」 「コンサートに出るのにバイオリニストじゃないのはおかしいって」 「そんなこと………」 「学校で、何度も舞台に立ったことがあるけど、それは授業の一環であって、コンサートじゃなかった。佐智さんの仕事の場である舞台に立つのに、こんな中途半端な立場では申し訳ないと思ったんだ」 「佐智のコンサートのためだけにバイオリニストになるって言うんなら、オレは反対だ」 眉を寄せ、ビシリと言い切るギイを見て、言葉足らずの自分に気付き、 「ギイ、違うんだ。そう気付いて考えたとき、バイオリニストとして舞台に立ちたい自分がいたんだ」 慌てて言葉を重ねた。 きっかけは、一颯の言葉だった。佐智さんに対しても、申し訳ないと思った。 でも、それ以上に、自分がバイオリニストとして、舞台に立ちたいと思ったんだ。 ギイは、ぼくの真意を確かめるように、じっと見つめたあと、ふと表情を和らげ静かに微笑んだ。 「託生の気持ちはわかった」 ギイに伝わったと、ホッと息を吐きかけたものの、ギイの表情がまるで作り物のように見えて、胸に不安が過ぎる。 「ギイ、ぼくがバイオリニストになるのは反対?」 「いや、そんなことはない」 間髪入れずに否定するその態度が、不安を倍増させていく。 なんだろう。ギイがものすごく無理をしているように見える。 「でも、賛成でもない?」 ぼくの問いに、ギイは、ほんの少し目を見開いて口唇を噛み、 「………オレは佐智を知っているからな。華々しい舞台の影で、苦労しているのを見てきているから」 重々しく口を開いた。 たった十三歳でプロのバイオリニストになった佐智さん。 天才的な才能を持っていても、大人の世界の中で同等に渡り合う苦労は並大抵なものじゃない。妬みや心無い中傷を受けることもあっただろう。 違う分野ではあるけれど、ギイも同じ思いをしたはずだ。 「ぼくに、そういう苦労をさせたくないだけ?それだけが賛成できない理由?本当に?」 それが理由ならば、ぼくは諦めない。諦めたくない。 食い下がるぼくに、ギイは諦めたように溜息を吐き、 「そうだ。それでも、託生がバイオリニストになりたいと言うのなら、全力で応援する」 晴れやかに笑って、初めて賛成してくれた。 同時に、ぼくの中でくすぶっていた不安が消え、嬉しさに塗り替えられていく。 「ありがとう、ギイ!」 その勢いで抱きついたぼくを、ギイは優しく抱き締めて髪にキスをした。 ギイが心配している苦労は、たぶん働いている人全員が多かれ少なかれ経験していることだと思う。ぼくは、社会に出たことがないから、まだ甘く考えている部分があるのだろうけど、それでも、バイオリンを弾いていくためなら、どんなことでも耐えられる。 背中を撫でる心地よいギイの手の動きに身を任せていると、 「託生がその気なら、今度の佐智のコンサートから間を置かず、正式にデビューした方がいい」 一気に現実に戻され、ギイを見上げた。 「バイオリニストとして基盤を作るなら、早いに越したことはないんだ」 「今、すぐ?」 「あぁ。佐智が与えてくれたチャンスだ。殺すよりも、生かすことを考えた方がいいと思う」 佐智さんがくれた、チャンス?もしかして、ぼくのために、ゲスト出演の話を持ってきてくれた? 「で………でも、今すぐって、子供達のこともあるし」 「活動場所を限定すればいいんだ。その日の内に帰ってこれる」 「そんなことできるの?ぼくが、活動場所なんて決めれるの?NYだけとか?」 「そのためのソリストだろ?一種のフリーエージェント」 ニッと笑いながら、しかし、次々と案を出していくギイの話に、夢が現実に近づいていく。 ネックになっていた子供達。でも、その日の内に帰れるのなら、佐智さんのレコーディング期間のように、シッターやナニーに手伝ってもらって、やっていけそうだ。 