みっつの扉

覚悟はしていた。
アメリカに渡り、託生を家族に紹介したときから、オレなりに覚悟はしていたつもりだった。
オレと託生、思い描いたふたりの未来を崩させやしないと、決意はそれこそ命がけだった。
だが、現実は考えていた以上の強さで、オレは己の力の無さをあらためて思い知ることになった。


部屋の中、正面に立ったオレに、親父は興奮を抑えようとするがために強張った面持ちのまま、大股で近づいてきた。いつものゆったりと余裕のある穏やかで紳士的な仕草ではなく、荒々しい足運びがその心情を物語る。
ザッと伸びてきた腕が、オレの肩をガシッとつかんだ。その手から、抑えきれない激情が伝わってくる。
そして、親父は低く唸るような声でいった。
「でかした、義一!」
「父さん…っ」
胸中に吹き荒れる万感の想いを、親父はそのたったひとことにまとめ、もう一度グッと力を込める。
「わたしからはそれだけだ」
「父さん、オレは……」
「いい。なにもいうな」
斜めにそらした目が、キラリと光る。通い合う心に、なるほど言葉は必要ない。
だが、その親父の手から、ふと力が抜けた。
「ただ、母さんたちが……な」
口ごもるようすに、オレは嫌な胸騒ぎがした。
「まさか、反対しているとか?」
我が家の女性二人は、敵にまわせばこの上なく厄介な存在だ。託生とはまたべつの意味で、むかしからオレのウィークポイントだった。
「それが……いや、すぐにわかることだ」
「父さん」
口ごもる親父に問いかけても、こめかみを指で押さえて小さく頭を振るだけだった。
「とにかく、母さんの部屋へ行きなさい」


