Tonight (2001.9)
只今夜の6時半。ぼくこと葉山託生は、学食で一人夕食を取っていた。
「葉山君、ちょっといいかな?」 頭上から降ってきた声に顔を上げると、二階階段長でありブラスバンド部の部長、野沢政貴。 「うん、いいけど」 政貴は食べ終わったトレイを、隣の席に置き腰を下ろした。 「葉山君、このあと何か予定入ってる?」 「ううん、別に何も入ってないよ」 いつもの事だけど………。心の中で付け加える。 「手伝って欲しい事があるんだけど、頼めるかな?」 「ぼくに出来る事なら」 「いや、葉山君しか出来ないんだ。とりあえず食べ終わったら、俺の部屋に来て欲しいんだけど」 「わかった、野沢君の部屋に行けばいいんだね」 政貴は、ほっとしたような表情をして、じゃあ、あとでと、トレイを手に席を立った。 夕食後200号室を訪ねたぼくは、机の上に置かれた楽譜の束に目をやった。 「もしかして、ブラバンのスコア?」 「そうなんだよ。文化祭用なんだけど、夏休みが始まる前に部員に渡したいんだ。パート長にやってもらえばいいんだけど、楽譜は読めても書けない人間ばっかりで、かと言って俺一人だと時間が足りなくて困ってるんだよ。写譜手伝ってもらえるかな?」 「いいよ。そのまま写せばいいんだろ?」 三歳からバイオリンを習っていたぼくには、楽譜を写す位、朝飯前だ。 「それがね、ちょっと違うんだ」 眉を寄せて声を潜める様に、ぼくの声も思わず小さくなる。 「何?」 「葉山君は、ドレミファソラシドの、ドイツ語読み知ってるよね」 「あの、CDEFGAHC(ツェー、デー、エー、エフ、ゲー、アー、ハー、ツェー)って奴だね」 「そう。例えばトロンボーンはC管(ツェー管)と呼ばれてて、楽譜上のドはピアノのC、ドと同じ音なんだ」 「うん」 「ところが、ホルンはF管(エフ管)だから、楽譜上のドは、ピアノではF、つまりファの音と一緒なんだよ」 「あぁ!」 「同じように、トランペットはB♭管(ベー管)だから、ピアノのシフラット。アルトサックスはE♭管(エス管)だから、ピアノのミフラットが、それぞれのドになるんだよ」 絶対音感を持つぼくだけど、だからこそピアノのドの音が、ドではないですよ、って言われたら、こんがらがってしまう。 「管楽器って、ややこしいんだね」 「そうなんだよ。だから写譜をするためには………」 「移調しないといけないんだ」 これは、やっかいなことになったぞ。全楽器の写譜、今日中に終わるのだろうか………。 とにかく、書くのみ。 ぼくと政貴は、木管楽器、金管楽器とそれぞれ分けて黙々と五線紙に向かった。 「そろそろかな」 政貴の声に顔を上げると、時計は9時5分前を指していた。 「葉山君、ちょっと休憩しないかい?コーヒーでも買ってくるよ」 言うなり政貴は財布を手に、ぼくの返事を待たずに部屋を出て行った。 「さすがに、疲れたなぁ」 伸びをして首を左右に倒すと、コキッコキッと音が鳴る。 「こんなに机に向かう事って、ないもんね」 いや、それはそれで問題なのだが………。一応受験生なんだし。 コンコン。 「あれ、お客さん?」 野沢君はいないし、ぼくが出るしかないよね。 ぼくは、ドアを開けながら、 「今、野沢君、留守なん………」 ですけど、と続くはずの台詞が途絶えてしまった。 「託生………?」 目の前にギイ。呆然と見上げるぼくの背後を素早く見やると、ギイはぼくごと部屋の中に入り、ドアを閉めきつく抱き締めた。 「政貴は?」 「今、コーヒーを買いに行った」 義務的に応えながら、でも突然のギイの登場にまだ理解できないでいる。夢の中の出来事のようで、ただ懐かしい甘い香りだけがこれが現実だと、ぼくに教えてくれていた。 「じゃ、二人きりってわけだ」 「でも、野沢君が戻ってくるかも………」 「大丈夫。