「ただし、バイオリニストとして見ると、亀の歩みだ。活動場所を限定するんだから、名前を浸透させるのに時間がかかる。地道に演奏活動をしていくしかない。それこそ、すぐにどこかのオーケストラが呼んでくれることもないだろうからな」 「うん」 そんなことは、もちろん承知だ。仮に活動場所を国内としても、名前も浸透していない新人ソリストを呼ぶような無謀なオーケストラはないだろう。 「とりあえず、託生は十日後の佐智のコンサートだけを考えてくれ。あとのことは、オレに任せろ」 「うん、ありがとう、ギイ」 バイオリンが弾ける。バイオリニストとして舞台に立てる。 嬉しさに涙を滲ませたぼくを、 「舞台では泣くなよ」 とからかって、ギイは力強くぼくを抱き寄せた。 ギイは、個人事務所を作ると言ったけれど、新人の無名バイオリニストが、その事務所を切り盛りできるだけの活動をできるとは思えないし、一番に、子供がある程度大きくなるまでは………最低でも咲未が幼稚園に行きだすまでは、NYだけで活動したかったぼくは、Fグループが持っている事務所に所属させてもらった。 ぼくの誕生日頃にデビューコンサートができるよう、計画を進めていくと聞いていたが、とりあえずは目前にある佐智さんのコンサートだ。 出演するための様々な準備……ぼく一人では、それこそ舞台用のメイクなんてできないから、そのお手伝いをしてくれる人と打ち合わせをするため、ぼくは事務所を訪れていた。 「副総帥夫人のお遊びに付き合うのも大変だよな」 「でも、当分はFグループのお付き合いでチケットを買ってくれる人がいるだろうから、人が入るんじゃないか?」 「その前に、本当にデビューコンサートが開催できるのか、そっちの方が問題だと思うな。数ヶ月の間に、やる気をなくしたりしてさ」 「賭けるか?」 下種な笑い声に、足が止まった。 お遊び………。 そう、思われていたんだ。 大学院を卒業して三年。その間、佐智さんのレコーディングの手伝いをしていただけで、オーケストラに所属していたわけでもなく、どこかの室内楽のグループに入っていたわけでもないぼくには、これと言って肩書きがない。 それに、子供中心に活動をしたいなんて、仕事に対して無責任だと言われるような、我侭も言っている。 今の世の中、お金さえあれば、どの分野であれデビューはできる。実際、ぼくにはギイというパトロンがついているのだし、デビューまでの人件費やその他諸々の経費は全てギイが出しているはず。 ぼくの腕がどうであれ、売り出すことはできるんだ。 「託生さん、車の用意ができましたよ」 当日の付き人として同行する予定の村上さんが、ぼくを呼んだ。その声に振り向いた二人が、ぼくを認識したとたん顔を引きつらせる。 盗み聞きしたつもりはない。聞こえてきただけだ。聞かれたくない話なら、こんなオープンな休憩所で、大声で話さなければよかっただけ。 お遊びと思うのは勝手だけれど、そんな中途半端な人間だったら、ギイの顔に泥を塗る。それに、ぼくを推してくれた佐智さんにも。 以前、淑女の立ち居振る舞いとマナーを習ったとき、笑顔のレッスンなんてものがあって、こんなもの必要なのだろうかと疑問を浮かべていたのだけど、こういうとき役に立つんだなと冷静に思いつつ、にっこりと笑った。 「十年後、同じ言葉を聞かないように、がんばりますね」 謙遜ではなく、嫌味だけど。 ぼくのお遊びに付き合うのが大変だと言うのなら、誰か他の人に代わってもらったらいいのに。 二人は罰が悪そうな表情をして、そそくさと席を立ち、廊下の奥へと姿を消した。 なにも始まっていない今。ぼくに、できることは、なに? |