「義一、そこに座りなさい」
「座っています」
ここは畳敷きの和室だ。
そのルーツからして日本の文化も一通り身につけておくべしと、オレと絵利子も小さいころはいろいろと稽古をつけてもらった部屋だった。オリエンタル趣味の客人にも喜ばれるようで、ここ崎家の本宅では異質なほど純和風のしつらえである。
母の部屋に行けば、ここにくるようにとの指示があり、「失礼します」と襖を開ければ、キッチリ着物姿の母が座っていた。なにやら凄みのあるその出で立ちに、オレはごくりとツバを飲んだ。
すでに正面に腰を下ろしていたオレの状態など頓着せず、座れと命じた。そして伏せていた目を上げて、母はヒタとオレを見据えた。
「はっきりいいましょう。私はあなたが託生さんと二人で暮らすことに反対です」
「それは…っ!」
単刀直入、バッサリ切って捨てるような発言に、オレは腰を浮かしかけた。と、母の扇子が膝を打ってピシッと鳴る。その音に、オレは渋々ながら姿勢を戻した。
「いいですか。結婚前の男女が一緒に暮らすことを、世間では同棲というのですよ」
「そんな、今時……」
「お黙りなさい」
珍しいことでもないと、反論すら許してもらえない。
「なにが今時ですか。世の中が自分たちの世代だけで成り立っていると思ったら大間違いです。ことの是非はともかく、それをはしたないと教育された方々もまだまだ御健在なのですよ」
つまり、世間体を気にしているというのか?
たしかにオレたちの恋は始まりからしてごく普通とは言い難いものだし、今回の一件でそれはますます一般的とはいえないものになった。この場合、反対するのは母親としては当然の言い分かもしれないと諦める気持ちもオレにはあった。
だが、それはただ母の理解を今は諦めるというだけで、託生のことをではない。世間の偏見をこの身に受けて立つ覚悟はとっくの昔にできている。
「オレは誰に何をいわれてもかまいません」
微塵も動じないで晴れ晴れと宣言したオレに、母は
「あなたの心配などしていません」
ぴしゃりと言い返してきた。
「……はい?」
聞き返すオレを、母はちらりと睨んだ。その目はあたかも「なにを聞いているのだ、このバカ息子は」とでも言いたげに。
「私は、託生さんのことをいっているのです。あの人の評判を落とすような真似は、この私が許しません」
「……つまり、オレと託生のことを反対しているわけではないのですね?」
「反対? なにを馬鹿なことを」
一番重要なこの点を確認すると、心外だとばかりにホウッと短く息を吐く。それから母は傍らにあった湯呑みに手を伸ばし、ことさらゆっくりと喉を潤した。
その苛立たせるような間のとりかた。相手の術中にはまっているとわかりつつも、オレはじりじりと待つしかなかった。
「義一」
「はい」
「そこに座りなさい」
「座ってますってば」
ダメだ、すっかり母のペースだ。
「そもそも、あなたのような男と一緒になろうだなんて、よほどのことですからね」
「あのね……」
身内ならではの歯に衣着せぬ物言いに、少しは抗議させてもらいたいものだが、
「私の目は誤魔化せませんよ」
片手でひらりと軽くいなされてしまった。
「外面のいいあなたのことです、世間の皆様もそれに欺かれていらっしゃるようですが。嫉妬深くて、独占欲が強くて、実は小心者の我侭で、なお悪いことにそれらを気取らせない演技力と妙な自尊心がありますからね、あなたは」
うわ……容赦ねー。
「ちょっと、母さん」
「まさか、自覚がないほどの愚か者ですか?」
「……いえ」
してます。ちゃんとしてますよ、自覚は。
頭脳明晰、容姿端麗、傍若無人で奇々怪々。あらゆる賛辞を幼いころから当然のように浴びて育ち、自分でもその自信はある。だが、その一方で、今ことごとく指摘された部分も確かにオレの中にあるものだ。わかってはいるが、自覚と指摘ではへこみ具合もかわってくる。
一応、自慢の愛息子なんだけどな、オレ。
親としての愛情を疑ったことはないが、どうしてこうも冷静に観察できるかな、この人は。妙なところで血の繋がりを実感してしまった。
「あなたのような小賢しい若造は、若いからこそ突出して見えるだけのこと。もう少し年を重ねれば所詮ちょっと頭が切れるただの人です。世間様が騙されてくれているうちに、なんとかお相手をみつけなければと、母は苦慮していたのですよ」
「はあ……」
「もっとも、二年もすれば愛想をつかされて別れます」
「……断言ですか」
「それもしかたのないことと覚悟していました」
はいはい、しちゃってたんですね、そういう覚悟も。
「ところが、あの託生さん」
だらんと投げやりになりかけていたオレの態度も、託生の名前が出た途端にピッと引き締まった。おそらくこれも母の計算だろうと思いながら、そうせずにはいられない。まったく、我が母ながら……。
「あの可愛い人は、そんなあなたのことを理解し、その上で一緒になってくれるそうじゃありませんか。なんて有難いことでしょう」
指先でそっと目尻を押さえる仕草だけなら、これまた演出かと疑いもする。だが、たしかに光る、隠し切れない涙を見てしまっては……。
「母さん…」
これには不満もわずかな反抗心も吹き飛んでしまった。無償の愛を感じて、胸が詰まる。
なのに、ふと心が無防備になったところへ、
「我が家にとっては、まるで救世主のよう」
そこまでいうか〜。グッサリきたぞ、今のは。
悄然と肩を落とす以外、オレにどうしろと?
「義一」
「はい」
「いいですか、決して逃げられないように。常に最善を心がけなさい」
「はい」
それはもう、今さら言われるまでもないことでございます。
「ということで」
……どういうことで?
「婚礼までは別居です」
「いや、それは納得できません!」
これだけは譲れるか!
ぼろぼろ崩れて散らばっていた戦闘意欲を慌ててかき集めて顔を上げたが、
「控えなさいっ!」
母の迫力はオレをあっさりと上回っていた。
「託生さんの名誉のためです! あなたの独占欲や性欲など、知ったことではありません!」
性欲って、そんなあからさまな……。まさか母親に言われるとは思っていなかった。男は、息子というものはですね、そこんところ結構ナイーブなものなのですよ、母上。
「わかったら下がりなさい」
「……承知はしませんが、失礼します」
このままでは、言い負かされてしまいそうだ。
今ならまだオレは承知していない。せっかくとうとうようやっと卒業して、しかもアメリカにいるというのに、別々に暮らすなんて冗談じゃないぞ。誰が承知なんかしてやるものか。
持久戦は覚悟して、とりあえず形勢不利の今は撤退すべしと判断したオレは、心なしよろめきながら部屋を出ようとした。
「義一」
「……はい?」
振り返ると、母は今日初めて笑顔を見せた。
「次は絵利子の番ですよ」
まだあるのか……。


