雨の夜と風の囁き-6-完(2017.9)

 屋敷をあとにし、ぼくはそれまでいた住処に向かった。そのままどこか遠くに行きたかったのだけど、想像以上に疲労していたのだ。
 ギイは魔術が効きにくい。その彼の記憶を消すには、ぼくが持っている力を極限まで使わなくてはならなかった。
 重い体を引きずってなんとか住処に戻ったぼくは、ギイと一緒に寝たベッドの寝心地とは程遠い固いベッドに体を投げ出した。時々、目が覚めたような気がするけれど、体が動かなかった。
 兄さんと同じように灰になり、このまま朽ち果てるのならば、それでいい。ギイと過ごした時を想いながら消えるのもいいかもしれない。
 そう思いながら睡魔に引きずり込まれていった。


 懐かしい匂いがした。この匂いに包まれている時だけは、気を張ることなく安心していいんだと、そう感じていた。
 頬に柔らかなものが触れ目を開けると、見慣れた天井が飛び込んだ。住処にしていた古いログハウスじゃない。ここは……。
「気が付いたか?」
「ギイ………!」
 目覚めたぼくを、ギイの長い腕が抱きしめる。そして、いつもと変わらぬ、おはようのキス。何度も口唇を重ね、ギイの長い指がぼくの髪を愛し気に梳いた。
 その変わらぬ優しさと温もりに、ぼくの頭が混乱する。
 ぼくはギイの記憶を消して、ここを出ていったはず。なのに、どうしてここにいるのか?それとも、あれは全部夢で、ぼくは出ていくことなくここにいたのか?
 狼狽してウロウロと視線が定まらないぼくをクスリと笑い、指先で前髪をかき上げながら、
「記憶は戻った」
 言い聞かせるように、ギイがぼくの目を覗き込む。
 じゃあ、ぼくが、ギイの記憶を消して出ていったのは事実だったんだ。では、何故ぼくはここにいるんだ?
 絶句したぼくを抱き起こし、ギイがぼくの腕をしっかりと握り込む。これでは逃げ出せない。
「どうして出ていったんだ?」
「………」
「託生」
「………ここにいる理由がないじゃないか」
「じゃあ、オレの記憶を消したのは?」
 咎めるような視線に耐えられず、目を伏せた。
 ぼくがここに来てから、ギイはぼくに合わせた生活をしていた。カーテンを閉め切り、太陽の光も見ず、ぼくと一緒に寝て起きて……終いにはぼくの仲間になりたいだなんて、血迷ったようなことまで言いだして、どうしたらいいのかわからなくなったのだ。
 ギイにはぼくの事を忘れて、普通に人間の生活をしてほしかっただけだ。
「仲間にしろとは言わない。それなら、オレの側にいてくれるか?」
「どうして?」
「託生を愛してるから」
 あのとき聞いた同じ言葉を、あのときと同じ切なげな目で、もう一度口にする。
 でも………。
「ぼくがいて、ギイのなにになるの?絶対変に思われるよ。だって、ぼくはこのまま成長しないんだ。ずっと同じ姿なんだ!」
 永遠を生きる吸血鬼。兄さんだって、ずっと同じ姿だった。
「託生、あっちを見てみろ」
「え………?」
 ギイが指差した壁には鏡が……え、なぜ?
「見えるか、自分の姿?」
「どうして………。ぼくは、映らないはず………」
「うん、オレもさっき気づいた。確かに以前は映らなかったんだ」
 初めて見る自分の顔。黒い髪。黒い瞳。隣に彫刻のように綺麗なギイがいるからか、かなり華奢に見える。
 背中からギイが腕を回し、ぼくの指と自分の指を絡ませ鏡に映しだした。
「しっかり映ってるだろ?」
「うん、映ってる……」
 呆然と鏡を見るぼくのこめかみにキスをして、
「とりあえずシャワーを浴びるか。人を待たせているから一緒にな」
「え?」
 言うなりギイはぼくを抱き上げて、バスルームのドアを開けた。


