Reset -10-
部屋の窓から見えていた森の小道を逸れると、奥に小さな湖があった。その脇に佇む今にも崩れ落ちそうな古い小屋。
これが、ミシェルと交わした交換条件。 軽くノックしてノブを回すと、きしんだ耳障りな音が響いてドアが開き、奥からギイの声が聞こえた。 「託生?」 「あの、ミシェルに教えてもらって」 なぜここにいるのかというような訝しげな表情に決まり悪く答えると、 「あぁ」 合点がいったのか軽く頷き、窓の外に顔を向ける。 ギイは湖面が見える窓の前で頬杖をつき、白く汚れた床に無造作に座っていた。 『洗えば落ちる』 昔 見慣れた姿にほんの少し笑い、同じように床に座ると、 「体は大丈夫か?」 「うん」 一人の時間を邪魔したはずなのに、それでも気にかけてくれる。 かすかな水音だけが聞こえる、小さな空間。ここで、ギイは何を考えていたのだろう。ぼくと目を合わす事もなく湖面を眺めるギイの横顔が、記憶の海を波立たせた。 この瞳をぼくは知っている。 「ねぇ、ギイ」 「なんだ?」 「昨日のキスは………」 「あたっただけだよ……すまなかったな」 ぼくの台詞をさらって、ギイが間髪入れずに答えた。まるで初めから答えを用意していたかのように。 「じゃあ、ここを残しておく意味は?」 「ミシェルに聞いたのか……。なにも考えずにいられるからな。ぼんやりするにはちょうどいいスペースだ」 抑揚もなく淡々と答えるギイ。 触れられたくない領域に入ったぼくを排除しようと、神経がピリピリしている。こんなギイ、再会してから初めてだ。 でも、ぼくは知っている。これは、この瞳は………。 その時、記憶の中にあるワンシーンが、ジグソーパズルのピースのようにぴったりと重なった。 「卒業間際に、なにがあったの?」 「っ!」 ピクリと肩が揺れ、わずかにギイのポーカーフェイスが崩れる。 卒業式の夜。あの時、ぼくは自分の気持ちを伝えるのが精一杯で、ギイの気持ちまで考える余裕がなかった。あっさりと了承された事にショックを受け、その後ストラディバリを壊されそうになって深く考えられなかったけれど、今思えば何かがおかしかった。 『わかった』と答えたギイの瞳は、今と同じではなかったか? 「なにもなかった」 「嘘だ」 「10年前の事なんて、とうに忘れたよ」 「ギイ!」 「もうオレ達には関係ない事だろ?!確かに10年前、託生とオレは恋人だった。でも今はもう無関係だ」 振り返って一気に言い切り、ぼくから顔を隠すように窓の外に視線を向ける。 一瞬の出来事なのに、見えてしまった。『無関係』だと口にした時、自分の言葉に傷ついたギイが。 ギイは目元を手でかざして軽く頭を振り、放り投げていた上着を手に取った。 「すまない。少し気が立ってたんだ。メシは食ったのか?ここは冷えるから、そろそろ戻ろう」 話を打ち切り逃げようとするギイに、とてつもなく怒りがこみ上げる。いや、ギイにじゃない。なにも知らなかった自分自身にだ……! 立ち上がろうとするギイの首に飛びつき、驚きに目を見開いたギイにキスをした。口唇を合わせるだけのキス。拒否しようとすれば一瞬で離せる軽い軽いキス。 関係ないと言うのなら、ぼくを引き離してみろよ! 「どうして、押しのけないの?イヤならぼくを突き放せばいいじゃないか!」 体を固めたまま動かないギイを睨みつける。 「………」 「ぼくはずっとギイを思ってた。あの時は、現実の重さに逃げ出してしまったけど、でも、ずっとギイだけを愛してた」 畳み掛けるように自分の思いを訴え、目を逸らせて何も言わないギイに、もう一度キスをする。啄ばむような触れるだけのキスじゃ足りなくて、深く侵入し舌を絡ませた。昔のぼくからは到底考えられないような、ドロドロとした欲望むき出しのキス。突き放すでもなく抱きしめるでもなく。ぼくのされるがまま人形のように動かないギイの膝に乗り上げて、夢中で舌を絡ませる。ギイの精巧な頬に手を寄せ手触りのいい髪をかきあげ、君が欲しいのだと全身で伝えた。 まるで一人芝居のような悲しいキス。 息苦しくなって流れ込んだ蜜をコクリと飲み込んだ時、風が流れかき抱かれるように力強い腕に抱きしめられた。同時にギイの舌がぼくの口唇をこじあける。 「んんっ……!」 一気に嵐のような激情が流れこんできた。頭と背中を押さえつけられ、指先さえ動かす事が不可能なほど堅く抱きしめられ。 愛撫する熱い塊に必死に応え、眩暈がするくらいの幸せ噛み締める。 気がつけばぼく達は床に転がり手も足も絡めあい、お互いの思いをぶつけあっていた。 キスだけで恥ずかしいくらい息を乱し、布越しに重なる熱い高ぶりに喜びを感じ。 「どうして」 口唇を触れ合わせたまま、ギイが苦しげに口走る。 「な…に……っ!」 質問の言葉は、耳元に移った熱い息が鋭い痛みに変わった刺激で裏返った。 彷徨わせた口唇を顎の先まで戻し、 「オレは!もう二度とお前を巻き込みたくないと!」 ギイがまくしたてる。 言っている意味を考えようとも、もうぼくの頭は拒否していて。 服の上で彷徨うギイの手にもどかしさを感じ、ぼくは自分でシャツのボタンを外して、ギイの手を導いた。 求めて求められて。与えて与えられて。 体も心も溶け合って、ただ本能の赴くまま全身でギイを感じ。 愛してるとささやけばそれ以上の愛を返されて、胸の内を巣食っていた虚無感や寂しさが全て『幸せ』という名の色に塗り替えられていく。 研ぎ済まされていく感覚とは反対に霞がかってくる意識。 何度も何度も登りつめ、最後に残ったのは、ギイ、君だけだ………。 ギイの腕の中で乱れた息を整え周りを見てみれば、汗に埃がまとわりつき髪は白く汚れ、見るも無残な有様にお互い見詰め合って「ぷっ」と吹き出した。 10年ぶりの行為がこんなおんぼろの小屋の中だなんて、獣じみてる。 頬に手を当てられ、近づくギイの口唇を受けた。 「大丈夫か?」 「うん」 心配げに顔を曇らせたギイに、大丈夫だよと微笑みかける。 さっきまでは聞こえなかった水音と小鳥の鳴き声が、心地よい音色を持って耳に届いた。 「ここ、石渡老人のボート小屋に似てるね」 「………そうだな」 さっきは答えてくれなかったけど、今なら答えてくれるだろうか。本当の理由を。 「どうして、ここを残したかったの?」 「……託生」 「教えてくれるよね、ギイ?」 ぼくが知らなかった事、全て。 「長くなるから、ホテルに戻ろう」 諦めたように溜息を吐き、ギイはぼくの手を取った。 |