「ようこそ、絵利子の部屋へ。おにいさま」
満面の笑顔で出迎えてくれた我が妹。なのに、いや増すこの疲労感はなぜなんだ。
「あら。なんだかやつれたみたいね」
そりゃそうだ。母の部屋を辞したころには全身汗だくになっていた。さらにネクタイは緩め、髪は掻き毟り、今のオレはボロボロにしか見えないだろう。なんというか、襟首をつかまれ、ぶんぶん振り回されたような気分なのだ。
そんなオレを招き入れ、絵利子はソファを勧めた。
優しく労わるようなその仕草とは裏腹に、
「おい、絵利子…」
ひゅんっ。
「なあに?」
ひゅん、ひゅんっ。
小さく翻っては空を切る、それってアレだろう、間違いなく。
「なんなんだ、そのハエ叩きは」
縦横に振り回すだけでなく、くるくるとバトンのように回してみせる。器用なものだ。
「今のわたしの心情をわかりやすく具象化しただけよ」
そーかそーか。ひゅんひゅんで、くるくるなわけか、おまえの気持ちは。
「具象化もいいが、ちゃんと説明してくれ」
賛成か反対か、それすらまだわからない。
「反対なのか?」
憮然と腕を組むオレを見て、絵利子の手が止まった。
「まさか」
即座に否定し、次の瞬間、びしっと真っ直ぐオレに向けて突き出す。
一分の隙もない。さすがフェンシングの名手……などと感心している場合ではなかった。
「今、この瞬間からギイといえど例外ではありません。悪い虫は一匹たりとも託生さんに近づけませんから、そのおつもりで」
つまりそのハエ叩きは、憧れのお兄様に近づく人間に対してではなく、託生を守るためのものか。それでもって、オレにも向けられているわけか。
「おーまーえー」
あの母にして、この妹あり。そんなややこしい賛成のしかたがあるか!
「オレは害虫か!」
「この場合はね」
しれっと言い返してくる。このオレがかなり本気で睨んでいるというのに、毛筋ほども動じないときている。いつのまにここまで図太くなったのやら。
「おにいちゃんおにいちゃんと甘えてきたブラコン時代はどこへいったんだ」
「そんなむかしのこと」
せせら笑うな、年頃の美少女が。
あああ、むかしはあんなに可愛かったのに。
頭を抱えるオレを無視して、絵利子は「ん〜」と困ったように首をかしげた。
「つまりね、託生さんって、なんていうか、男慣れしていないのよねえ」
「男には……いや、慣れているぞ。環境からして」
ついこのあいだまで、男ばかりの祠堂にいたんだ。絵利子の言わんとすることが色っぽい意味だとしても、オレという恋人がいるわけだし。
「同性としてならね。今まではそれでもよかったけど……」
いや、今までも結構ヤバかったんですけど。
「これからはそうもいかないわよ。群がる野獣たちの対処方法を知らないと、とんでもないことになるんだから」
「群がるって、おまえ」
「群がるわよ? ぜったい」
自信たっぷりに言い切られてしまった。
だが……うん……そうだな、簡単に想像できてしまう。祠堂でもあれだったんだ。同性ということでブレーキをかけていた奴らも多かった、なのに、あれだったんだ。
ゾッとしているオレに、絵利子が追い討ちをかける。
「昨日だって……」
「なにかあったのか?」
含みをもたせた言葉尻に、慌てて思い返した。
オレの家族と会うことにひどく緊張していた。そんな託生をひとりにするはずがなく、オレはずっとそばにいた。
……いや、一度、母に呼ばれたな。話があるからと、つまり今日の時間を指定されたとき、託生には聞かせたくなくて、少し離れた。ほんの少し、数分だ。距離にしてもごくわずかの。あのときになにか?
「おい、絵利子」
問いただしても答えず、ただ、唇の両端を上げてニヤ〜ッと笑い、件のハエ叩きがひゅんっと空を切った。
「よかったわねえ、絵利子がいて」
「う……」
そうか。既に世話になっていたのか。
「だから、ね、ギイ。わたしにまかせたほうがいいわよ。こういうテクを伝授できるのも、わたししかいないと思うけど?」
ひゅん、ひゅん。
ハエ叩きが、まるで鞭のようにしなって唸る。
わかっている。これからの託生には導き手が必要だろう。大きく変化する環境に傷つけられないよう、それなりの対処法は身につけていかなければならない。それはオレも考えていた。
だが、誰かほかの人間に委ねるなど、はなから選択肢にない。
「大丈夫、オレが教えていくから」
「無理よ」
丁重に断ろうとしたオレを、絵利子は一蹴した。
「二度とひとりにしない。絶対に」
「無理だってば、そんなの」
呆れている絵利子のほうが正しいと、頭ではわかっているのだが。
「無理じゃない、オレが守る」
そう誓ったんだ、託生に。自分自身に。
「なにを偉そうに。女子トイレにも同行できない人間が」
ふんと鼻を鳴らして、絵利子はオレを見下ろした。
「それは……」
……さすがに無理、だが……いや、なにかべつの方法が……。
「オレ、が」
「女装してなんていったら、ぶっ殺すから!」
ぶっ……。
いやいや、そんなこと考えてないし。
あまりの言葉に唖然とするオレの前で、絵利子は両手を腰にあてて仁王立ちだ。
「オレオレ、オレが、そればっかりじゃない! しのごのいわずに任せちゃいなさい!」
長い髪が、ふわりと広がったように見えた。炎のように熱い内面が、まわりの空気を揺らしたかのように。意志の強い眼差し、紅潮した頬は、妹ながら見惚れるほどだ。
ふいに、重なって見えた。似ているところはどこもないのに、この妹と、日本にいる相棒の姿が重なった。
祠堂での三年目、ひとりで抱え込むなと怒っていた相棒に。
「おまえ、章三みたいだな」
思わずつぶやいた言葉に、絵利子はびっくりしたようにぱちっと瞬き、目を見開く。
「それは……」
吟味するように、オレの言葉を頭の中で反芻している。
「それはなかなかの賛辞ね」
新鮮だと、まんざらでもないように笑った。
気をよくしたのか、そのまま口元が緩んでいる。これは、もしかして退出のチャンスか?
「わかったよ」
「わかったの?」
「ああ。たしかに、これから託生が立つ場所に一番近いのは絵利子だしな」
「そうそう」
「とにかく、託生にきいてみることにしよう。ここでオレがひとりで決めていいことじゃない、だろ?」
「そうよぉ。あら、本当に少しはわかったみたいね」
「うん、わかったから。じゃあ、そういうことで……」
さりげなく、さりげなく。これ以上引き止められないよう、まして害虫だということを思い出させないよう、さりげなく。
焦る気持ちを押し殺して、オレは扉までじりじりと移動した。ドアノブに手をかけ、あと少しというところで、
「ギイ」
呼び止められてしまった。
「ん?」
内心の落胆を隠して振り返る。と、絵利子の腕が上がって、オレの首にそっとまわされた。
「絵利子?」
「婚約、おめでとう」
背伸びをして、頬に祝福のキス。
妹にあわせて少し屈んだオレの肩にぽてっと頬を預けて、絵利子は確認するようにささやいた。
「幸せなのね」
「…ああ」
「ずっと、幸せでいてね?」
いつもオレのあとをちょこちょこ追いかけてきた小さな妹。泣き顔も、ぺたぺたと甘い手をいっぱいに広げた笑顔も、はっきり覚えている。まるで昨日のことのようなのに、いつのまに、こんな……。
「ありがとう、絵利子」
祈るようにささやくその背中を、オレはぎゅっと抱きしめた。
絵利子だけでなく、すべての人に、すべてのことに感謝をこめて。
「ありがとう」
もう一度、心をこめて。



