雨の夜と風の囁き-1-

 ポツリポツリと頬に落ちた雨粒が、どしゃぶりに変化するのは一瞬だった。
 すぐ側にあった大きな木の下に避難し、分厚い雲に覆われた空を恨みがましく見上げる。
「お腹は空いてるし、雨は降ってくるし、サイアク」
 久しぶりに目覚め、空腹を訴える腹を宥めつつ外に出たとたん、これだ。
 しかし、月がないのは好都合。こんな暗闇で、しかもこれだけの雨が降っていれば、出歩く人間なんて皆無だろう。仮にいたとしても、それこそその場で鮮血を頂戴するだけだ。ま、ぼくにも好みがあるけどね。
「さて、どっちに行こうかな」
 そろそろ人里近くまで降りてきたはず。
 一つの場所に留まるのは危険だから転々と住処を移し、この地に来たのはつい最近のことだ。寝床となる場所を見つけ、そのまま寝てしまったから、ここがどこでどんな土地なのか全く知らない。
 もしも面倒なことが起これば、また別の地に行けばいいだけだ。ぼくは一人なのだから。………兄さんが消え、一人になってしまったぼくは、そうして自分を守ってきたのだから。
 生まれたときから吸血鬼だったのか否か、ぼくには記憶がない。気付けば側に兄さんがいて、二人でこのような生活をしていた。
 でも、兄さんの体は生きていく力がなかった。永遠を生きる吸血鬼なのに、なぜそうだったのか、ぼくには知る由もない。
 人目を避けながら彷徨うぼくたちの旅は、確実に兄さんの体をむしばみ、ある日突然兄さんは灰になった。そして風にさらわれてぼくの前から跡形もなく消えてしまったのだ。ついさっきまで隣にいて優しい笑顔を見せていたのに、まるで元からぼくは一人だったかのように空気に溶けてしまった。
 そのときの光景を思い出したとたん、忘れた振りをしていた孤独感が重くのしかかる。ぼくは独りなのだと……一人で永遠を生きていくしかないのだと思い知らされる。
「普通の人間だったらよかったのかな」
 闇に隠れることなく、皆に恐れられることなく、人間達が住んでいる暖かそうな家の中で誰かと笑いながら毎日を過ごす。そんなありふれた生活というのをしてみたいと思うけど、ぼくにとって夢物語に過ぎない。
 所詮、吸血鬼なのだ。
 「ふぅ」と大きな溜息を吐き、木の幹に寄りかかりながら周囲をぐるりと見回したとき、視界の端に大きな屋敷が見えた。
 とたん、お腹がグーとなる。そういえば、ぼくは空腹だった。あそこなら誰かいるかも。
 この雨の中、村まで降りるのも面倒だしと、その屋敷に向かって歩いていくにつれ、ぼくの足取りが軽くなる。だって、
「美味しそうな匂いがする」
 それも、極上の。
 ゴクリと喉が鳴った。
 初めてかもしれない、こんなにうっとりするような獲物は。
「どこの誰だか知らないけれど、これを見逃す手はないよね」
 誰ともなしに呟いて、美味しそうな匂いが漂う部屋のバルコニーに飛び移った。兄さんのような運動神経はないけれど、身が軽いことだけは助かる。……たまに足を滑らせるけど。
 窓からそっと中を覗くと、ベッドに横たわっている人間が見えた。
「うん、一人でなにより」
 誰かと同衾していると見つかる危険性は上がるし、魔術を使って眠らせるのも疲れるしね。
 ただ想像していた大きさではない。どう見ても男だ。てっきり瑞々しい新鮮な女だと思っていたんだけどな。
 でも、今まで経験したことがない美味しそうな芳香に、迷うことなく窓を開けた。聞こえてくる寝息が深いことに安堵し、気配を消して枕元に歩み寄った。
 うわっ、見たこともないくらい綺麗な男だな。端正な顔立ちはまるで作り物のようにも見える。
 ゆっくりと喉元に顔を寄せると、くらくらするような濃厚な香りが一層際立った。
 ちょっと血を貰うだけだし、お仲間にはしないから安心してね。2、3日、起き上がれなくなるかもしれないけれど許してね。
 ではでは、ありがたくいただきま………す?
「へぇ。今時の吸血鬼って、男が男を襲うんだな」
「……へ?」
 視界がぐるりと回り、気づけばベッドに押さえつけられ、今まで寝ていたはずの男が、ぼくを真上から面白そうに見下ろしていた。
 なんで?人間にぼくの気配がわかるはずないのに!
 闇の中で浮かび上がる男の上半身は、無駄のない筋肉に覆われていた。彫刻のように整った肢体をして一見人形のようにも見えるけれど、興味津々に見詰める目とぼくを抑え込む体温が、血の通った人間なんだと再認識させられる。
