かわらないもの

 ある日突然に知らされた真実。
 愛しい人と生きていくための決意。

 全てを受け入れたあの日から、ぼくの中で何かが少しずつ変わっていく。
 変わっていくと言うより、乖離していたものが元に戻って行っている、と言うほうが正しいのかも知れない。

 けれども、その変化をどう受け止められばいいのか、わからないと言うのが正直なところなのであって、ぼくはとても――困っていたのだった。





 卒業式が一週間後に迫ったその日、ぼくはギイと章三と三人で、遅めの夕食を摂るべく食堂に向かっているところだった。
 ギイは人が大勢いるところに、ぼくを連れて行きたがらない。なので最近は、こうして食堂が混みあう時間を外して食事をするようになった。ギイの過保護は今更なれど、今回は事情が事情であり、章三が「こればかりは仕方ないな。諦めろ、葉山」と自分こそが諦めたように溜息をつくので、ぼくとしても止めることができなかった。結局はギイの思う壺、なのである。
 彼の『過保護』は、何も食事の件ばかりではないのだが、いちいち挙げるとキリがないので割愛する。
 すれ違う、食堂から戻ってくる生徒の中に、見知った姿を見つけてぼくは声を上げた。
「伸之!」
「びっくりした。急に大声出すなよ。葉山」
 クラスが違う彼に会うのは、本当に久し振りだった。
 ぼくが入院していたのもあったのだけれど、伸之も受験で祠堂を離れていたのだ。
「入院してたんだって?」
 と伸之はぼくに訊いてから、
「大丈夫なのか?」
 とギイに訊いた。
 いいんですけどね。ぼくよりもギイの方が状況を正しく把握しているし、説明もわかりやすい。ギイを敬遠するあの三洲ですら、ぼくじゃなくてギイに訊くくらいなんだから。
「大丈夫だよ。ただの盲腸だったんだから」
 ギイからそう返されて、伸之はほっとしたように、今度はちゃんとぼくに向かって微笑んだ。
「深刻な病気だったんじゃないかって聞いてさ。心配してた」
「本当にただの盲腸だったんだよ。心配かけて、ごめんね」
 ごめんね、伸之。
 本当は違うんだけど、誰が聞いているとも知れない場所で、軽々しく言えるようなことじゃないんだ。
「祠堂にいると、噂がどんどん大げさになって行くんだよな。困ったもんだ」
「娯楽がないからね。祠堂には」
「ただの盲腸だったとは言え、気付くのが遅かったせいで、騒ぎになったからな。――呑気なのにも程があるんじゃないか? 葉山」
「赤池くん、ひどいじゃないか!」
「そうだぞ、章三。俊敏な託生なんて、託生じゃないじゃないか」
「ギイ! それ、フォローになってないだろ!」
 笑うギイと章三に、必死で反論していたぼくをまじまじと見ていた伸之が、ぽつりと言った。
「葉山、なんか可愛くなったよな」
 どきりとした。
 伸之にときめいたとか、そういう意味ではなくて、正確には『ぎくり』に近い感じで、ぼくの動きが止まる。
「あ、ごめん。気のせいだった」
 伸之は言い直して、さっきのは冗談だと言うように笑う。
「何だ、平沢。今頃受験疲れか?」
「そうかも知れない」
 章三と笑いあう伸之の腕をぎゅっと掴んで、
「ごめん! 二人とも先に行ってて!」
「おい、託生!?」
 ぼくはギイの呼びかけにも応えず、270号室まで伸之を引っ張って行った。


