月夜に揺れる白い花-7-完(2013.8)

 託生のコンサートを抜けて先にNYに帰ってきたが、今日は一日遅れで託生がアジアツアーから帰国する予定だ。
 オレ自身、元から海外出張が多い仕事をしているし、託生もひとたびツアーに出れば数週間戻ることはない。
 すれ違いが多いからこそ託生と会える日というのは特別で、出張の疲れがないわけではないが、こんな日は休みにしたって時間の流れを遅く感じるだけだ。
 それを知っている島岡が、いつも通りのスケジュールを用意していた。ほとんどが本社内、もしくは外出しても近場だけだが。
 副社長室で報告書を書き上げ、松本にコーヒーでも頼もうと内線に手を伸ばしたとき、胸元の携帯が震えた。
『もしもし、片倉だけど、ギイ、今いいかな?』
「あぁ、大丈夫だ。どうした?」
 おずおずと切り出した片倉に軽い調子で返事をすると、
『あのさ、今日、鉄工所の方に匿名で郵便が届いてさ、三千万円入ってたんだ』
 興奮を押し殺して、慎重に震える声で片倉が言った。
 チャンが早速見舞金を送ってくれたのだと瞬時理解したのだが、普通香港から五日はかかるところを、どんな方法を取ったのかは知らないが、これほど早く届けてくれるとは、かなり気を使ってくれたんだなと苦笑する。しかも、せいぜい数百万程度だと思っていたのに三千万とは、あいつ、取り分がかなり減っただろうに。
「逃げたヤツが罪悪感で半分だけでも送ってきたんじゃないか?」
『やっぱり、そうなのかな………。ギイ、これ、どうしたらいいんだろう?』
「そのまま貰っておけよ。元々は片倉が受け取るはずの報酬だったんだから」
『あ、うん、わかった』
 本当のことは言えないから適当にそれらしいことを言うと、あっさりと素直に片倉は納得した。その反応に、託生を思い浮かべたことは、ここだけの秘密だ。
『それから、銀行から無事に借りれることになったよ。色々とありがとう。それで、ギイから預かった書類、結局使わなかったんだ。用意してくれたのに、ごめんな。コンサルタントの人に渡してあるから』
「片倉の力を信じてくれたんだろ?使わないに越したことはないんだ」
 ほんとに真面目で真正直な片倉に、笑っちまった。託生の親友なだけある。
 あのとき、経営コンサルタントに預けることも考えた。なぜなら、最初からオレが保証人になる意思を示せば、銀行がいくらでも金を貸すだろうことがわかっていたから。
 でも、たぶんこいつはそういう卑怯な真似はしないだろうと思ったから、片倉に直接渡した。
「片倉の人望だな」
『いや、長年、この鉄工所を経営していた親父への信用と信頼だよ。それを俺が潰すわけにはいかないから、俺なりに勉強しながら、もう一度一からがんばってみる』
「そっか」
『ありがとう、ギイ』
「いや、結局オレはなんにもしてないぜ?」
 それどころか、オレの方が礼を言いたいくらいだ。やっと前向きな覚悟が決まったのだから。
『そんなことないよ。色んなことを教えてもらった。仕入先からも、支払いは待ちますからって言ってもらえたんだ。でも、このお金で返せるだろうから、これ以上の迷惑はかけなくて済みそうだ。あ、銀行で借りたお金、半分返した方がいいかな?』
「いや、今はそのままにしておけよ。二ヶ月間、正常運転できなかった分、様子を見たほうがいい。それから繰上げ返済を考えろ」
 それなりの利息はかかるが、前後を考えれば無理をして返す必要はない範囲だ。
 同じことを繰り返すような片倉じゃない。
 一つの山を越え、己の力だけで銀行を動かしたことは、これから経営者としての自信になるだろう。
 その後、二言三言言葉を交わして片倉とのラインを切り、オレはそのままチャンに連絡を取った。
「片倉から連絡があったよ。見舞金の」
『あぁ、日本にいた部下に届けさせたんだが、無事、着いたようだな』
「でも、よかったのか?取り分が少なくなったんじゃないか?」
 チャンにとってはした金だろうが、一応、報酬の一部だろうに。
『いや、それがな。片倉鉄工所が作った鉄製品の出来が良くて、思っていた以上の値段で取引が成立したんだ。その分とコンサートの礼だよ。まぁ、男を日本側に引き渡すときに、男が持っていた金を多少取り上げた分も入ってるかな』
 可笑しそうに笑うチャンの顔が目に浮かぶ。
「サンキュ、チャン」
『いや、またな、ギイ』
 どうせ金を持ってたって、それこそ激怒している組が全部取り上げるのだろうから、誰の手に金が渡っても問題ないし、そもそも片倉の金だ。
 あのあと、松本が「追加報告です」と持ってきた報告書によると、会社を継ぐまで碌に仕事もせず遊び回り、継いだ後は好き放題に会社を引っ掻き回していたらしい。
 そのうち、やっかいな人間ばかりが出入りするようになって従業員が次々と辞め、営業もままならない状態に会社は傾き、そこに目を付けられた男は、片倉をはめる話を持ちかけられ裏の業者と手を組んだ。
 数ヶ月かけて実績を作り、しかし、金を手に入れ欲にまみれた男は逃げた。自分が手を組んだ組織が、どれだけ大きいかを知らずに。
 力が同等なら狐と狸の化かしあいで済んだものを、相手はチャンでさえ厄介だと思っている組事務所だ。素人が勝てるわけがない。
 因果応報。片倉をはめた報いは、自らがはめられるという結末で幕を閉じた。