当分戻ってこないよ」 「でも………」 ギイの口唇で台詞は途切れてしまった。確かめるような軽いキス。一度離して見詰めあい、どちらともなくまた口唇が合わさる。 ギイ………逢いたかった………。 心の中の呟きが聞こえたように、ギイはさらにキスを深いものに変化させていく。 情熱的なキスに翻弄されたぼくは、振り落とされないように、腕を廻してしがみついた。 「ところで託生は何してたんだ?」 ひとしきりのキスのあと、ぼくを抱き締めたまま思い出したようにギイは問い掛けた。 「野沢君にブラバンの楽譜の写譜を頼まれて、手伝ってたんだ」 「ふーん」 ギイは机の上の五線紙を見ると、納得したように頷き机に近づいた。 「文化祭用か。今度は何をするんだ?」 ぼくを椅子に座らせて、背中から包み込むように抱き締める。耳にギイの吐息がかかって、くすぐったさに身をよじった。 「うん、『ウエストサイド物語』のメドレーで、『America』『Tonight』『Mambo』の三曲だよ」 「へぇ、楽しそうだな」 「そうだね。野沢君ってすごいよね。作曲も編曲もこなしちゃうなんて」 それに、ギイと同じ階段長。忙しい筈の彼がいつ書いてるんだろうと、不思議に思ってしまう。 ふいに、ギイが流暢な英語で囁いた。 Only you You're the only thing I'll see forever In my eyes, In my words and in everything I do Nothing else but you Ever! And there's nothing for me but Takumi Every sight that I see is Takumi. 「今の何?」 全然聞き取れない。自慢ではないが、ぼくは英語が苦手なのだ。わかったのはTakumiだけ。 「『Tonight』の歌詞」 「『Tonight』にTakumiなんて出てこないよ」 「まぁまぁ」 「どういう意味なのさ?」 ぼくを覗き込むギイの目が、悪戯っ子のように笑っている。何を言ったのか、これはぜひとも訊かなければ。 「訊きたい?」 「うん、訊きたい」 ギイは頬に口唇を寄せて囁いた。 「今夜、オレの部屋で教えてやるよ」 ぼくの顔が赤く染まった時、部屋にノックの音が響いた。 ポーカーフェイスのギイは、何事もなかったかのようにドアを開け、政貴と挨拶をしている。 ………こんな時に卑怯じゃないか、ギイ。赤面が治らないよ。 消灯を過ぎた0番のベッドの上。熱に犯されたように、互いの名前を呼び一つになる。 「愛してる、託生」 「ギ………あ……ぼく………も」 熱を帯びた囁きに、ぼくの体が熱く溶けていく。触れ合っている箇所から、ギイだけが鮮明になっていく。求めて求められて、もっと深くもっと高く………。 「も………ギイ………」 ギイは妖しく腰を進めながら、ぼくの耳元で囁いた。 お前だけ……… オレに見えるのは永遠にお前だけだ この瞳に、この言葉に、オレの全てに……… お前だけだ、他には何もいらない! ………タクミだけ 俺の瞳に映るのはタクミだけ……… 「託生………愛してる………」 ギイの囁きを最後に、二人同時に上り詰めた行き先には漆黒の闇。 今宵、瞳に映るのはギイだけ………。 他には何もいらない………。 久しぶりに「ウエストサイドストーリー」の曲を聴いて、浮かんだ話です。 野沢君が書いているメドレーは、実際ブラスバンド用に市販されています。 (⇒YouTube 同じ楽譜の動画です) はい。昔私も民間の鼓笛隊で弾きました(トロンボーン) また、そこで編曲担当していたので、野沢君の苦しみ(笑)は、重々承知しております。 あの時、託生くんみたいな人がいたら、楽だったのになぁ………。 (2002.9.4) |