 サロンで待っていたのは、島岡さんという男性だった。ギイよりずいぶん年上に見えるけれど、二人はとても仲が良さそうだ。にこやかに手を差し出されて狼狽する。ギイから吸血鬼だということを聞いているはずなのに、どうしてこの人は普通に接してくれるのだろう。
 ギイに座るよう促され、カフェ・オ・レを手渡されたのを見届け、島岡さんがぼくに一枚の紙を渡した。
「託生さん、この写真は貴方ですね?」
 古いひき逃げ事件のニュースのようだ。被害者は「葉山託生」。写真は、さっき鏡の中にいたぼくよりも少し幼く見える。ぼくは「葉山託生」という名前だったのか。
「これは、ウェブアーカイブという自動的にウェブを収集するサイトから引き出したニュースなんですが、この記事によると、貴方は三年前交通事故に遭い、意識不明の重体で病院に運ばれたことになっています。しかし、この日の新聞の書面は、別の記事に差し替えられていました。また、周辺の病院全てを調べたところ、どこの病院にも運ばれた記録がありません。意図的に誰かが記録を消し、人々の記憶も消した可能性があります。心当たりがありますか?」
 心当たり………。
「兄さん」
「兄貴?」
「ぼくの記憶の中には兄さんしかいないんだ。いつも側にいてくれて、一緒に旅をして……。意図的に誰かが消したと言うのなら、兄さんしかいない。でも、もう確認なんてできないよ。兄さん、消えちゃったから………」
 兄さんが灰になったとき、ぼくは涙さえ出なかった。日に日に弱っていく兄さんを感じ、別れる日を覚悟していたからかもしれない。
 一人残されて悲しくて哀しくて、兄さんのあとを追いたかったけれど、なんとなくそれはしちゃいけないような気がして、今までぼんやりと生きてきた。
「仮説ですが、瀕死の重傷を負った貴方を助けるために、お兄さんはご自分の血を貴方に飲ませたのではないでしょうか。死者でさえ蘇らせることができるんです。人間の命を助けることは簡単だと思います。ただ、周囲の人間全ての記憶を消し、このような記録を消すには、それだけの魔力が必要です。体に相当な負担があったものだと思われます」
 島岡さんの言葉に頷いた。
 だから、兄さんは生きていけなかったんだ。ぼくのために、そこまでしなくてよかったのに。兄さんさえいてくれたら、ぼくはよかったのに。
「それと、託生さんの体は吸血鬼になりきれていないと思われます」
「なりきれてない?」
 それは、どういうことだろう。
 答えを求めるように視線を向けると、ギイがぼくのカップを指差した。
「それ、飲めただろ?」
「カフェ・オ・レのこと?」
「そう。普通は飲食ができないらしいんだ。それに」
 と言葉を切り、ぼくのカップをサイドテーブルに置いた。そして、ぼくの左胸に手を当てる。
「託生には鼓動がある」
「それが、なに?」
「兄貴はどうだった?鼓動はあったか?汗をかいたか?体温はあったか?」
「そういえば……」
 抱きしめてくれる兄さんは、とても安心できたけど冷たかった。ギイに抱きしめられたときのような温もりを、感じなかったような気がする。汗をかいているところを見たことはないし、くっついても鼓動はわからなかった。
「詳しいことはあとで説明するけど、託生の体は吸血鬼と人間の血が混ざってる」
 そんなことがあるのだろうか。
 吸血鬼だとばかり思っていたけど……実際そういう生活しかできなかったけど、ぼくには人間の血が残っている?それなら、永遠に生きていかなくてもいいのだろうか。
 これからも彷徨っていくしかないと諦めていた行く先に終止符があるのならば、生きる意味があるのかもしれない。限りある時間ならば大切にしたいと、初めてぼくは思った。
 でも、何故兄さんは、ぼくの中に人間の血を残したんだろう?
 兄さんがいつから吸血鬼だったのか、ぼくは知らない。もしかしたら、何百年も生きていたのかもしれない。
 そういう人生をぼくに送らせたくなかったから、吸血鬼にしなかった?だから少しでも人間の血を残したかった?
 今はいない兄さんに問いかけても答えは返ってこないけど、きっとそうだ。
「ところで、託生」
 兄さんを思い浮かべ涙が滲みそうになったぼくを、ギイの声が引きもどす。
「なに?」
「島岡とキスできる?」
「「はい?!」」
 急に突拍子もないことをギイが言いだして、島岡さんとぼくの声が重なる。滲んだ涙も引っ込んだ。
 顔を見合わせて………え、初対面の人間とキス?いや、ギイにキスされたのも初対面だったけど、島岡さんでなんて想像つかない!
「………ごめんなさい。無理です」
「いいえ、こちらこそご遠慮申しあげます」
 お互い頭を下げ、ギイを睨む。
「それならいいんだ」
 不気味なほどにこやかなギイの手の甲を、思いっきりつねってやった。
 なにがどうなって、ぼくが島岡さんとキスしなくちゃいけないんだ。そりゃ、ギイのキスが美味しいから、島岡さんのキスも美味しいかもしれないけど、なんとなく違うと思う。
 大袈裟に痛がる振りをしたギイは、コホンと咳払い一つして、
「ようするに託生は、三分の一だか三分の二だかは人間である……と考えられるわけだ」
 責任を持って軌道修正した。
「推測の域を出ませんが、おそらくは……」
「それって、どちらかに天秤が傾いて変化することもありえるんじゃないか?」
「え?」
