雨の夜と風の囁き-2-
かすかな衣擦れの音が耳に届き、オレはキーボードを打つ手を止め、ドアを開けっ放しにしている寝室に向かった。そして隣接されているバスルームのドアを開け、湯を貯めるためにノズルを捻る。
稲妻が走り窓ガラスを叩きつけるように降っていた雨は明け方止み、今日は清々しい青空が広がるいい天気だった。森の木が洗われ緑が輝き、森林浴をするにはうってつけの日だったのだが、少し外出しただけで、オレはずっと寝室の隣にある私室に籠ったままだった。 音をたてないようにバスルームのドアを閉め、部屋の中央に視線を向ける。 太陽の光が入らないよう、きっちりとカーテンを閉めた寝室のベッドで丸くなっているのは、昨晩飛び込んできた託生だ。 そろそろ日が暮れる。吸血鬼である託生の活動時間。 長い夏の休暇に入り、親父がここぞとばかりに丸投げしようとした仕事から逃げ、しかし崎家の別荘を使えば誰かしら訪問してくるのが即座に目に浮かんだオレは、静かな休暇を送りたくて佐智にここを借りた。嫌味のように毎日仕事が送り込まれてきていたが、PCで終わることばかりだから、それほど苦ではない。 都会の喧騒を離れ、自然の中でゆるりと流れる時間に身を任せ、一人の時間を楽しむ。それが思いのほか心地よく、自分が気付かない内に疲れていたんだなと自覚せずにはいられなかった。 しかし、所詮都会人。そんな毎日を送り少々退屈してきたなと思っていた矢先、天使が舞い込んできた。 真夜中、誰かが窓から入ってきたのには気付いていた。かけたはずの鍵が解除されていたのは、今、考えれば託生が魔術かなにかを使ったからだろう。 盗みに入るのならば人がいる寝室ではなく、一階の居間や裏口から入るのが定石。それなのに、わざわざ寝室に入ってくるなど、いったいこいつは何を考えているんだと興味が湧いた。 近寄ってくる気配に息を潜め行動をうかがっていると、なにをするわけでもなく、じっとオレの顔を見詰めてきた。目を瞑っていても感じる、ねっとりとした視線。かすかに空気が動く。そして、近づいてきた口元に二つの牙が光るのを薄目で確認したオレは、瞬間、侵入者を組み敷いた。 まさか、この現代に吸血鬼?!そんな作り話の中でしか存在しないはずの物が、実際にいるのか?! 驚きと疑問と少しばかりの好奇心を持って、 「へぇ。今時の吸血鬼って、男が男を襲うんだな」 そう声をかけながら見やった託生に、胸の奥がざわりと揺れた。中途半端に開いたカーテンから入る稲妻の光に華奢な体が浮かび上がり、もっとよく見たくてスタンドの明かりをつけた。 真っ白い顔に血走った目。とがった耳。 吸血鬼と言えば、そういう姿形を無意識に想像したのだが、目の前にいる者は予想を大きく裏切っていた。 見た目は、せいぜい15,6歳。実際の年齢はわからないが、オレよりも年下のように見える。 いや、そんなことより、オレは託生の印象的な瞳に釘付けになった。汚れのない澄んだ真っ黒な瞳。こんな綺麗な目を見たことがない。そして視線を下にずらせば、ぷっくりとしたキスをしたくなるような口唇が……。 知らずゴクリと喉が鳴った。オレの中で獰猛な欲望が起き上がってくる。 こいつを手に入れたい――――! これでは、どっちが魔物かわからないじゃないかと苦笑しつつ、オレを襲いに来たらしい託生を返り討ち……ではなく、口八丁手八丁でオレのペースに巻き込んだ。 託生が混乱しているのをいいことに、口づけて口内をくすぐると、徐々に体から力が抜け素直にオレの愛撫を受け入れる。そして慣れていないだろう快感に振り回される様は、オレの男の本能を充分に刺激し、カーテンの向こうが白み始めたのに気付いていたが離すことができなかった。 吸血鬼なんてことは関係ない。オレは、この未知の生き物に魅せられてしまった。 ………と昨晩のことを思い出しながらベッドに腰掛け、黒い瞳がオレを映しだしてくれるのを待っていると、程なくして大きな欠伸と共に託生が伸びをした。 「託生、起きたか?」 「うん………………」 寝ぼけ眼で起き上がろうとした託生を助けるように肩に腕を回した途端、託生がピシリと固まった。そしてギギギとオレに視線を向け、大きな目を更に見開き声にならない驚愕の声をあげる。二つの尖った牙がチラリと見えた。 