まったく、オレは無力もいいとこだ。
オレと託生の未来。独り決めしていた予定が、ガラガラと音を立てて崩れていく。ふたりだけしか存在しないように見えていた未来は、もっとずっとバタバタ人の出入りの激しいものになりそうじゃないか。
さてさて。どこまで変更すればよいのやら。
幸せに、ただ幸せにと、想いはみんな同じ方向を向いているのだから、きっとどこかに道はあるだろう。もう一度探しなおそう。それも悪くない。
ひとり強がってみたところで、三者三様、これほど深い深い情を披露されては、オレに勝ち目なんてありっこないのだから。
今、無性に会いたい。会って、託生に聞いてもらいたい。
オレに注がれてきた愛情は、そのままおまえにも繋がっているのだと。言えば、おまえは笑ってくれるだろうか。
臆病なオレが避けがちな「両親」の話題をタブーにしない強さで、オレの家族の幸福まで願ってくれるおまえは、喜んでくれるだろうか。
ぐったりと心地よい疲労感と幸福に酔いながら、オレは、オレという人間を育んでくれた家を後にした。
次は四つめの、最後の、最高の扉を開けるために。
さあ、急ごう、託生が待っている。

…END…


Lifeの感想をAyaさまからいただきまして、その中にあったお話が一人で堪能するには申し訳なく、皆様にお裾分けしたくてサイト掲載をお願いしましたら、快く承諾してくださっただけじゃなく、新たに書いてくださいました!
あぁぁぁぁぁ、Ayaさまのギイだぁぁぁぁぁぁ!と、一人悶え苦しんでおりました。
託生くんが本宅に来る日には、ソファに座る託生くんの両横をお母様と絵利子ちゃんが陣取り、真正面にはお父様が仕事放ったらかしで(島岡さん、お疲れ様です)ニコニコとコーヒーを持ってダンディを気取り、その横でギイが「オレの託生なのに・・・・」と不貞腐れているのが目に浮かびます。
でも、崎家の癒しアイテム託生くんの笑顔に、ギイは完敗するしかございません。
そして、お返事に書いた「ハエ叩きを持って仁王立ちする絵利子ちゃん」出演に、大満足でございます。
Ayaさま、本当に、ありがとうございました。

りか(2010.11.22)
 
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