めぐる季節の向こう側(2011.3)

 朝の空気が頬を撫で、ぼんやりと意識が浮上した。目を開けて飛び込んできたのは、いつもどおりの見慣れた409号室の古ぼけた天井。
「あぁ、もう、朝か」
 時計を見ようとぐるりと首を捻り、しかし、カーテンの隙間から差し込む強い光に眉を寄せた。日が落ちるのが早く昇るのが遅いこの季節に、こんなに明るいんじゃ一体今何時なんだ?
 章三、起こしやがれ。あの薄情者。
 相棒の無慈悲な仕打ちに、どんな報復をしてやろうかと考えながら、空のはずの隣のベッドに目をやると、こんもりと丸まった塊に目を見張る。
「はぁ?章三まで寝坊してるのか?」
 慌てて枕元の時計を覗き、
「6時半?」
 時計、止まってないだろうな。
 あまりにも不可解な現象に、机の上にあるはずの腕時計を見ようと立ち上がったオレの背後から、
「う………ん………」
 衣擦れの音に紛れて聞き慣れない微かな声がし、オレの頭も体も液体窒素をぶっかけられたように凍りついた。ギギギと、まるでロボットのようにぎこちなく振り返り、隣のベッドで眠っている人物に目を向けると、シーツの先から黒髪が少しはみ出しパッと見には誰だかわからない状態ではあったものの、オレにはわかった。この人物の声なら、どんなに小さくても拾える自信がある。
 壁側を向いて寝ている顔を、気配を消して覗きこみ息を飲んだ。
「葉………山…………」
 そんなバカな。どうして葉山が章三のベッドに寝ているんだ?!
 手負いの獣のように、いつも真正面から睨みつける瞳は閉じられ、小さな口唇が微かに開き、ほんの少し赤みが差した頬は絹のようにすべらかだ。
 なんて、綺麗なんだろう。天使みたいだ………。
 初めて見た葉山の寝顔から目が離せない。
 でも、これは、夢に違いない。
 昨日の葉山は、助けに入ったつもりのオレを、そこに存在していない人間のように見なし、視線はおろか一言も言葉を発せずに行ってしまった。
 思い出して、またどっぷり落ち込む。視界にさえ入れてもらえない自分が情けなくて。
 それでも、葉山に恋する自分を止める事ができない。ごめんな。葉山に必要のない人間なのに、諦めることができなくて。
 すやすやと安らかな寝息を立てる葉山を、このまま寝かせてやりたい。これが夢であっても、そこが章三のベッドであろうとも、葉山にとって安らぎの空間となるのであれば。
 そう結論付けようとした耳に、
「んん………ギイ?」
 葉山の寝ぼけたような甘えたような、この1年聞いた事がない親しげにオレを呼ぶ声に、心臓が飛び上がらんくらい驚いた。
 ギイ………ギイと呼んだのか?!
 葉山はコロリと寝返りを打ち、目元を手でこすってパチパチと瞬きをした。そして固まったまま身動き一つできないオレの顔を見つけると、
「おはよう、ギイ」
 無防備とも無邪気とも形容できる可愛らしい表情で、にっこりと笑った。
「あ………あぁ、おはよう」
 条件反射のように朝の挨拶を交わしたのだが、オレの心は感動でいっぱいだった。
 オレを見て、葉山が笑った。いや、笑ってくれた。
 これが今すぐ覚める夢だとしても、オレはこの笑顔を見れた事だけで十分だ。
 そう思っていたのに。
 葉山は起き上がると両手を上げて欠伸をし、ベッドの脇に立ったままのオレをキョトンと見て、
「ギイ、どうしたの?」
 小首を傾げた。
 鼻血が出そうなくらい可愛い!
 こんなに出血大サービスの夢を見て、現実とのギャップに耐えられるのか、オレ?!