 それほど遅くない時間に帰りついたオレは、足早に廊下を抜け居間のドアを開けた。
 託生から昼過ぎに帰国し、事務所に寄って用事を片付けたあと、ペントハウスに帰るとメールを貰っていたのだ。
 居間に入ったとたん、甘いバニラに似たパウダリーな香りが鼻につき、その香りの元を辿って視線を巡らすと、居間の一角に白い可憐な花を咲かせた鉢植えが置かれているのが目に入ったのだが、そんなものより、まずは託生をこの腕に抱き締めたい。
「お帰り、ギイ」
「ただいま。託生も、ツアーお疲れさん」
 ソファから立ち上がった託生を攫うように抱き締め、少し長めのキスをしながら託生の感触を確かめる。
 触れる口唇から、さらりと落ちた前髪から、てのひらに移る低めの体温から、託生が帰ってきた実感を噛み締めた。
 ゆっくりと口唇を離し、甘い溜息を吐きながらオレの肩口に頭を持たせかけた託生の髪を梳き、柔らかな頬に口付ける。
 託生不足に、このまま限度なく触れてしまいそうな自分を苦笑し、そっと託生を放して目を合わせた。
「ギイこそ、忙しいのに来てくれてありがとう」
「え?」
「香港のコンサート、来てくれてただろ?」
「あぁ、誰かに聞いたのか」
「うん?違うよ。バルコニー席にいただろ、右端の?」
「………気付いてたのか?」
 あんなに離れていたのに?
「そりゃ、ギイだし………」
 頬を赤らめボソボソと言い訳する仕草が可愛くて強く抱き締めると、「痛い痛い」と笑いながら背中を叩かれた。
「休憩後いなくなったから、仕事が入ったのかなって思ってたら、チャンさんが『仕事で抜けた』って教えてくれて、あぁ、やっぱりって」
「少しだけ時間ができたから。最後まで聴きたかったんだけどな」
「来てくれただけで嬉しいよ」
 はにかむ託生の可愛らしさに口唇を寄せたものの、託生の台詞になにかが引っかかる。誰が、教えてくれたって?
「ちょっと待て、託生」
「なに?」
「チャンって………」
「ギイの友達だろ?楽屋までわざわざ挨拶に来てくださったんだけど」
「あいつ、楽屋まで来て名乗ったのか?!」
「うん」
 なんの疑いもなく、こっくり頷いた託生に眩暈を感じた。
 そりゃ、あいつの顔が利かないところなんて香港にはないから、楽屋に入り込むなんて簡単なことだけど、黒社会の人間が表に顔を出すことはおろか、名乗るなんてご法度なのに。
「あ、もしかして、あの花?」
「うん、チャンさんに貰ったんだ」
 この花の匂いを嗅いでいるうちに、オレはひとつの記憶にたどり着いていた。
 ………詳しい品種まではわからないが、これは風蘭(ふうらん)を観賞用に園芸した富貴蘭(ふうきらん)じゃないか?
 蘭の一種ではあるけれど、胡蝶蘭のように華やかな存在感を持つ洋蘭に比べ、儚げで慎ましく控えめだ。しかし発せられる香りは、誰もが振り向くくらい己の存在を主張する東洋蘭の一種。
 小さなものなら専門店でも手に入れることができるが、マニアの間ではオークションで高値がつく貴重な花であり、この鉢植えの大きさならば蘭の展示会で警備員がつくほどのレベルだ。プレゼントにしては高価すぎる。だが、チャンなら関係ない。
 チャンのヤローッ。さっき、一言もそんなこと言わなかったぞ。てか、オレが帰ったあと、すぐに手配して届けさせたのか?展示会級の富貴蘭を?
「空港の検疫で止められるかなと思ってたら、翌日アメリカに帰るときに、チャンさんの部下だと名乗る人がわざわざホテルまで来てくださって、検疫もすんなり通過できたんだ。貿易のお仕事をしている人って手続きに慣れてるんだね」
 感心しているみたいだけど、託生。チャンになんて言われたか知らないが、あいつは貿易に携わってるんじゃなくて、本業は密輸その他諸々の裏稼業。でもって手続きなんて必要なくて、顔パス状態。あいつの部下は、どの組織にでもいるのだから。
 託生はなにも知らずに受け取ったのだろうが、想像するに、この鉢植え一千万は下らない代物。頭が痛い………。
 富貴蘭の花言葉は『真の魅力』。
 託生に惚れたなんてことはないだろうが、個人的に託生が気に入ったらしいことは、この富貴蘭を見れば明らかだ。チャンが託生を気に入ったのなら、それこそ中国での託生の身の安全は保証されたようなものだけど。
 そう考えているうちに、昔、何度も繰り返していたのにも関わらず、また同じことをしてしまったのだと気がついた。託生を紹介したオレの知り合いが、託生を気に入らなかったことは一度もなかったことを………。
 自己嫌悪に、こっそり落ち込んでいると、
「この花、ギイに似てるよね」
 突拍子もない託生の言葉に、ポカンと口を開ける。
「はい?」
 富貴蘭がオレに?どっちかと言うと、託生だろ?この小さくて可憐な白い花。希少価値云々も、託生に当てはまる。
 もちろん、葉山託生という人間はこの世に一人だけだから、花になんて例えようもないくらい特別なものだけど。
「だってさ、この花、これだけ香りがいいから、離れていても存在感があるじゃないか。ギイも存在感半端ないし」
「は?」
 独自の解釈を披露してみせた託生に唖然とし、そしてガックリ力が抜けた。
 存在感?似ているのは、そこ?ってか、別にオレは存在感なんていらないし、半端ないって、それ使い方間違ってないか?
 姿形を対象にしていないところが、託生らしいと言えば託生らしいけど。
 花に顔を近づけ香りを吸い込んだ託生は、
「あ、そうだ」
 と、なにかを思い出したのか、満面の笑顔で振り向いた。
「チャンさんが教えてくれたんだけど、この花って夜に香りが強くなるんだって。だから、月夜によく映えるんですよって」
「月夜に………」
 言葉を口の中で繰り返し、その意味の察するところにたどり着き笑いが込み上げてきた。
 チャンのヤツ………。
 月の下でこの花が映えると言うのなら、託生がいるからこそ本当のオレが出せるのだと言いたいのか?
 いや、それとも、単純に託生が気に入ったから希少価値のある花を贈り、エピソードを披露しただけなのかもしれないけれど。
 花を贈った意味を思い巡らせながら、チャンって結構おせっかいだったんだなと、旧友の隠れた一面に笑った。
 肩に重みがかかり視線を移してみると、託生が欠伸を噛み殺しているのが見える。
「託生、もう限界だろ?」
「うん、充電一パーセント」
「ははっ」
 時差ぼけで眠いのに、オレが帰ってくるまで我慢して起きて待っていてくれたのだろう。
 目を擦り欠伸をしている託生を抱き上げ、寝室のドアを開ける。
 シーツをはぎ、ベッドに下ろしたときには、半分夢の世界に入ってしまっていて、託生はくたりとベッドに沈んだ。
「お休み、託生。愛してるよ」
「う………おや……み、……ギィ………」
 前髪をかきあげ額にキスをしたオレに一瞬ふわりと微笑を浮かべ、託生はストンと眠りの淵の向こうに行ってしまった。


