月夜に揺れる白い花-2-

「片倉に直接聞いたわけじゃないんだが………」
 ソファに座りなおして、慎重に章三が話を切り出した。
「仕切り手形を掴まされたらしい。不渡りになって、気付いたときには取引先は逃げていたと」
 章三の言葉に、ギイは眉間に皺を寄せた。
「片倉って、親父さんの鉄工所を継いだんだよな?」
「あぁ、体を壊した親父さんが引退して、去年、後を継いだって聞いたよ」
「被害金額は?」
「いや、これ以上のことは、なにも聞いていない」
 そうかと呟いて、ギイは口元に手をやった。
 二人のただならぬ深刻な様子に、利久がなにかしらの事件に巻き込まれたのだと認識したのだが、どのくらい深刻なことなのかが、ぼくには想像できなかった。
 それに、
「仕切り手形って、なに?」
 元々、そういう分野に馴染みはないけれど、初めて聞く名称だ。
「約束手形は知ってるか?」
「詳しくは知らないけど………お金の代わりに渡されて、書いてある支払い期日に銀行に行って換金するもの?」
「それで正解。簡単に言えば、仕切り手形ってのは、その約束手形を悪用した手形のことだよ」
 じゃ、利久は約束手形を渡されて、銀行に換金しに行ったら不渡りになったってこと?
 でも、それだけなら、普通に『約束手形』というはずだ。わざわざ『仕切り手形』とは言わない。
「約束手形を悪用したら仕切り手形になるの?どうやって、悪用するの?利久は、それを渡されて、今いったいどうなってるの?」
 続けざまの質問に、ギイは硬い表情をしたまま、ぼくを見詰め返した。
「………詳しく聞きたい?」
「うん」
 ギイが、そう前置きするってことは、難しい話なのだろうけど、今の利久の様子がわかるのならば聞きたい。
「そうだなぁ。………仮に、オレが章三に百万円で物を売るとする」
 と言って、ギイは章三の前に自分のライターを置いた。とたん、
「僕が悪役かよ?」
 ぼくにはわからないけれど、ギイのやろうとしていることを瞬時に理解したのか、間髪いれずに章三がクレームを入れた。
「託生に説明しやすいんだよ。潔くビンボーな悪役になってくれ」
 ビンボーな悪役?
「………相手は葉山だ。仕方ない」
 片眉を上げ、あっさりと納得した章三にムッとするが、少しでもわかりやすく説明してくれるのなら、章三の失礼な態度もスルーしよう。今は、それどころじゃないのだから。
「話を戻すぞ。章三は、これの代金百万円をオレに払わないといけないよな」
「そうだね」
「けれども、章三には金がなかった。それどころか、もう夜逃げしないといけないような経済状態だ」
「うん」
「現金もなく、自分名義の約束手形も過去に不渡りを出して使えない」
 ようするに、全然お金がなくて首が回らない状態で、百万円の物を買ったというシチュなんだね。うん、ここまでは理解できた。
「そこでだ。他人名義の約束手形を一枚幾らか……今は五万から八万円くらいかな。バブル崩壊時代は、数が出回っていたからもう少し安かったらしいけど。それを買って金額欄に百万円とチェックライターで打ち、『別の取引で渡された手形だけど、これをそのまま受け取ってくれ』とかなんとか言って、オレへの支払いに当てる。もちろん、もう一人別の人間の裏書付きで」
「裏書って?」
「保証人みたいなもんだな。『もしも不渡りになった場合は自分が払います』というサインを、約束手形の裏に書くんだ」
 章三が、テーブルの上に置いてあるメモを一枚ちぎって「A株式会社 百万円」と書き込み、支払期日に三ヶ月先の日にちを指定し、裏には「Z株式会社」とサインしてギイの前に置いた。
 えーっと、A株式会社が名義人の約束手形を章三が買って、代金の代わりにギイに渡した……でいいのかな?でも、あれ?
「根本的に約束手形って売ってるの?」
 素朴な疑問。あれって、銀行が発行するんじゃなかったっけ。
「裏ルートでな。こういう人間が関わってるから、一般の人間にはお目にかかれない種類の手形だ」
 そう言って、自分の頬を切るように、斜めに指を滑らせた。
 あぁ、裏ルートっていうのは、ヤのつく職業の人が作っているルートのことか。
「章三と同じように金がなくて、夜逃げをしないといけないようなヤツが、手形帳五十枚つづり数冊まとめて二、三百万、一枚あたりの単価二万円弱で買取りってとこだな。裏の業者に手形帳を持ち込んで買ってもらい、裏業者が自分の取り分を上乗せしてバラ売りする」
「そのバラ売りの一枚を赤池君が買った?」
「そういうこと。ここまではOK?」
 ぼくが頷くのを確認して、ギイは話を続けた。
「その約束手形は金額が書いてあっても、ただの紙切れだ。全ての約束手形には同じ支払期日が書いてあって、ぎりぎりまで会社は存在しているけれど、支払期日の五日から一週間前には、手形の名義人……この場合A株式会社は会社を畳んで逃げるのが相場だ。手形帳を売ったときの金は、言うなれば逃亡資金だな」
「じゃ……じゃあ、このA株式会社名義の約束手形を、支払期日に銀行に持っていっても………」
「相手がいないのだから、もちろん不渡りになる」
 最初から逃げるつもりで、A株式会社は約束手形を売ったのか。
「章三も支払期日までに行方不明な。約束手形を買った金額だけで手に入れた物は、転売して金にすればいいし」
 章三が目の前にあるライターを、テーブルの隅に移動させる。そして、メモ用紙に「現金」と書いて自分の前に置いた。
 物はなくなり、ギイに残っているのは、不渡りになった約束手形だけ。
 あれ、でも………。
「裏書は?Z株式会社の人が保証人だろ?」