「いや、なんでも」
 ぽっかりと見惚れてしまい、間抜けな返答をしたオレに、
「変な、ギイ」
 まっとうな答えを口にし、
「先に洗面所使うね」
 そう言いながら、呆然としているオレの横を通り、葉山は欠伸をかみ殺しながらドアを開け入っていった。続けて聞こえてきた水音に、止まっていた思考が動き始める。
 オレの目の前を通り抜けるときに触れた葉山の腕。
 夢………じゃないのか?
 ふらふらと部屋の奥に行き、机の上に乗っている教科書を見て愕然とした。
「オレ、二年なのか?!」
 卓上カレンダーは6月。
 半年先の未来に飛んだ………なんて、現実的に考えてありえない。それなら、オレの記憶がすっぽりと半年ほど抜けたと考えるほうが妥当だ。
「でも、そんな事が本当に?」
 ルームメイトが章三じゃなく葉山なのはわかった。葉山が「ギイ」と呼ぶのも、ルームメイトになって3ヶ月経った今なら、十分考えられる。
 しかし。
「オレ、葉山の事、なんて呼んでたんだ?」
 もしも………もしもルームメイトになれたのならば、『託生』と呼びたいと思っていた。葉山がオレの事を「ギイ」と呼ぶように、3ヶ月も経っていれば『託生』と呼んでいたのかもしれない。
 オレの都合のいい、妄想かもしれないが。
「ギイ、洗面所空いたよ」
「あ………あぁ」
 すっきりとした葉山が顔を覗かせ、オレを見て顔を曇らせた。
「もしかして、気分悪い?熱でもある?」
 そう言いながら、葉山はオレの額に手をあて熱を測った。
 ちょ………ちょっと待て。人間接触嫌悪症は?!こんなに接近して大丈夫なのか?!
 葉山は「うーん」と小首を傾げ、
「熱はなさそうだね」
 それでも心配そうに、オレを見上げる。
 熱はないはずなのに、想い人のこんな急接近にどんどん上がってきそうだ。
「あ、あのな」
「うん?」
「今日は、何日だった?」
「……………」
 葉山の視線が痛い。6月なのはわかってはいるが、生憎日にちまではわからないんだよ。
「今日は、6月23日、月曜日だよ」
「あ、そうか、そうだな」
 葉山の訝しげな視線から逃れるように「オレも顔洗ってくる」と洗面所に逃げ込み、鏡に写した自分が少しだけ成長しているのを目の当たりにし、
「夢じゃないんだな」
 複雑な心境にかられた。
 額にあてられた葉山の少し低い体温が、じんわりと拡大し幸せが心を包み込んでいく。
「葉山と同室なんだ………」
 口に出して潔く実感し自分の幸運に叫びそうになったオレは、外から葉山に呼ばれるまで、熱を冷ますように冷水を顔に叩きつけていた。
 ベタベタになったパジャマの襟元に葉山が呆れた目を向けたのも、オレにとってはただただ幸せな出来事だった。
 葉山が、オレだけを見てくれていたのだから。


「赤池君、ギイが変なんだ」
「こいつが変なのは、いつもの事だろうが」
「おい」
 ごったがえした食堂で章三を見つけ三人で空いた席に座ったとたん、葉山が章三に切々と訴え始めた。普通に話しかけているところを見ると、葉山の嫌悪症はすっかり治っているらしい。それどころか友人も多いように見受けられる。まるで嫌悪症なんてものは、初めから存在しなかったかのように、周囲の人間もごく普通に話しかけ葉山もそれに受け答えしていた。
 あれだけ頑なに閉じこもっていた心を、どうやって解き放ったんだ。
「朝から『今日は何日だった?』って、真面目な顔して聞くんだよ」
「とうとう頭が錆びてきたんじゃないのか?」
「お前らな」
 観察していたオレを置いて、無責任に話を進めている二人に抗議するものの、
「洗面所に入ったら全然出てこないし。早く起きたのにギリギリの時間だよ」
 葉山の苦情に、言葉が詰まる。
 それは、悪かったって。こんなに混んだ時間帯、葉山が好むわけがない。
「それより、葉山、人参残ってるぞ」
 章三の指摘に葉山は決まり悪そうに顎を引き、助けを求めるようにオレを上目遣いに見た。
 うわ、なんだ、この可愛い生き物は!