 寮の端から端まで、全力疾走とは言わないまでも早足で抜けると、流石に息が切れる。
「葉山、体力なさ過ぎ」
「そんなこと、ないよ」
 一見、ぼくと体格にそう差がないように見えるのに、伸之の方は平気そうだった。
 ……やっぱりぼくには体力がないんだろうか。
 それとも……考えかけて、ぼくは思考を止める。
 やめ! 今は別のこと!
「あれ? 三洲、いないんだ?」
「受験が終わってからも、なんだか忙しそうなんだよ。三洲くん」
 三洲のシンパは真行寺のみに非ず。
 少しでも一緒の時間を過ごそうと、同級生下級生を問わず大量に押し寄せて、卒業までの短い日々を、三洲は相変わらず多忙に過ごしていた。それでいて、保健室で中山先生と話をしていたり、しっかり真行寺ともデートしていたりするのだから、本当に驚くしかない。
 ぼくのベッドに伸之を座らせてから、少し間を開けて、隣にぼくも座った。
「よかったのか?」
「え?」
「ギイ。最近またべったりなんだろ?」
「あー……うん。そうなんだけどね……」
「やっぱりまだ、身体の具合がよくないんじゃないか?」
「や、そんなことないよ」
「ならいいんだけどさ。ギイ、本当に心配する必要がなければ、結構あっさり、ほったらかしにしたりするじゃないか」
「そ、それはそうかも知れないけど……」
 ぼくとギイが同室だった二年生の頃、一日中べったりくっついていると周囲には思われていたが、実際そんなに始終一緒にいたわけじゃない。次から次へと用事の方がギイに吸い寄せられてるんじゃないかと思うくらい、ギイは多忙な人なので、ぼくにばかり構ってはいられないと言うのが正しいのだが。
 なのに、確かに伸之の言う通り、ぼくに何かがあって心配してくれている時は、ギイはぼくを一人でほったらかしたりは、決してしないのである。
 もちろん、ギイの気遣いはありがたいばかりなのだけれども、ギイの目の前では訊き難い質問があるのだ。
「身体のことは、本当に大丈夫なんだよ。それより、伸之」
 ぼくは意を決して、伸之に訊いた。
「ぼく、最近変わった?」
 きょとんとぼくを見つめた伸之は、次の瞬間ぷっと吹き出した。
「笑うことないじゃないか!」
 一応、伸之が相手だったとは言え、ちょっとくらいは勇気が要ったんだぞ。
「いや、似合わないからさ」
「何がだよ」
「葉山が見た目のことを気にするって。だってそれ、さっき俺が『可愛い』って言ったからだろ?」
「あー……うん。そうなんだけどね」
 ぼくはふぅっと溜息をついた。
「だって、覚えてるだけでも、伸之で6人目なんだ」
「可愛いって言われたのが?」
「じゃなくて、可愛いの後、訂正されたのが」
 食事の時、放課後、ふとした瞬間に言われるのだ。
『お前、最近可愛いな。――ごめん、やっぱり目の錯覚だった』
『葉山くん、なんか雰囲気変わった? 気のせいか』
 何故か最後に打ち消しのオマケがついてくる。
 そう言われるようになったのが、ぼくが退院してきてから、と言うのもぼくにとっては気になるところなのである。
「そんなに変わったのかなぁ、って思って」
 可愛くなったような気がするが、よく見るとそうじゃなかった。……って、どういうことだ?
 伸之がぼくを見て、ふっと苦笑した。
「葉山、その時ギイといただろう?」
「え? あー、そうかも知れない」
「だよな。あいつ、さっき俺のこと睨んだんだよ。葉山に可愛いって言った時」
「……うそ」
「ホント。俺に葉山を口説くとかそういう意図がないの、ギイだってわかってるはずなのに」
「あ、うん。伸之には聡司さんがいるもんね。……ってそうじゃなくて、あの、伸之」
「うん。葉山は可愛くなったよ。顔が変わったとかじゃなくて、雰囲気がさ、柔らかくなった。それが、いいか悪いかは別だけど」
 いいか悪いか、と伸之が付け加えたのは、ぼくが男だからなのだろう。
 ――戸籍上は。
 今までは。
「だよね」
 ぼくの、心は……?
「だろ? ――で、葉山はどう思った?」
「え?」
「今自分がどんな顔してるかなんて、わかってないだろう。気にする割に、可愛いって言われても全然嬉しくなさそうに見えるんだけど」
 ぼくは押し黙った。
 伸之の言う通りだったからだ。
 こんなこと……ギイに言うこともできないのに。
「……あのさ、伸之」
「うん?」
「ちょっと、重い話しても、いい?」
「うん。いいよ」
 伸之が気負うことなく、さらりと返してくれるのがありがたい。
 ぼくは本当に、友人に恵まれている。
「あのさ。……ぼく、本当は……女だったんだ」
「は!?」
 伸之はまじまじとぼくを見、
「冗談……じゃないよな」
 ぼくから視線を逸らして、ふぅっと長く息を吐いた。
「ギイが心配するはずだよ」
「うん」
「赤池も」
「……うん」
「それ、入院した時にわかったのか?」
「うん。みんなには盲腸って言ったけど、本当はそうじゃなかったんだ。子宮の中に溜まった経血が……」
「そういう詳しい説明はいいから」
「あ、ご、ごめん」
 そこでしばらく、言葉が切れた。
 ……言わなければよかった、かも。
 握りこんだ指先も、そこから続く手のひらも、すっかり冷え切った頃、
