とあるおふぃす界隈の、とあるバーのワンシーン
「いらっしゃいませ」
「こんばんは」 しばらくお見えになっていなかったお客様が顔を出され、私は頬をゆるませた。 仕事が忙しかったのだろうか。確か彼はFグループ日本支社にお勤めのはずだ。 いつものカウンター席に案内し、バーボンの水割りをお出しした。 彼は一口飲んでほぉと溜息を吐き、同時に肩の力を抜かれたようだ。 静かに一人で飲むことを好まれるので邪魔をしないようにそっと側を離れ、洗い上げたグラスをクロスで丁寧に拭いていると、彼から微かな振動音が聞こえた。 携帯のバイブだったようだ。 ディスプレイを確認した彼は眉間に少し皺を寄せたあとボタンを押し、しばらくすると振動音が消えた。 疲れを癒すこの時間を邪魔されたくなかったのだろう。 彼は内ポケットに放り込むように携帯を入れ、またグラスに口をつけた。 そろそろ二杯目を用意しようかと歩きかけたそのとき、チリリンと小さくドアベルが鳴り、 「いらっしゃいま……」 「げっ」 は? 入ってこられた方は、カツカツとカウンターに座られているお客様の元に歩み寄り、 「ロックで。こいつにも、もう一杯。…あぁ、ボトル下ろしておいてくれ。あとは適当にこっちでやるから」 「は……はい」 私を振り返りもせずご注文をなさった。 お客様の前にグラスとミネラルウォーターなどを置き、ちらりと後から入ってこられた男性を盗み見た。 こちらに来られたのは初めてのはずなのに、どこかで見たような気がする。 「逃げるなよ」 「逃げてません!……ってか、なんで、ここが」 「オレ、鼻が利くんだよな」 「……犬ですか?」 「お前、携帯の電源落とすな。緊急連絡だったらどうする?」 「……今のは緊急連絡だったのでしょうか?」 「いや、全然」 ガックリと肩を落とした彼のグラスに、 「ほら、乾杯」 と、勝手にカチリとグラスをぶつけ、美味しそうに喉を潤わせる。 その様子を横目で見て諦めたように溜息を吐き、彼はグラスに口をつけた。 彼の口調から察すると、あとから入ってきた方は彼の上司だろうか。それにしては、かなり馴れ馴れしい。 「託生が水割りを飲んでいるところを見るの、十年…いや十一年ぶりかな」 「………いつの話ですか」 あぁ、今はともかく昔馴染みなのか、学生時代の。 「あ、いらっしゃいませ」 ボソボソと続く話し声が気になりつつも、新しく入ってこられたお客様をにこやかにお迎えした。 一時間ほどが経ち、ふとお二人を見ると、新しく下ろしたボトルが半分以上なくなっているのに気付いた。 上司の方の顔色は変わらないが、いつものお客様は目が据わっている。普段と違いピッチが早いようだ。 「今日だって、あの社長令嬢に言い寄られてたくせに」 「なんだ、妬いたのか?」 「妬いてない!」 「はいはい」 お客様の口調が、どんどん砕けている。というか絡んでいる。このような彼を見るのは珍しい。それ以前に、彼はいつもお一人で呑んでおられるのだから。 「なんで放っておいてくれないんだよ!」 「託生を諦められるわけないだろ?」 うん? 「諦めろよ」 「なんでだよ。託生を愛してるのに」 ……なんですと? 「諦めたほうが楽だよ……ギイ……」 「わかってんだろ?オレは、ジ・エンドにはしたくないんだ」 上司がお客様の肩を抱き寄せ、引き寄せられるままコテンと体を預け目を閉じた。 ……今のは私の空耳だったのだろうか。 上司の方がカウンターに数枚の札を置き、お客様を横抱きにして席を立つ。 「あの……!」 「次はスコッチを頼む」 一言言い置いて、お二人はドアの向こうに消えた。その横顔に、経済紙の一ページを思い出した。 Fグループ次期総帥の崎義一! 並外れたIQと世界経済をひっくり返すくらいの手腕と資本力。こんな小さなバーに来るような人物じゃないのは、確認しなくてもわかる。 数え切れないほどの人生劇場を見てきたつもりだが、まだまだ私は甘かったようだ。 「スコッチウィスキーは、なにがお好みだろうか。バランタイン、オールド・パー……あぁ、まろやかなグレンモーレンジも用意しておくか」 あの二人は必ずお見えになるだろう。 いつも愁いを秘め下向き加減に呑まれていたお客様が、まっすぐに見詰めていた人物。 私には詳細はわからないが、あのお二人の心は繋がっていると感じるから。 あの二つの席は「RESERVED」のプレートを置いておこう。 (2012.4.30 Blog) |