「オ………オレが食べてやろうか?」
「ギイ、甘やかすな」
 思わず口から滑り出た申し出に 間髪入れず章三がクレームをつける。
 うるさいぞ、章三。葉山の願いなら、なんでも聞いてやりたいんだ。
 ピシャリと言われ葉山は恨めしそうに章三を見、渋々小鉢を引き寄せ細切りにした人参一本を箸で摘んだ。………一本だけなのか?
 緑黄色野菜が苦手な事はもちろん知ってはいるが、これは章三が黙っていないだろうな。
「食べ終わるのに何分かけるつもりだ?」
 案の定、突っ込んできた章三の言葉に、葉山はムッとした表情のまま小鉢の中身の半分を口に突っ込み、一気に水で流し込んだ。
 葉山、喉を詰めるぞ。
 ハラハラとしたオレの気持ちも知らず、残りの半分も水で流し込んで、
「食べた!」
「自慢にもならん」
 章三に報告する様は、まるで保護者と子供のようだ。
 涙目になって尖らせた口唇が、摘みたくなるくらい可愛い。
「どうした、ギイ?」
「いや、なんでもない」
 緩みそうになった口元を隠し味噌汁をぐいっと飲み干そうとして、喉にわかめが引っかかって勢いよくむせた。
「ね、ギイ、変だろ?」
 でも、葉山。そろそろ「変だ」と連呼するの止めてくれないか。恋する男は、かっこいい所を見せたいものなんだ。


 一日の授業を終え、葉山は「図書当番だから」と早々に教室を後にし、オレは章三に誘われ校舎の屋上に来ていた。
 雪だらけの祠堂が、一夜にして初夏の日差しになっているのは、やはり不思議な光景だ。
 缶コーヒーのプルトップを開け、一口飲むのを待っていたかのように、
「ギイ、もしかして、お前、記憶がおかしいんじゃないか?」
 章三が、あっけらかんと疑問を口にした。
 さすが相棒。オレの今日の言動から、きっちり答えを導き出していやがる。
「そ。どうも半年分なくなっているらしい」
「なにか拾い食いでもしたか?」
「知るかよ」
 例え拾い食いしてたって、昨日の事など記憶にない。
「ま、それも、そうか」
 章三はあっさりと納得し現実を受け入れた。
 相変わらず、適応能力抜群だな。
「半年と言うと、今年の1月あたりで止まっているのか」
「たぶんな。隣で寝ているの章三だと思っていたし」
 あれには、驚いた。葉山の寝顔が、あんなに可愛いとは。
 思い出して顔がにやけそうになり、慌ててポーカーフェイスを被りなおす。章三相手と言えども、こいつにはまだオレの気持ちを気付かれていないのだから。
「それでか」
「なにが?」
「今日一度も、葉山の名前呼ばなかったからな」
「それだ!オレ、葉山の事、なんて呼んでたんだ?」
 章三なら、知ってるよな。
「『託生』だよ」
「託生………」
 託生………たくみ………オレ、そう呼んでいたのか。そう呼ぶ事を許してもらっていたんだな。
 当たり前のように「託生」と呼んでいた片倉に、どれだけ嫉妬心を燃やしたか。オレもいつか「託生」と呼びたいと、ずっと心の底で願っていた。
 記憶にないけれど、この3ヶ月オレ頑張ったんだな。
 感動に浸っていると、
「全部忘れているのか?」
 確認の為か、章三が問いかけた。
 オレのフォローに回るにも、程度のほどを知らなければ動きづらいという所だろう。
「授業についていけるところを見ると知識は覚えているようだが」
「友人関係も、以前とは変わらんしな」
 オレの事だ。たった半年くらいじゃ、変わらないだろうな。
「違うのは、葉山の事だけか」
 溜息交じりに言われた言葉にドキリとする。