「じゃあ、葉山はギイと結婚するんだ?」
 するりと訊かれた。
「……うん」
 ぼくが祠堂に戻ってきたあの日、ギイが言ってくれた言葉が、二人で交わした重ね合うだけのキスが、胸の奥に甦って、冷えた身体がふわりと温かくなる。
「卒業したらアメリカに渡って、学校に行きながら治療を受ける。戸籍の性別も変更して、全部が終わったら、ギイと……結婚する。そう、決めたんだ」
「そうなんだ」
 伸之はふっと、苦笑するような表情で笑った。
「いいな。俺が女の子になりたいわけでも、聡司さんに女になってほしいわけでもないけど、やっぱりちょっとは羨ましいよ」
 返答に、詰まった。
 ――そうだよ。
 ぼくはそんな恋人たちを、何人も知っている。
 世間的には認められない関係。祝福どころか迫害すらされかねない、同性同士で愛し合う、禁忌。
 事実が発覚するまでは、ぼくたちもそうだって思っていたのに――。
「伸之、ごめん――!」
「なんで葉山が謝るんだよ」
 伸之は笑って、
「俺も聡司さんも、お互いにわかってて、覚悟して、付き合ってる。性別なんか関係ない。聡司さんだから好きなんだ。葉山だってそうだっただろ」
 ぼくはこくんと頷いた。
 ギイが男でも関係なかった。ただ、どうしようもなく惹かれた。
 ギイだって、きっと、そうだったんだろう。
 ぼくが男でも女でも関係ないって言ってくれた。
 ぼくの過去を話した時も、ぼくが真実を知って混乱して泣いた時も、何度も何度も、愛してるって言ってくれた。
 愛して、くれた。
「葉山だって、いいことばかりじゃないだろ。ずーっと男として育ってきたのに、今日から女だなんて言われても、そんな急に考え方とかって、切り替えられないだろうしさ。だから、『可愛い』って言われても嬉しくなかったのが気になったんだろ?」
「……うん」
 伸之の言う通りだ。
 確かに事実を受け入れた。
 治療を受けて性別を変える決心もした。
 だけど、時々こうやって、気持ちが置いてきぼりにされる。
 ――普通の女の子なら素直に嬉しいんだろうと思うことを、ぼくはまだ、喜ぶことができない。その事実すら、胸につかえて苦しくなる。
 そんなことをギイに言うことはできない。
 自分のこと以上に、ぼくのことを気にするから。
 優しい人だから。
「それに、ギイと結婚するって、それだけでも大変なことだしさ。そんなことしなくていいって言われるかも知れないけど、ギイがFグループを継ぐなら、葉山だって公の場に出たりしなきゃいけないだろ。その時必ずギイが一緒にいるとは限らないしさ。言葉遣い一つで揚げ足を取られるような、そんな世界だから、苦労すると思う」
「う……そうだよね」
「だろ」
 考えなかったのか、と伸之は呆れたように呟く。
「でも、やめないんだろ」
「当たり前だろ!」
 ぼくは顔を上げて、伸之を見た。
「よかった。……葉山、おめでとうって言ってもいい?」
「それ、前にぼくが言ったね」
「うん。言い返してやりたかったんだ」
「いいよ、伸之。……ありが、と……」
 胸が詰まって、目からぽろぽろと熱い雫が落ちた。
「おい、泣くなって! そろそろギイに返さなきゃいけないのに」
 伸之は慌てたように言うと、立ち上がってすたすたと歩くと、270号室のドアを開けた。
「先に言っておくけど、泣いてるの俺のせいじゃないからな! ギイ!」
 伸之に招かれて部屋に入ってきたギイは、大股でぼくの側に来ると、ぼくの頬をそっと両手で包み込んだ。
「託生。何があったんだ?」
 心配そうにぼくの目を覗き込む、薄い茶色の目。
 ぼくはゆっくりと、首を振った。
「ギイ。あのね。伸之が、お、めでと、って……って」
 しゃくり上げて言葉にならないぼくを抱きしめて、背中をあやすようにぽんぽんと叩く。
「託生、泣くなよ」
「だ、って……っ」
 ひどいこと、言ったと思うんだ。
 ぼくたちだって最初は男同士だったのに、ぼくたちだけが、みんなから祝福されて結婚することができるなんて、ずるいって思ってもしょうがないと思うんだ。
 だけど、伸之は祝福してくれた。
 ねぇ、ギイ。
 すごく嬉しかったんだ――。
「ギイ」
 伸之が270号室のドアのノブを掴んだまま、ギイを見た。
「俺の友だち、絶対に幸せにしろよ」
「当たり前だろ」
 ギイは即答して、大切なものを包み込むように、ぼくを抱きしめる腕にそっと力をこめた。
「託生を絶対に幸せにする。約束するよ」
 いっそ誇らしげにすら響く、晴れやかなギイの声を、ぼくは絶対に忘れないだろう。


 幸せになろう、ギイ。二人で一緒に。



めいさまからいただきました、Life設定の『かわらないもの』です。
Lifeに衝撃を受けられたそうで、言われてそんな大層な物を書いたかな?と反対に私も衝撃を受けましたが(笑)
託生くんの体の変化への戸惑い、他の祠堂カップルへの後ろめたさ。
でも信之の二人を祝福する「おめでとう」の一言が、託生くんの心に染み渡る素敵なお話です。

めいさま、本当に、ありがとうございました。
りか(2010.11.27)
 
PAGE TOP ▲