 明日、お前が起きたら、聞いてくれるか?
 なにがあっても、お前を放さないと。二度と放すことはないと。
 もう逃げないと、覚悟を決めた。
 危険な目に会わせてしまうかもしれない。
 それでも、お前の幸せがオレの側にあると言ってくれるのなら、オレは一生お前を放さない。
 スーツを脱ぎ捨て、託生の隣に滑り込む。
 無意識に擦り寄ってきた体を抱き寄せたとき、ふと目に入ったベッド上の影を辿ると、カーテンを引き忘れた窓に月が浮かんでいた。
 太陽のように全てを照らす自己主張の激しい光ではなく、見上げればホッと息をつける漆黒の闇に浮かぶ柔らかな月。
 託生の髪にキスを埋め、目を閉じる。
 月の光差す寝室に、富貴蘭の甘い香りが漂っていた。




お読みくださり、ありがとうございました。
時期的には「背中で感じる恋」の一ヵ月後くらいなのですが、そういうことを考えると、ギイタクがどんどん歳を取ってしまうので、Resetに関しては出来る限り同時期をループしたいと思ってます。
離れていた十年の託生くんサイドを書く予定はないので、少し設定を書き加えたつもりです。

途中、約束手形講座のようになってしまいましたが、ギイから一言。
「約束手形の裏書は連帯保証人と同じだから、安易に書くなよ」
だそうです。
商売をされている方以外にはあまり馴染みのない手形の話でしたが、ちらりと覚えてもらえたら役に立つときが来る………かなぁ(笑)
そろそろネタがつきてきた感があるResetでした。
(2013.8.29)
 
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