 ルームメイト、だよな。まさか、オレの片思いに託生が気づいているわけがない。あれだけ嫌われていたんだ。それを、たった3ヶ月で普通に接してくれている事自体、奇跡みたいなもんだ。
「葉山には言わないのか?」
「記憶がない事を?このままでいい。余計な心配はかけさせたくない」
 あの笑顔を曇らせたくはない。
「僕は言った方がいいと思うが?」
「大丈夫だ」
 そのくらいなんとかしてやる。
「それで、託生の嫌悪症はいつ治ったんだ」
 早速葉山から託生に呼び方を変えたオレに呆れた目を向けたものの、
「二年になってから、随分ましにはなっていたんだけどな。完治したのはちょうど2週間前だと思う」
 章三は正確な情報を教えてくれた。
「2週間前………」
 まだ、治ってからそんなに経っていなかったのか。
 それなら、なおさらの事、オレの記憶がない事を知られないほうがいい。普通に話ができる状態であっても、やはり今までとは違う環境では疲れてしまうだろう。余計な心労をかけさせたくはない。
 そんなオレを、物言いたげに章三が見ていた事に、オレは気づかなかった。


「託生、だよな。託生。託生」
 名前を噛み締めながら人気のない廊下を歩き、図書室の前で立ち止まった。
 想い人の名前を遠慮なく呼べる日が来るなんて、なんて幸せなんだ。
「託生」
 閉館間際の図書室のドアから顔を覗かせると、図書カードを整理していた託生が顔を上げた。
「ギイ、どうしたの?」
 ふわりと微笑んだ優しい表情に、思わずオレの顔も緩む。締まりのない顔をしているのだろうが、託生を前にするとどうしようもない。
「迎えに来た」
 言いながらカウンターの中に入り、託生の隣に置いてあった丸椅子に座ると、
「あ、もしかして、お腹空いたとか?」
 手にした図書カードを揃えて、所定の位置に戻しながら託生が聞く。
 ………どう思われてたんだよ、記憶にないオレ。
 少しがっくりしながらも、それもジョークに紛らわせ、
「実は、そう」
 空腹を訴えるように腹を撫でると、クスクス笑いながら、
「戸締りしてくるよ。待ってて」
 託生は図書室の奥に消えた。
 ずっと望んでいた託生の声も笑顔も、こんなに惜しげもなく見れる日が来るなんて。
 寮への帰り道、当たり前のように託生の隣で歩ける事に感動しつつ、オレは記憶にないオレに嫉妬した。
 努力をした結果なのだろうが、記憶にないオレはなんて幸せな日々を送っていたんだ。


 あれから五日。
 元々優秀な頭脳のおかげで、周囲に感づかれず溶け込むのも簡単なことだった。
 しかし。
「だから、言っただろうが。葉山には言ったほうがいいって」
「でもな」
 託生に心配させたくなかったんだ。
 オレに笑いかけてくれたんだぞ。あの笑顔をずっと見ていたいと思ったんだ。だから、ルームメイトとして、託生の負担にならないように心を配っていたつもりが、日に日に託生の機嫌が悪くなり、ついには平手打ちされて逃げ出されてしまった。
「もう、ぼくに構うな!」
 一年の頃、何度言われた台詞だろう。
 殴られて呆然としていたオレを寮の屋上に連れて行き、「それ、見たことか」とここぞとばかりに小言を言う章三に反論する気力もない。オレの対応のどれが原因だったのだろう。己の言動をスライドショーのように思い出すものの、引っかかるものはなかった。
 ズンと落ち込んだオレに大きな溜息を吐き、
「今のお前らの方が、風紀委員として取り締まらなくてもいいのは楽だがな」
 言い聞かせるように放った章三の言葉に、固まった。
 風紀に引っかかるような行為を、オレ達はしていたのか?オレじゃなく、オレ達?
