あい
オレとしては不本意なことながら、結局、託生は絵利子とすごすことが多くなった。名目上は今後の心得やらなんやらを伝授するため。それも間違いではないのだが、オレにしてみればどうも二人で遊んでいるだけのように見えてしかたがない。
そういえば、日常の会話も絵利子は自分が教えると張り切っていたっけ。 「専門の教師をつけるから」 この妹に、これ以上託生との時間をとられてなるものかと、オレは辞退したのだが、ことのほか真剣な顔でいわれてしまった。 「ギイ」 「なんだよ」 「とっくりセーターに長靴の悲劇を繰り返したいの?」 「う……」 今ならオレも絵利子も、フルタートルにブーツというだろう。 正しい日本語が、どの時代にもあうものだとは限らない。なんだかんだいってもアメリカ人のオレたちは、日本語の間違いについてずいぶん寛大な反応をもらっている。オレの場合も、昨今の若人、いや、今時の若者は使わない言葉にむしろ感心されたりもしてきた。 「学問としてならともかく、会話は、同じような環境の、同じような年齢の、同性から吸収したほうがいいと思うのよ、わたし」 実感がこもっているな、その溜息。 過去の屈辱に苦い顔をしている絵利子の気持ちは痛いほどわかるぞ。きっと、女友達のほうがそういうところには敏感で残酷だろうし。 まあ、アレだ、極端な話、スラングや時代劇のような話し方を覚えるような回り道を、託生にはさせたくないという点ではオレも絵利子に賛成だった。 「そうだな。母さんより絵利子のほうが年も近いし」 「……それ、おかあさまの前でいわないでよ、朴念仁」 はいはい。心得ています。これ以上自分の首を絞めるような真似はいたしません。 そんな絵利子の影響か、近頃の託生は驚くほど意欲的だった。オレとふたりだけのときにも、積極的に異国の言葉を口にする。祠堂にいたころからは考えられない。 「そんなに変?」 「そうじゃなくて、惜しむらくは、祠堂在学中にその熱心さがあればよかったのになあ、と」 からかうオレを、託生も笑った目で睨んでみせた。 「そりゃ、いわれても仕方ないけどね」 「あの成績じゃあなー」 「もー。忘れて!」 「無理」 言下に却下。 託生のどんな小さなことだって、忘れたりするものか。 一度、絵利子にも似たようなことをいった。今の飛躍的な進歩が不思議だと首をひねるオレに、あの生意気はひとこと、 「よほどギイの教え方が悪かったのよ」 ときたもんだ。 それを教えると、託生は困ったように笑った。 「べつにギイのせいじゃなくてさ、あのころは真剣さが足りなかったんじゃないかな。今は背水の陣っていうか、ガケっぷちというか」 とにかく、必死なわけか。 前向きとはいえ、その痛ましいような決意に、オレは気がつかないふりをした。あっさり言ってのける託生を見習って、できるだけ明るい話題にしよう。 「それにしても、発音がよくなった」 「絵利子ちゃんの真似をしているだけだよ。絵利子ちゃんの話し方って、流れがキレイだよね、まるで歌っているみたい」 「……それ、絵利子にもいった?」 「うん」 無自覚に口説くな! あいつの託生贔屓に拍車がかかっているように思えたのは、気のせいじゃなかったのか。 「なに?」 「べつに」 いいさ、託生を相手に今さらこの程度のことで怒っていたらキリがない。 「託生は耳がいいからな」 これがおもしろいことに、使用頻度の少ない単語から発音が滑らかになっている。 「知らない言葉だから、変なクセがないのかな?」 「……かもな」 まあ、そういうことにしておこう。祠堂で、あの学び舎で、オレは何度も聞いたことがあるような気もするが。 「なんにしても、英語に拒否反応がないのはいいことだ」 そう締めたオレに、託生は静かな微笑みを浮かべた。 「だってさ、『I』だろう?」 「愛?」 託生を見ているオレが、そう聞き間違えるのは当然だ。決して発音のせいではなく。 からかったわけではないのに、託生はプッとふくれて訂正した。 「I! I'm TAKUMI. のアイ!」 「……ああ」 なるほど。そうか、それでか。 焦るな、無理をするな、心配するな。オレがどう言い聞かせようと、何百回繰り返そうと、内側の変化、これは託生本人が乗り越えるしかない壁だ。苦手な英語が、意外なところで助けになっているというのか。アメリカに連れてきて、言語の苦労まで負わせたことを申し訳なく思っていたが、今の託生にはそれもまた幸いしていたのか。 まるで、最初から準備されていたかのように、すべてが良い方へと向っている。託生の努力はもちろんだが、オレの執念だけでなく、ここまでくるとなにかべつのもっと大きな力を感じずにはいられない。 運命……そう、これが運命なのだろう。 ここに、二人でこうしていることが。 「そうか、『T』か」 「うん。ぼくもわたしも、そんなこと関係なく、みんな『T』だよね」 先入観なく、ほかの誰でもなく、言葉ひとつに縛られることもなく。 