託生くん、お引越し
なにがなにやらわからない状態で、とにかく必死に秘書という仕事をこなし、へとへとに疲れた一日目。
「明日が休みでよかった……」 それでも家で覚える事は山積みだけど、時間に追われた体を休ませるには充分で。 会社からワンルームのマンションまで一時間半。 大学の時から住んでいるマンションで、本当は会社の近場に引っ越してもよかったのだけれど、不精者のぼくには引越し先を探すのも面倒で、そのままずるずるとこのマンションに居座っていた。 いつの間にかうとうとと居眠りをして、最寄駅の名前がスピーカーから聞こえ飛び起き、近所のコンビニで朝食代わりのパンを購入して、マンションのオートロックを開ける。 いつもと同じような光景に、やっと家に帰ってきたと安堵の溜息を吐き、人気のない廊下を歩いて部屋の鍵穴に鍵を差し込んだ。 真っ暗な室内はいつもの事。 靴を脱ぎ、手探りに照明のスイッチに手を伸ばし………。 「は?」 鞄とコンビニの袋が手から滑り落ちた。 目の前の光景が信じられず思わず後ろを振り向き、もう一度前に向き直る。 「ない……」 目の前には何もなかったのだ。 朝、その辺りに放り投げたパジャマはもちろん、箪笥もカーテンもテレビもそれこそ鍋の一つさえ、言葉通り空っぽ。 「なに、これ………?」 へなへなとその場に座りこんでしまったぼくを、非難する人間はいないだろう。 「誰が、こんな……」 いや、わかっている。こんな事をする人間はただ一人。 「あのやろー」 握り締めた拳を床にたたきつけた。 ピンポーン。 のろのろと顔を上げ、返事もせずに玄関のドアを開けた。 「葉山様、お迎えに参りました」 仕立てのいいスーツを着こなしたこの初老の男性がどこの誰だかわからないけれど、十中八九、いや、百パーセント崎家の人間なのだろう。 「……ぼくの荷物はどこに?」 「義一様のマンションにございます」 ほらね。 「全て新しいお部屋の方に運ばせていただき、荷解きも完了しております。葉山様のお手を煩わせるようなことはございません」 それはそれは、ありがたいことで……なわけないだろ! あのヤローと四六時中一緒にいろって?!そんなの、ただの拷問じゃないか! にこにことぼくを促すこの人に怒っても、たぶんどうしようもない。あのヤローの指示で動いただけなのだから。 「どうぞ、こちらへ」 歩いてきたばかりの廊下を引き返し一階まで降りると、先ほどまではなかったリムジンがマンションの前に止まっていた。 運転手が愛想良く扉を開け、促されるまま座席に座る。 「こんな我侭、通ると思うなよ」 このリムジンに似つかわしくないコンビニ袋が、真っ黒なレザーシートの上に浮かんでいた。 「よ。お帰……ぐっ!」 「我侭もいい加減にしろ!」 勝手に自分の荷物を運び出され、勝手に同居が決まっているなんて、おふざけにも程がある。 「お前、何かあった時、あんな所にいたら至急来いと言っても来れないだろうが」 ゲホゲホと咳き込んだもののすぐに立ち直り、副社長が悠々と腕を組みニヤリと笑った。 「それならそれで言ってくれたら、自分で探すよ!」 「それが面倒で、祠堂卒業後からずっと住み続けていたんだろうが」 ぐぅの声も出ない。 っていうか、なんで、そんな事、知ってるんだ?! 落ち着け、葉山託生。この天下無敵の我侭男に引きずり込まれるな。 「それなら今からでも探します。ぼくの荷物はどこですか?」 「それは、ダメ」 あのね。 「お前、どうして島岡がオレについていないのか、考えなかったのか?」 そう言えば。 普通に考えたら、そのまま島岡さんがつくはずなのに、どうして来ていないのだろう。 ハテナマークを浮かべたぼくに、 「妻帯者だから」 わかるようでわからない言い訳をした。 「はぁ?」 なんだ、その理由は? 「ほんのわずかなタイムラグで、仕事にさしさわったことがあったんだよ。だから、同居できる独身の男が一番都合がいい」 はっきり、きっぱり言い切る副社長に、うっかり納得させられそうになり、慌てて考え直す。 秘書って、皆同居してるのか?そんなの聞いた事がないぞ。 首を捻ったぼくに、 「どっちにしても、あそこはもう、戻れないからな」 ニヤリと笑って副社長が言う。 「なぜですか?」 「明日、あのマンション解体するから」 「はぁ?!ちょ…他の住んでる人……」 「あぁ。引越し先斡旋して、もちろん引越し資金も迷惑料も払って、出ていってもらった」 ………眩暈がする。 なに、やってんだ、この男は?! (2011.4.21、2011.5.15 小話ついったー+加筆) |