「どういう意味だ、章三?」
「そのままの意味だよ」
 僕のポリシーを曲げて、見逃してやっているのに。
 苦々しげに続けられた言葉を最後まで聞かず、オレは階段に続くドアを開け全速力で駆け下りた。
 章三の言葉から察すると、オレと託生は恋人だということじゃないか。
 同室で恋人。肌を重ねる仲なのかどうかはわからないが、この一週間のオレは自分の恋心を悟られぬように、友人としての距離感を保っていたのだ。オレの対応全て、託生が不安になって当たり前のものじゃないか。
「託生!」
 305号室に飛び込んだオレの目に入ったのは、こちらに顔を向ける事もなく黙々と机に向かっている託生の姿だった。
「託生………」
 肩に置いた手をはたき落とし、オレの反対に視線を向ける。
「託生!」
 託生の両肩に手をやり無理矢理体をこちらに向け、
「ごめん、託生」
 心から謝ると、キッと託生が睨みつけた。その目は赤く充血し、どれだけオレが託生を傷つけていたのか思い知らされるものだった。
「もう、いいよ」
 震えを抑えた硬い声。
「本気に取ったぼくがバカだったんだ。ぼくの事は気にしなくていいから、ギイはギイの好きなようにすればいい」
「オレが悪かった!話を聞いてくれ!」
「だから、もうぼくの事は気にしなくていいんだってば!」
 オレから顔を隠すように俯いたとたん、膝の上にポツリポツリ水滴が落ちていく。
 笑顔でいてほしかったのに、泣かせてしまった。
 ごめん。オレの片思いだと思っていたんだ。まさか託生が恋人になってくれているなんて、砂の粒ほども考え付かなかった。
 その場にひざまずいて、膝の上に置かれた拳を掌で包み、
「記憶がないんだ」
 正直に託生に伝えた。恋人に隠し事をするなんて、許されない事だもんな。
「え?」
 俯いていた託生が顔を上げ、まじまじとオレを見た。
 キスしそうなくらいの至近距離に心臓がドキリとなったが、今はそれどころじゃない。
「記憶がない?」
「半年ほど」
「………どうして、言ってくれなかったんだよ!」
 ポカンとした託生が「半年」と口の中で何度か繰り返しようやく理解したのか、最大級の怒りを爆発させた。
「ごめん」
 言えなかったんだよ。あまりに驚いて。託生が笑いかけてくれて、それだけで胸がいっぱいになって。
 そして、ずっと、笑っていてほしかったんだ。
 大きな溜息を吐いた拍子に零れた涙を見て、オレは慌てて上着のポケットからハンカチを出し託生の顔にあてた。
 素直にハンカチに手を添え涙を拭いた託生は、
「じゃあ、今ここにいるのは、半年前のギイ?」
 素朴な疑問を口にする。
「そ………うなるかな」
 過去から未来に飛んできたつもりはないが、そう言われればそうかもしれない。
「それなら、仕方ないね」
 呟かれた言葉に、冷水をぶっかけられたように熱が冷めていく。
 章三の言葉どおり、託生とオレは恋人だったのだろう。けれども、それはオレであって、オレじゃない。この3ヶ月、託生の側で努力した記憶にないオレだ。半年前のオレなんて、視界にも入れてもらえなかったのだから。
「ギイ?」
「ごめんな。早く思い出すように努力するから」
 だから、嫌わないでくれ。笑ってくれなくてもいいから、オレを拒絶しないでくれ。祈るように願ったその時。
「そうだよね。記憶がないのギイ大変だよね」
「え?」
 託生は椅子に座ったまま上半身を屈めてオレの頭を抱き締め、「よしよし」とまるで子供を慰めるように撫でた。
「た………託生………」
「ん?」
 鼻先から漂う託生の甘い匂いが。オレの髪を梳く優しい手の動きが。都合のいい空想を思い浮かべてしまいそうで恐ろしくなった。
「オ………オレの事、イヤじゃないのか?」
「どうして?」
 頭から降る心底わけがわからないという声色に、
「半年前、託生はオレを嫌ってたんじゃないのか?」
 聞きたくない現実を問いながら、またもや地の果てまで落ち込んだ。
 わかってはいるけれども、これから託生に恋人として認められるようにがんばるから。
 オレの言葉に、託生は考え込むように撫でていた手を止め、
「………そんなことないよ」
 ポツリと言った。
「え?」
「ギイを嫌った事なんて一度もないよ」
 ………これは都合のいい空耳か?