「ああ。オレもそうだよ」 「うん」 「オレはオレだし」 祠堂にいたころ、あのころは心が何度もそう叫んでいた。溢れて、託生に聞かせてしまったこともあった。 「ギイがいってたこと、やっとわかったような気がする」 いまさらでゴメンと、苦笑する。託生が謝ることなどなにもないのに。 「ぼくは、ぼくだ」 そう呟いて、オレと歩む道を選んでくれたおまえに。 「そうだよ」 「うん」 「託生は託生だ」 「うん」 「やっぱり愛だな」 「愛?」 抱きしめた腕の中、他愛ない言葉遊びに笑うおまえに。 「愛だよ」 ほかのどんな言葉も似合うはずがない。 「それはそうと」 「うん?」 「絵利子にさ、今日はなにか教わった?」 「うん、まあ、いろいろと……」 視線が泳いだぞ、今。 「なんだよ、気になるじゃないか」 「えーと……」 口ごもられるとおもしろくない。 こと託生に関して、絵利子は知っていて、オレが知らないなんてこと、あっていいはずがないだろう。 「オレには話せない?」 「そうじゃないけど」 「口止めされた?」 「まさか。ギイにもみてもらえって、いわれたけどさ。ちょっと悪いかなあって……」 「ああ、アレね」 さあ、アレとはなんのことでしょうか? そんなこと、もちろんオレが知るわけない。だが、こう相槌を打つだけで、託生は安心して曝け出してくる。 騙してないぞ、オレは。ちょっと勘違いしただけ、だ。 「遠慮するなよ。オレで試せば復習になってちょうどいいだろう?」 「……いいの?」 「もちろん。練習練習」 「そう? じゃあ、えっと、もうちょっとこっちにきて」 そういって、オレを部屋の中央まで誘導する。 あらためて向き合い、 「ギュッてして?」 なんてお願いをオレが断るはずもない。 ぐっと抱きしめた腕の中で、託生が見上げてくる。 「いくよ?」 「はい、どうぞ」 なんだ、ダンスか? 「じゃあ、あのね、こうやって……」 と、次の瞬間、いきなり足の甲に激痛が走る。 「だっ……!」 思わず緩んだ腕の中で託生が動いた、と思う間もなく手首をつかまれ、いや、引かれ? じゃなくて、肩を押され、た? 状況を分析するよりも早く、オレの身体は転がっていた。 「あ、できた」 そんな意外そうに。託生自身も結果にびっくりしているようだが、これは……いったい……。 「ギイ、大丈夫?」 床に伸びたままのオレの傍らで、託生が膝をついて覗き込んでくる。その背景にある天井の明りが眩しい。逆光を遮るように片手で目を覆い、そのまま前髪あたりをかき上げた。 「おまえ……」 「あ、あの、ごめんね? ギイならちゃんと受け身をとれるから心配ないって絵……や、あの、ぼくが、思って」 吹き込んだ絵利子が責められないよう、託生はさも自分の独断だというようなことを強調している。 そんな健気なところを見せられては、 「……大丈夫だよ」 と答えるしかないではないか。 「ほんと?」 「ああ、どうってことない」 よっ、と掛け声と一緒に起き上がった。 受け身も、はいはい、とれましたよ。ギリギリですがね。どの運動部も欲しがったこの反射神経に感謝しよう。 「よくできたな、託生。これじゃあ、これからはオレも気をつけなくちゃなあ」 はははは、と朗らかに、ややわざとらしく笑い飛ばすオレの前で、託生は 「ギイ相手にこんなことしない」(……したじゃん、いま)とか、 「これはあくまで護身術だ」(抱擁前提の技じゃないか、冗談じゃないぞ!)とか、 いろいろと言い訳をしてくださっているが……いいさ、悪いのは、託生、じゃないし、な! 呵呵大笑、寛大に笑うオレに安心したのか、託生はお茶を、まあ、謝罪の気持ちもあるのだろう、お茶を淹れるといって部屋を出ていった。 その姿をにこやかに見送る。まだ不安げにちらりと振り返った託生に口角を上げて完璧に微笑してみせる。ようやっと安心した託生が笑い返しながら扉の向こうに消えた、と同時に。 オレは携帯を手にした。 「エーリーコーっ!!!」 繋がるやいなや絶叫したオレに、受話器の向こう側ではコロコロと楽しげな笑い声がしていた。 …END… AyaさまのLife設定第二段! このお話の「言葉遊び」を感想でいただきまして、うわ〜〜〜〜っ!と感動したんです。 「あい」って、「I」にも「愛」にもなるんだ〜〜〜。男性でも女性でも一人称は「I」なんだって。 ものっすごい、感動でしたね。 そして、この兄妹の力関係の差が私的にツボに入りまして(笑) 大財閥のお嬢様ですから、習い事というのは千差万別多岐に渡っていると思うんです。しかも、どれもプロレベル。 その絵利子ちゃんから直々に教わる託生くん、レベル高くなりそうです。 行く行くは大財閥崎ファミリーの一員になるんですもんね♪ Ayaさま、本当に、ありがとうございました。 りか(2010.11.26) |