その慌てふためいた姿が余りにも可愛らしく、思わず目尻が下がる。 「おはよう、託生」 「お……おは……よ………」 「バスタブに湯を溜めてるから、ゆっくり浸かってこいよ」 「お……風呂………?」 「そ。着替えも洗面台に置いてあるから」 ベッドの足元に置いていたガウンを肩に着せ掛けながら軽くキスをして、バスルームに送り出す。 普通に考えれば身分証もないだろう託生が、まともな所にいるとは思えない。もちろん昨晩のように目を赤く光らせて、どうにかできるかもしれないが、見たところあまり人間と接触をしたくなさそうだから、どこかに隠れ住んでいるのだと推測した。そうであれば、ゆったりとした風呂に浸れば喜ぶんじゃないかと思ったのだ。 案の定、存分に風呂を楽しんだらしく、ほくほくとした湯気を立てながら、託生が気分良さそうにバスルームから出てきた。 「ぴったりだったな」 「あの、この服………」 「託生が着ていたの洗濯しちまったからさ。サイズが合ってよかった」 食料品の買い物ついでに託生の服を買い込み、クローゼットにはここで暮らせるだけの枚数を揃えている。 もう手放すつもりはない。 狩りにきたつもりだったんだろうが、狩られたのは自分だと託生はいつ気付くだろうか。 人間の汚い感情なんて全く知らない素直な瞳。そしてその瞳の中に見え隠れする孤独。それを埋められるのはオレであってほしいと無意識に感じた。 これを恋だというのならば、オレは潔く恋に落ちよう。 こんな自分勝手なオレのところに来たのが運の尽き。託生、諦めてくれ。 「腹、減ってないか?」 「あんまり………」 キョトンとして腹に手を当て「おかしいな」と言いながら首を傾げている託生に、 「ピザ焼いているから、一緒に食べないか?」 と提案する。 「ピザ?」 「冷凍だけど。食べたことあるか?」 「ううん、ない」 確かに吸血鬼が人間の食べ物を食するなんて聞いたことはないが、もしかしたら食べられるかもしれない。 廊下に出ると、あらかじめタイマーをセットしていたオーブンから流れる香ばしい匂いが漂っていた。 昨晩は直接寝室のベランダから屋敷に入ってきた託生は、興味深そうにキョロキョロと屋敷内を見回し、なにもないところでつまづいたりして、可愛らしさに拍車をかける。 飲み物を準備し、オーブンから取り出したピザをピザカッターで切り分けて勧めると、恐る恐るといった風情で手に取りパクリと口に入れた。そして、もぞもぞと口を動かしていると思ったら、急にピタリと動きを止め眉が八の字になる。 「どうした?」 口の中の物をゴクリと飲み込み、 「………にがい」 と一言。 ピザをまじまじと眺め、あー、これか。 「もしかしてピーマン?」 細く輪切りになっているピーマンをつまみ上げると、こっくりと頷く。 「緑黄色野菜は栄養たっぷりなんだぞ」 「ぼくに野菜の栄養なんて必要ないもん。もう、いい。ごちそうさま」 口を尖らせつつ、しかしピーマン以外は美味かったのだろう。未練たっぷりにピザを見詰める託生に吹き出した。 ピザの上に乗っているピーマンを全てかき集め、自分の口の中に放り込み、 「ほら、これで食べれるだろ?」 託生の前に押しやる。 「にがくない?」 「全然。それより冷えるから食えよ」 「………ギイ、ありがとう」 ぼそりと恥ずかしそうに呟いて、ピザに手を伸ばす託生に目尻が下がる。 こんな可愛い託生が普通の人間であったならば………考えたくもない! 真夜中のくだらない番組に眉を寄せ、リモコンをポチポチといじりながら、あっちこっちとチャンネルを飛ばしているなと思ったらクラシック音楽が耳に届き、そのままチャンネルが固定された。振り向くと、託生がじっとテレビ画面を見つめている。 世界中の街並みや風景を紹介している番組らしい。 「綺麗だな」 「うん、綺麗だね」 「今度、連れてってやろうか?」 「どうやって音の中に連れていくの?」 うん? 「もしかして、BGMが気に入ったのか?」 「綺麗な音だよね」 テレビから聞こえるバイオリンの調べに、うっとりと目を閉じクッションを抱えてソファで丸くなる。 ……確か、東京の家にメンテナンス済みのストラディバリが届いてたな。明日にでも、ドライブがてら取りにいこうか。 |