「わっ、ギイ?!」
 ガバッと体を起こして託生の両腕を掴み、
「本当に?!」
「…………うん」
 噛みつくように問うと、頬を赤く染めた託生がこっくりと頷いた。
「ギ………ギイ?」
「力が抜けた………」
 その場に胡坐をかいて座りこんだオレに、「ごめんね」と慌てる託生に力なく片手で制する。嫌われていなかったとわかっただけで十分だ。
 しかし。
「必ず記憶は取り戻す」
 これだけは約束する。
 この3ヶ月の間に、二人にとってとても大切な何かがあったのは、今の託生を見れば明白だから。
「絶対に」
 二度と託生を泣かせたりはしない。
 キョトンとオレを見つめている託生の頬に手をやり、
「託生、待っててくれ」
「うん」
 オレの言葉に何の疑いもなく素直に頷く託生が愛おしくて、今のオレには権利などないのは承知しているがどうしても言いたくて、
「愛してるよ、託生」
 初めてオレの気持ちを告白すると、託生はオレが見た中で最高の笑顔を見せてくれた。


 あれ、オレ、昨日託生のベッドに泊まったか?
 にしては、二人ともパジャマを着ているのは何故だ?何もせずに、そのまま寝ちまったのか?
 枕元の時計を見ると6時半。そろそろ託生を起こすか。
「託生、起きろよ」
「んー、もう少し………」
「託生、今日は月曜日だぞ。起きろ」
 もぞもぞと動いていた託生がピタと動きを止め、「ギイ?!」驚いたように飛び起きた。
「どうした?」
「ギイ、記憶は?!」
「記憶?」
 なんだ、それ?
「今日は何日?」
「なに言ってるんだよ。6月23日だろ?」
 そう言うと、託生はポスンと枕に頭をつっぷつし、
「ギイ、今日は6月29日、日曜日だよ」
 ボソボソとこもった声で、力なく答えた。
「ようするに、半年間の記憶がなかったわけだ」
「そう言ってたよ」
 昨日のギイ。
 オレの記憶の中でぶっ飛んだ一週間の話を託生から聞き、改めて自分がどういう状態だったのか認識したのだが、オレの事なのに第三者の話のような気がする。しかしこの一週間の記憶がオレにはないのだから、事実なのだろう。
「でも、どうして急に記憶なんか、なくなったんだろうね」
「さぁ?」
 と答えつつ、ふとある事を思い出した。
 名実共に恋人になり、オレは幸せの絶頂期の真っ只中にいた。
 託生に触れ、託生の声を聞き、託生の笑顔を見れる、生きてきた中で一番幸せな日々を現在送っている。
 それを、極寒の先が見えない吹雪の中にいただろう昔のオレに、伝えたいと思っていた。暖かな春の日差しに似た季節はもうすぐだと。
 託生に拒絶されて、オレらしくもなく消えてしまいたくなったこともあったんだ。それでも、がんばれば、こんなに幸せな日々が待っているんだと、伝える術はないけれど教えたくなった。
 その願望が、今回の事態を引き起こしたのかもしれない。
「でも、よかった。記憶が戻って」
 にっこり笑った託生の口唇にそっとキスをした。昔のオレと今のオレの想いを込めて。
「愛してるよ、託生」
 最高の笑顔を見せてくれた恋人に。
 オレの想いを込めて、深く口唇を重ねた。



二年のギイ………と言いつつ、一年のギイでありました。
ツイッターでは「ナニのギイだけど、違うギイ」と言ってましたが(笑)
ふと一年のギイと今の託生くんが絡んでる(エッチな意味ではなく;)のが思い浮かびまして、ぽつぽつと書いていたのですが、なにしろアラサーばっかり書いていたので、どうにも違和感が拭えませんでした。
高2そのものも久しぶりですし;
暇つぶしくらいなったらいいなぁと言う事で(笑)
(2011.3.2)
 
PAGE TOP ▲