「黒いマントじゃないのか」
「そんな、いかにもな恰好なわけないだろ」
 呆れながら答えると「それもそうか」とあっさり納得し、なぜか枕元のスタンドのスイッチを入れた。
 あ、髪も瞳も薄茶色なんだ。この男に、よく似合ってる。
 ぼんやり見ていると、なぜだか心臓がドキドキしてきた。この男の目に映っているぼくの姿が、嬉しいような、嬉しくないような。
 いや、しかし、この状況ヤバくないか?このまま心臓に杭を打たれたら、ぼくは消えてしまう。どうせ一人だから消えても全然構わないけれど、できるならもう少し消えたくはないかな。それに、これだけ美味しそうな匂いの人間は初めてだから、どんな味がするか試してみたいし。
 さて、どうしよう。あまり使いたくはないけど強制的に眠らせて………。
「ふぅん。今、目が赤く光ったけど、何をした?」
「………うそ」
 普通の人間なら一瞬で意識を失うはずなのに、この男はナニモノ?ぼくと同じ側……いや、やっぱり人間の匂いが……ちょっと待てよ。効かないってことは、この状況から逃げられないってことじゃないか?
 たらりと冷汗がこめかみを流れるような気がした。
 自慢じゃないけど、腕力に自信はない。ついでに逃げ足も速くない。そして押さえつけている男の腕はビクとも動きそうにもない。
 ヤバい、ヤバいよ。どうしよう。なにか動かせるものないか?棍棒でもバットでも、この男を昏倒させられるような………うん?
「ん?………んーんーっ!」
 視界が男の顔でいっぱいになったと思ったら、口唇を塞がれて硬直した。スルリと入り込んだ熱い塊が、くすぐるように口内を撫でまわり、その初めての感触について行けず、反応が遅れてしまった。
 もしかして、これは、人間の世界で言うキス?!
「な、なにすんだよ?!」
「あ、もしかして初めてだった?ラッキー」
 なにが、ラッキーだ?!突然すぎて噛みつけなかったのが、とんでもなく悔しい!流れ込んできた唾液が甘くて美味しくて、夢中になりかけたのには自己嫌悪したけど。
「オレを襲うつもりだったんだろ?こうやって……」
「ひゃっ!」
 耳!耳、舐められた!
「ちがっちがうちがうっ!」
「じゃあ、こうか?」
「んっ」
 耳を甘噛みした口唇を首にずらし、かりりと歯を立てる。とたん背中にむず痒いなにかが走り、息が止まった。
 そうだけど、噛みつくつもりだったけど、
「ちょっと、待って!」
「なんだよ?」
 不服そうに顔を上げた男に、ぷるぷると首を横に振る。
「なにか違う」
「なにが?」
「なにがって、なにもかも!」
 本当なら、今頃この男の首に齧りついて新鮮な生き血を飲んでいるはずなのに、なんでぼくが齧られなきゃいけないんだ?
 今まで何度も人間を襲ってきたけれど、悲鳴を上げるわけでもなく、こういう反応をされたのは初めてで、もうパニック状態だ。
「オレを襲うつもりだったんだろ?」
「そうだけど………」
「なら、オレがお前を襲ったって同じじゃないか」
「はぁ?」
 ぼくが男を襲う、イコール、男がぼくを襲う。同じ………だったっけ?
「君がぼくを襲うって、あれ?」
「君じゃない、ギイだ」
「ギイ?」
「そう」
「って、だから!」
 なんでボタンを外されてるんだ?いったい、ギイは、なにをしようとしてるんだ?
 ジタバタと暴れるぼくを物ともせずに、ポイポイと服をベッドの下に投げ捨て、
「名前は?」
 ギイが、ぼくに聞く。
「な、なに?」
「お前の名前」
「た……託生……」
「託生、託生か」
 噛みしめるようにぼくの名前を口で唱え、ギイはもう一度ぼくの口唇を塞いだ。重なった肌の熱さと撫でまわすギイの大きな手に、もうわけがわからなくなる。
「や……ギイっ…………う……んっ!」
 どこ、触ってるんだよぉ?!


 吸血鬼の言うところの「襲う」と人間の言うところの「襲う」とでは、意味合いが全く違うことに気付いたのは、汗に濡れた体をギイの暖かい腕に包み込まれたあと。
 でも、血を飲んでもいないのに、なぜか満足している自分がいた。兄さんがいなくなってから、ぼくを纏っていた孤独感が薄らいでいる。
「疲れただろ?このまま眠れ」
「う……ん………」
 優しい声に頷いたかどうかわからないまま、ぼくは睡魔に身を任せた。
 はじめて味わう安心感と雨の音に包まれながら。
 
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