 それって、どういう意味?
「だから遺伝子レベルで細胞が変化しているのかまではわからないけど、変化していないものもあるんだろ?現に託生は機能は低下していても、内臓が動いているし、鏡にも姿が映るようになった。それなら人間の細胞を増やすことも可能なんじゃないか?」
 突拍子もないギイの言葉に呆気に取られた。しかし島岡さんは、そんな予想斜め上のギイの発想に驚くことなく、
「可能性はありますね」
 と、至極真面目に頷いている。
「だろ?一度、体の中に入った吸血鬼の血がゼロになるかはわからない。でも1%まで減る可能性はあると思うんだ。それって人間と大差ないと思うんだけど」
 あっけらかんとしたギイに顎が落ちた。
 そんな簡単な物なの……?
 ぼくは吸血鬼だからと悲観的になっていたけど、ギイの言葉を聞けば、なんてことないような気がしてくる。
 ギイって、もしかしてかなり変な人なのかもしれない。
「島岡。託生のパスポート頼むな」
「一週間ほどお時間をいただければ」
「それと、向こうに渡るときは、夜間飛行できるように調整してくれ」
「承知しました」
 目を白黒させている内に、ギイと島岡さんの間であれよあれよと話が進み、
「それでは早速取り掛からせていただきます」
 と、にこやかに手を振って、あっという間に島岡さんは去っていった。
 この二人、仲がいいだけではなく、テンポも一緒だ……。
 呆然と島岡さんを見送ったぼくは、ソファに座り直し冷めたカフェ・オ・レを一口飲んだ。そして、気を取り直してギイに聞いてみる。
「パスポートってなに?」
「この人間が、この国に存在していますって証明書みたいなものだ」
「証明書って、ぼくの?そんなの作れるの?三年前に死んだはずだろ?」
「まぁ、島岡に任せておけば大丈夫だから」
 ギイは当たり前のように言うけれど、ものすごく大変なことじゃないのかな。人間の世界って複雑そうだし。
「でもぼくのパスポート作って、どうするの?」
「アメリカに連れていく」
「アメリカ?!」
「オレは夏の間だけここに来てたんだ。普段はNYに住んでいる。NYはいろんな人間が集まって自由な街だから、吸血鬼一人が紛れ込んだってわからないさ」
 ウインクをして、なんてことはないようにギイは言うけれど。
 本当にいいのだろうか、この人についていって。
 ぼくに人間の血がまざっていると言っていたけれど、これから先、反対に吸血鬼の血の割合が大きくなる可能性だってあるんだ。ぼくが、我を忘れてギイを襲ってしまうかもしれないのに。
「なにも心配することはない。オレが託生を守る」
「でも………」
 答えに窮して俯いたぼくを引き寄せ、ギイがぼくをギュッと抱きしめた。
「オレが託生より長く生きてやる。一人で生きる時間なんて託生には一秒もない。だからオレと一緒に来てくれ」
「そんなこと……」
「託生の側にいたいし、側にいてほしい。これから、ずっと」
「どうして?」
「託生を愛してるから」
 三度目の告白。以前の切羽詰まった空気はないけれど、晴れやかに、そして切なげに、ギイが言葉を紡ぐ。
「託生もオレを愛してくれてるんだろ?」
「そう……なの?」
「でなければ、オレの記憶を消して出ていかない」
 ゆっくりとギイの口唇が近づき目を閉じた。口唇がふれあい、胸の奥が苦しくて切なくて暖かくて。
 愛してるって、こういう気持ちなんだ。ぼくはギイを愛してるんだ。
「なぁ、託生、言ってくれ」
 今ならわかる。
「愛してる……愛してるよ、ギイ」
 ぼくの初めての告白に、これ以上もなく幸せそうにギイが微笑んだ。
 暖かいギイの腕の中で兄さんを想う。兄さんを抱きしめる腕はあったのだろうかと。
「兄さんを助けることは出来なかったのかな……」
「さぁな。でも兄貴は本望だったんだよ。消えることがわかっていても託生を助けたかった。短くても託生と一緒にいれて幸せだったんじゃないかとオレは思うよ」
 いつも側にいてくれた兄さん。微笑みを浮かべたまま灰になり風に溶けてしまった。

『託生』

 風の囁きが兄さんの声に聞こえる。
 今もぼくの側にいるのかな?いるよね?風に乗って世界中を旅しているんだから。
 ぼくは、もう一人じゃない。ギイがいるから安心して。
 ずっと俯いていたけど、この人となら笑っていけると思うから。
 兄さんにもらったこの命が尽きるまで、ぼくは生きていくから。


「いつか青い海が見れるかな」
「あぁ、見れるさ、きっと」





もう3年前ですね。
ツイッターのお題から突発的にブログに書き、たくさんの感想をいただいて、続きを書いてみようかなと思い、フォルダの中に置いてました。
でも、時代は?国は?歳は?そして、着地点はどこだ?
こういうパラレルを書くのが初めてだったのと、まるきりその場限りのお遊びだったので煮詰める事が多く、3年も経ってしまいました。
プラス、吸血鬼の設定って「十字架!ニンニク!太陽!」くらいしかわからなくて、それ以外に関しては、あっちこっちを読み漁って、それらし〜く辻褄を合わせただけです。スミマセン;
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
(2017.9.2)
 
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