とあるおふぃす界隈の、とあるバーのワンシーンの翌朝
懐かしい匂いがする。温かい何かに包まれ、まるで母親の胎内のように安心できる空間。いつまでもここで眠り続けていたいのだけど、徐々に意識が浮上してきて、うっすらと目を開けてみた。
………壁? 左手を振る。見えない。 ぼくの左手はぼくの前方にあるようだ。しかし壁の向こうにあるらしい。 「託生……くすぐったい……」 壁が振動して寝ぼけたような声が聞こえた。 まさか………。 ギギギと上方を向くと、鼻の先に柔らかな口唇の感触。 「う………わぁぁぁぁぁぁぁ!!」 「た……くみぃ。朝からうるさい……」 飛びのこうとしたけれど、壁に挟まれた左腕が抜けない。 って、ぼく服を着てない!し…下着は……あ、穿いてた。じゃなくて! 「えええぇぇぇ?!」 「たーくーみーーー」 「ご……ごめん!………っ」 一人で騒いで、うろたえて、慌てて起き上がろうとしたら、金槌で頭を殴られたかのような頭痛が走って、副社長の腕に後頭部から激突した。 「お前が言ったんだろうが。絶対部屋に入るなって」 同居の条件の二つ。プライベートには口を出さない。部屋の中には入らない。 無理矢理マンションの荷物を運ばれて同居させられたからには、こっちの言い分は聞いてもらわないと!と出した条件を、副社長はきっちりと守っていた。 「仕方ないからオレのベッドに寝かせようとして……ベッドがあるのは、ここと託生の部屋だけだからな。寝にくいだろうから上着と靴下を脱がせてネクタイを外したところで、お前が『暑い!』と起きたんだ」 「じゃ、そのときに自分の部屋に帰れと……」 「言った言った。でも『帰るのイヤだ』ってその場で脱ぎだして、ベッドに自分から潜りこんだから……」 「すみません!ぼく、自分の部屋に帰ります」 と、立ち上がろうと足に力を入れたのに、クラリと視界がゆれた。 「いったぁ………」 「あれだけ呑んだんだから、起き上がれるわけないだろ」 副社長の呆れた声に、ガンガンする頭をなんとか働かせて記憶を手繰り寄せる。 えっと、昨晩は……あ、久しぶりにバーに行って水割りを呑んでたら、副社長が追ってきて二人で呑んで……あれ?どうやって帰ってきたんだろう?途中から記憶がない。 「頭痛が治まるまで、ここで……お前、熱があるんじゃないか?」 ベッドに倒れこんだぼくに、副社長がシーツをかぶせようとして手を止めた。 「熱?」 慌ててぼくの額に自分の額を当て、突然のドアップに固まったぼくに気付かず、 「体温計持ってくるから、待ってろ」 副社長はガウンを羽織り、部屋を出て行った。 「38度ぴったり」 ………あぁ、どうして体温計を見たら、一気に熱が上がった気になるんだろう。さっきまで起き上がれそうだったのに、急に体から力が抜けた。 「疲れが出たんだろ。今日は休みだしゆっくり寝ろ」 と言われても。 このベッドは困る。さっきから頭痛だけじゃなく、胸が締め付けられるような痛みを感じてるんだ。 懐かしさと安心感、そして泣きたくなるくらいの切なさ。 これは、きっとシーツから立ち上るコロンの移り香のせいだ。 「あの………」 「うん?」 「やっぱり自分の部屋に戻ります」 「……なにかあったときに、動けないだろう?同じ家の中にいて、気付けば意識不明の重体なんてオレの方が困る」 それは、そうだけど……。 「とりあえず消化しやすいものを持ってくるから、それまで横になってろ」 ぼくの返事も聞かず、副社長は言い置いて、もう一度ドアの向こうに消えた。 雪が降っている。音もなく降り続く雪の中、二人分の足跡が目に入った。いったい、どこまで続いているのか。 足跡を追って進んでいくと、ぽっかりと開いた空間が現れた。ここは……あぁ、音楽堂の跡地か。 その真ん中に、ぼくとギイがいた。 雪、音楽堂、ギイ。 10年前の記憶がよみがえる。ギイに別れを告げた日の出来事が、走馬灯のように脳裏を流れていく。 好きだった。愛していた。でも、ギイの未来を壊したくなかった。 ぼくの横を過去のぼくが走り抜けていく。 「……くみ……」 あのときギイは……。 「託生!」 「あ……」 見慣れない天井。懐かしい香り。そして心配そうな顔をした………。 「どうした?嫌な夢でも見たか?」 「ギ……副社長………」 目尻を指の先でなぞられ、自分が泣いていたことを知った。 そうだ。あれから10年が経って、今は上司と部下だったんだ。自分の気持ちを隠し、彼がいつか名実ともにFグループを継ぎ、そして、誰かと結婚することを待っている。 「泣くなよ。泣かれると、どうしていいかわからなくなる」 それなのに、ぼくの頬を包みこんだ暖かい温もりに、手を重ねたくなる。近づく口唇に目を閉じてしまう。 ぼくは彼の体を抱きしめてしまわないよう、固くシーツを握り締めることしかできなかった。 |