bond(2010.10)

 島岡が帰った後、今日は休講だと言う託生をもう一度ベッドに誘い、半ば失神するように崩れ落ちた託生を胸に抱きしめたのが夜明け前。
 そのまま託生を腕の中に閉じ込め、今日のスケジュールとこれからの動きをシュミレーションする。
 託生を守る為。そして、もう二度と手を離さない為。
 昔と変わらぬサラサラの髪を梳きながら、カーテンの隙間から光が差し込むのを見ていた。



 AM6:30
 穏やかな顔でベッドに横たわる託生の頬にキスをして薄暗い寝室を後にし、熱めのシャワーを浴びる。
 鏡に映る自分の顔が、ふっきれたように昨日と違って見えた。暗闇の中から光溢れる所へ。全てが見通せる場所に立てば、明確なビジョンが見えてくる。
 大丈夫。切り札を持っているのはオレだ。
 煙草に火をつけ、携帯の短縮ボタンを押した。
”おはようございます”
”マイケルか?今日は迎えはいらない。オフィスで待っててくれ”
”えぇ?!そ………そうは言われましても、すぐそちらにSPを手配いたしますので………”
”その必要はない。あぁ、それと会長との面会を取り付けておいてくれ”
 親父のスケジュールまでオレは把握していないが、第一秘書の島岡がNYにいたという事は、親父も今は本社にいるということだ。
 声を遮り、必要な事だけ伝え携帯を切った。ついで着信拒否にする。
 マイケルがオレの言動を逐一報告していた事は、わかっていた。あえて放っておいたのは、秘書として有能だっただけの事。記憶を取り戻したオレには親父の息がかかった人間は必要ない。
 他にも数人いるようだが、とりあえずは島岡をこちらに引き入れ、それから選別すればいい。
「放っておいても、島岡がやってくれるだろうがな」
 柔和な笑みの裏にある冷酷な程の洞察力と判断力。それに騙された人間が、今まで何人いた事か………。
「あいつに任せておけば、問題はないか」
 丸投げを決めた脳裏に、苦虫を潰したかのような島岡の顔が浮かび、小さく噴き出した。



 着替えを済ませ、ベッドの淵に腰掛けながら託生の額にキスをすると、睫が震えうっすらと目を開けた。
「………………ギイ?」
「おはよう、託生。仕事、行ってくるよ」
「もう、そんな時間?!」
 慌てて起き上がろうとする託生を、やんわりとベッドに押し戻し、
「そのままでいいって。託生、起き上がれないだろ?」
「………誰のせいだよ」
 託生は赤くなった顔を隠すように目元までシーツを被り、恨めしげにオレを睨んだ。
 遠距離恋愛中、何度か見たことがある懐かしい光景に顔が緩み、
「ごめん、オレのせい」
 シーツごと抱きしめると、
「そんな顔して謝られても、信憑性がない」
 余計、拗ねられてしまった。
 それでも、指先でシーツを捲ると託生はおずおずと顔を出し、
「託生、愛してるよ」
「ぼくも………愛してる」
 当たり前のようにオレの口唇を受け止めた。
 柔らかな口唇を啄ばんでいると、昨夜あれだけ愛し合ったのに、底無し沼のように欲求が体の中を渦巻き苦笑する。1年半塞き止められていた想いが、一気に溢れ出たようだ。
 性懲りもなくベッドの住人になりそうな己の状態に、理性を総動員して甘い口唇を開放する。しかし、託生の目にも同じような欲望が浮かんでいるのに気付き、グラリと自制心が揺らいだ。
 託生にかかると何時もこうだなと、自分に苦笑いし、
「続きは、今夜な」
 ジョークに紛らわせ、おまけと称して派手に音を立て頬にキスした。
 そして、話題展開を試みる。
「託生、鍵はどこにある?」
「え?……あ………ギイ、そこの引き出し開けて」
「ここか?」
「うん。一番上にスペアキーがあるから」
 託生の言う通り置いてあったスペアキーを取り出し、
「借りていくな」
「いいよ。ギイが持ってて」
 託生は当然のように言った。
 これは、今夜は帰ってこいという意味か?いや、言われなくても、ここに帰ってくるつもりだが。
「よかったら煙草とライターも持っていって」
 昨晩のどしゃぶりの雨で、シャツのポケットに入れていた煙草もライターも使い物にならず、今まで託生のを拝借して吸っていたのだが、煙草を吸っている人間が定期的に煙が恋しくなるのは身を持って知っている。
「託生は、いいのか?」
「ぼくには、もう必要ないから………」
 目を伏せて呟く託生に、愛しさが広がる。
 思い出せば、昨夜からずっと託生は煙草を吸っていないじゃないか。これはオレの代わりだったと、そう自惚れてもいいんだな。
 しかし。
「でもギイが禁煙を考えてるのなら………ん………」
 続けられた、耳に痛い台詞をキスで封じ込め、
「オレには、無理」
 にっこり笑った。