 不渡りになったとき代わりに払う人だって、さっきギイが説明した。
 紙をひっくり返し表れた「Z株式会社」の文字を指で叩きながら、ぼくに視線を移し、
「この人間もグルだったら?」
「あ………」
 質問を投げかけられて、すんなり理解した。これは、もう、最初から流れが決められていたのだと。
「わからないものなの?」
 仕切り手形だってこと。
「受け取った時点で、その会社は実在するからな。ただ、同じ名義人の手形が大量に出回るんだから、信用調査をすれば危ないという結果が出て、なにかしらの手が打てるかもしれないが、手形の譲渡ってのは普通に行われているし違法じゃない。期日前に額面の何パーセントかを手数料として引かれて、銀行などで換金するシステムもある。ちなみに、この行為は『手形を割る』と言って割引手形って名前だ。手渡された約束手形に問題があるかどうかなんて、一般の人間には判断がつかないことが多い」
 昔からある取引方法で、正当な使い方をすれば問題はないけれど、悪い人にかかればこんなことができてしまうんだ。知らなかった。
「もっと悪質なのは、時間をかけ裏の業者と章三が手を組んで仕込むことだな」
「仕込むって?」
「章三が自分名義の約束手形を使って大口の取引を何度も装い実績を作る。裏の業者と架空の取引をしたっていい。これで銀行側の信用が上がるよな。調査したって優良会社としか出ないだろう。そうすると、こちら側は安心するから、百万ぽっちじゃなく数千万の取引に手形を使っても不思議じゃない。なにしろ、相手は今まで大口の取引を成立させている章三なんだから。安心して章三と取引をし、ある時期が来たら章三はドロン。そして渡された約束手形は不渡りだ」
 付け焼刃のように約束手形を一枚買ってきたわけじゃなく、最初から人をはめるために実績を作る。
 その考え方に、ゾッとした。お金は大切なものだけど、人を騙してまで手に入れるものじゃない。
「そのような経緯を辿って悪用された約束手形のことを、仕切り手形、もしくはポン手と言うんだ。嫌な言葉だが、支払期日のことを命日と言うらしい」
 ギイは目の前の紙切れを指先で摘んでライターで火をつけ、灰皿の上に置いた。一瞬で焼け落ち灰になる。
 それが、利久の今の状況を反映しているように見えて、口唇を咬んだ。
「どうにもならないの?」
「前者なら逃げた人間を見つけても、ない袖は振れないだろうから回収は難しい。後者であれば………裏の業者よりも立場が上の人間と話をして、それ相応の礼もして、業者に話をつけてもらうしかないだろうけど、たぶん無理だ。一般の人間がそのような人間と知り合いになれるなんて、ほぼ不可能だから」
 ギイの言うとおり、たしかに現実的じゃない。それなら、
「警察は?一種の詐欺だよね?」
 正攻法で訴えることができるのでは?
「いや、立件ができないんだ。最初から企てていたという証拠がない。『知りませんでした』で逃げ切れる」
「それじゃ、泣き寝入りしかないってこと?」
「残念だけど、そうなるな」
「そんな………」
 利久………。
 去年、まだぼくがギイと再会していなかった頃、利久からお父さんが倒れ、自分が社長になることを聞いた。
『頼りないだろうけど、皆に安心して働いてもらえるような自分に一日でも早くなるよ』
 と、少し緊張したような、でも決意に満ちた声で電話をかけてきた。
 そのときのことを思い出し、膝の上に置いた拳を握り締める。
 もしも鉄工所が倒産でもしたら………。
「ただ、片倉の場合、前者だろうから、それほど大きな金額じゃないと思うけど」
 ギイの言葉に慌てて顔を上げた。
 テーブルからライターを摘んで、ぼくの顔の前にかざし、
「片倉んとこは鉄工所なんだから、取り扱っているのは鉄製品だ。こんなに小さな物じゃない。取引先だって大きな倉庫が必要になってくる。倉庫を用意してまで仕込むなんて危ない橋を渡ることは、リスク負担を考えるとありえない」
 そう言って、安心させるようにギイがぼくに微笑みかけた。
 それだけで、鼓動が早くなって感じていた胸の痛みが和らいでくる。
「じゃあ、鉄工所の存続に関わるくらいの被害は………」
「大丈夫だろ。どの会社でも色々なリスクを考えて、貸倒引当金(かしだおれひきあてきん)という金を、あらかじめ用意してるんだ。それで充分補える」
「よかった………」
「片倉も、まだ後始末に追われているだけだろう。もう少し待って連絡を取ってみたらどうだ?」
「うん………」
 安堵に涙ぐんだぼくの頭を引き寄せ、ギイが髪にキスを落としながら、落ち着くようにゆっくり背中を撫でてくれた。
 こんな状況じゃメールどころじゃないよね。ギイの言うとおり、時間を置いて改めて利久に連絡してみよう。
 おとなしくギイの胸に頭を預けていたぼくの耳に、どこからかカサカサという音が聞こえ、
「章三、空気読めよ」
 ギイの台詞と共に丸めた紙が目の前に落ちてきて、一気に現実を思い出しギイから慌てて離れた。
「ああああ赤池君!」
「………僕の前でいい根性だな、二人とも」
「妬くな、章三」
「誰が、妬くか!」
 利久は大丈夫だ。ギイが言うなら、利久はきっと大丈夫。
 でも、ショックを受けていないわけはないだろう。信用していた人に騙されたのだから。
 今度、日本に行ったときには、一番に利久に会いにいこう。
 気の利いた慰めの言葉なんてぼくには言えそうにないけれど、側にいることはできるから。
 
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