 通りに出て流しのイエローキャブを拾い、本社へと向かう。
 オレが『崎義一』だと気付いたのか、チラチラとバックミラーで確認する運転手に舌打ちをしたくなるが、ここでマスコミにリークされては敵わない。好奇心旺盛な視線を打ち払うように、窓の外に顔を背けた。
 昨晩の雨の名残が水溜りとなって残ってはいるものの、今朝のNYは今のオレの心のように晴れ渡り、街路樹が誇らしげに新緑を輝かせている。
 心が満たされていた………。
 自分の中にあった空洞は、記憶そのものだと思っていた。だから新しい人生で記憶を重ねていけば、その空洞も消えるのだと、そう信じて疑わなかった。
 しかし、今ならわかる。
 空洞を埋めていたのは、託生。
 託生を愛し、託生に愛された幸せの証。
 託生が傍にいないのに空洞が埋められると思っていたなんて、なんと愚かな事を考えていたのか。
 ビルに近づくと、車寄せに慌てた様子の秘書達とSPが見える。
 ま、オレに『何か』があった場合、責任を問われるのはSPだからな。可哀想な事をしたとは思うが、幸せを噛み締める時間が欲しかった。
 車が停止し、口止め代わりのチップを弾んでドアを開けると、寸分のスキもなく一斉に頭を下げ、瞬時SPが周りを固める。
 何か言いたそうなマイケルの横を通り抜け、”今日の予定は?”先手を打った。
 吹き抜けの玄関ロビーを歩きながら、
”10時よりMA社で新商品の説明、12時よりホテルリッツにてHプロジェクトメンバーと会食、14時半よりCPU工場の視察と会談、17時頃帰社、19時より会議が入っております”
”会長との面会は取れたか?”
”はい。午前中であればいつでも………というお返事を頂いております”
 ようするに、『今』しかチャンスはないわけか。
”わかった。オレはこのまま会長室に行く。15分後、車の用意をしておいてくれ”
 秘書二人が抜け、オレはそのまま重役用エレベーターに乗り込み、最上階の親父の部屋に向かった。
 予想通り、エレベーターを降りると、島岡が”お待ちしておりました”と他人行儀に頭を下げた。
”こちらへ、どうぞ”
 含みのある視線に、微かに頷き後に続く。
 島岡には、オレがここに来る事は、わかっていただろう。
 分厚い絨毯が敷き詰められ物音一つ響かない廊下を歩きながら、オレの頭がクリアになっていく。
 何度もシュミレーションし弾き出した答えは、本当に合っているのか。いや、合っていようとなかろうと、オレの答えは初めから一つしかない。それをどう取るかは親父の問題だ。
 どちらにせよ、恨み言の一つでも言わないと、オレの気持ちが収まらないが。
 それに、親父の出方に寄っては、オレの進退をも左右する。
 重厚な扉の前で立ち止まり、背後控えていた秘書とSPに、
”ここで待っていてくれ”
 と一声かけ、開けられた会長室に足を踏み入れた。



 世界中を飛び回り、顔を合わす事など年に数回ではあったけれど、オレはこの人の背中を見て育ってきた。
 いつかこの人のような男になりたい、いつかこの人を越える人間になりたいと。
「どうした、義一。何か話でも?」
 しかし、ここにいるのは、オレと託生を引き離そうとした人間だ。オレの記憶が戻れば、どうなるのかは、簡単に予想ができただろうに。
 島岡がすっと後ろに下がり、オレの側に付くのを横目で確認し、
「オレの秘書に島岡を頂きます」
 言い切った。
 この意味がわからないような親父ではなかろう。
 しばしの沈黙の後、
「………思い出したのか」
 親父の口から、溜息と共に零れた色は落胆。
 親としての気持ちはわからなくはないが、オレは託生でないと幸せにはなれない。
「えぇ、たとえ貴方でも、オレのプライベートにまでレールを引かれるのは不本意です」
 Fグループの後継者として育てられた事はオレ自身も納得しているし、またやりがいを感じている。記憶を失った事はオレの責だが、島岡を含め色々な人間を巻き込み、思い出す機会を封じ込めた親父の気持ちは、受け入れられるはずがない。
「それほどまでに、彼との絆は深いのか?」
「託生との絆は、血よりも濃く深いと思っています」
 暗に、全てを捨てる覚悟はできていると。大切なのは、家族よりも託生なのだと。
 親子だからこそ、自分の気持ちを容赦なく伝える。
「もし貴方が邪魔をすると言うのならば………オレ自身をライバル会社に身売りしFグループを潰しますよ?」
 これは脅しじゃなく本気だ。託生を守る為なら、いくらでも『崎義一』を利用してやる。使い道を間違えなければ、10年後にはFグループは存在しないだろう。オレにはそれだけの利用価値がある。
 突きつけた二者択一に、溜息を一つ吐き、
「………お前以外の後継者を、誰が認めるのだ」
 親父は、諦めの言葉を吐いた。
 張り詰めていた部屋の空気が、一気に緩んだ。背中から、ホッとしたような島岡の気配を感じる。
「お前のプライベートには一切関知しない。それでいいな?」
「はい、ありがとうございます」
「それで、島岡が抜けた穴埋めは考えてくれているのか?」
「マイケル・ウィルソンをお返しします」
「そこまで、わかっていたか」
 参ったなと可笑しそうに笑い、親父は背中を向けた。
「義一、今幸せか?」
「えぇ、例えようもなく」
「そうか………すまなかったな」
 親父の背中に一礼をし、会長室のドアを開けた。
「島岡」
「はい」
「後を、頼めるか?」
「もちろんです」
 廊下で待機していた人間の下に向かい、
”マイケル。明日から会長付きの秘書だ。今日中に引継ぎを終わらせてくれ。第一秘書には島岡がつく”
”義一様!”
”会長とは話がついてる。元の職場に戻ってくれ………お疲れさん”
 こいつも詳しい事情はわかっていなかったんだろう。ただ、下された命令をこなしていただけの事。
 これまでの働きを労うと、マイケルは深々と頭を下げた。
”義一様、お時間が………”
”あぁ、すぐに行く。リック、付いてきてくれ”
 島岡とマイケルをその場に残し、階下に向かう。
 用意された車に乗り込んだ時、ポケットの中の小さな鍵がカチャリと音を立てた。
 それは、託生が「よかったね」と微笑んでくれたような、優しい音色だった。




この後続いていたんですが、私の頭では切り替えが上手くいかず、分けました。
とりあえず、父との対決編ということになります。
はぁ、やっと一つクリア。
(2010.10.16)
 
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