Marine Bule Dream (2002.7)

 高層ビルの最上階。
 案内された応接室で、形ばかりざっと書類に目を通しサインをする。
 ここ数ヶ月かかりっきりであった仕事に終止符が打たれた瞬間、張り詰めた空気が緩み、一同の顔に安堵の笑みが浮かんだ。
「お互い、いい仕事をしましょう」
 社交辞令用の笑顔ではなく、心底笑みが零れてしまう。それほどまでに、今回の仕事は難しかった。
 一つの仕事を終えた達成感。
 決められた人生を歩んでいるとは言え、オレはこの仕事にのめり込んでいる。
 但し、この肩に何万人という人間の人生が乗っているのは、かなりの重圧ではあるが。
 幹部に見送られ部屋を後にし、島岡と二人エレベーターに乗り込んだ。
「お疲れ様でした」
 知らず溜息を吐いたオレに、島岡が労いの声を掛けた。
「あぁ、さすがにな。やっと、ゆっくりできる」
 託生とも………な。
 仕事が忙しく、ここ何日もマンションに帰っていない。早く託生の顔を見ないと、酸欠になっちまう。
「この後の予定は?」
「今日は何も入っていません」
「何も?」
「はい、何も」
 確認をしたオレに、柔和な笑顔で頷く島岡。
 休みなしで働いていたから、気を使って何も入れなかったと解釈するのが妥当だということか。
「サンキュ」
 素直に礼を言うオレに、当たり前ですよと瞳に写し、島岡は電子手帳を閉じた。
「マンションまで、お送りしましょうか?」
 メインロビーを歩きながら、島岡が尋ねた。
「そうだな………」
 今の時間だと託生はまだ大学に行っているだろうが、疲れた体を休ませて夜に備えるのも一考だな。
「マンションまで送ってもらおうか」
 オレの返事に快く了承した島岡が、駐車場に向かおうとした時、
「ギイ!」
 少しトーンの高い声がオレを呼んだ。
「ギイ。お仕事終わったの?」
 声のする方を見ると………プチ託生!
 満面の笑顔で階段を駆け上がってくる。
「託生さんがいらしてますね。どうしますか?」
 おい!ちょっと待て!
 島岡!こんな小さい託生を見て、違和感を感じないのか?!
 それより、プチ託生がいるってことは、今は夢の中だって事だろ?!
 あのややこしい契約も、全て夢の中の出来事だっていうのか?!
 …………そりゃ、ないぜ。
「ギイ、苦虫噛み潰したような顔して、どうしたの?それとも、ぼくここに来ちゃいけなかった?」
 ぐったりと肩を落としたオレの側に寄り、泣き出しそうな顔をしてプチ託生が見上げる。
「いや、今仕事が終わって、家に帰ろうと思っていたところだ」
 膝を折りにっこり話し掛けると、ほっと安堵の表情を浮かべ、微笑みに摩り替えていく。
 相変わらず、可愛い………。
「ギイ、疲れてるの?」
 ぽっかりと見惚れてしまったオレの頬に指を滑らし、小首を傾げる。
 あぁ、ダメだ。
 オレは変態じゃない!なのに、こんな夢ばっかり、どうして見る?!
『夢は願望の表れというじゃないか』
 章三!それは、違うぞ!………違うと言わせてくれ。
「義一さん、どういたしましょうか?」
 島岡の声にプチ託生が何か言いたそうな顔をして、スーツの裾を引っ張った。
「ん?どこか行きたいところがあるのか?」
「ぼく………自然史博物館に行きたい」
 自然史博物館か………。そう言えば、昔託生が記憶喪失になったとき以来、全然行ってなかったな。
「島岡、行き先を自然史博物館に変えてくれ」
「はい。承知いたしました」
 柔和な笑顔の島岡が頷いた。
 
 
「わぁ、大きいね」
 人気の居ない薄暗いコーナーを、プチ託生の手に引かれて降りていった。
 厳かな静けさが、二人の足音を響かせる。
 部屋の中央で足を止め、頭上の鯨を見上げた。とたん、押しつぶされそうな圧迫感が、いつものようにオレを支配していく。
 幼いころからそうだった。
 自分の立場を理解すればするほど、責任の重さを認識し、自由に動く事すらままならない、自分の運命を感じずにはいられなかった。
 この鯨は、オレの運命。
 身動きが取れなくなって立ちすくむしかない、大きな壁だ。
「そんな泣きそうな顔をしないでよ」
 呟くような声で我に帰り、心配げにオレの手を握り、見上げている瞳とぶつかった。
 プチ託生とは言え、オレは託生に哀しそうな顔をさせたくない。いつでも笑顔でいて欲しい。
「泣いてなんかいないぞ。託生じゃあるまいし」
 その場に座り、沈んでしまった心を浮上させ、プチ託生をからかう。
 怒るだろうなとの予想を裏切り、プチ託生はオレの首に腕を廻した。
「ぼくがいるよ。ぼくが鯨から守ってあげる」
 ぎゅっと小さな腕でオレを抱き締める。
 託生の髪に吐息を埋め、甘い香りを感じたとたん、不意にオレは泣きたくなった。
 あぁ、この鯨をはじめて見た時、託生と一緒に見たいと強く願ったのは、こういうことだったのか。一人で鯨を見上げるより、託生という心の支えがほしかったのか。
「ギイ、二人だったら怖くないでしょ?」
「そうだな。託生が永遠にいてくれたら、怖くない」
 プチ託生はオレの言葉に嬉しそうな微笑を浮かべ、頬を小さな手で包み込んだ。
「ね、ギイ。今日は何の日か知ってる?」
「今日?」
 今日と言われてもなぁ、これは夢の中だろう?何の日か見当がつかないぞ。
「わからない?」
 両手を挙げて降参のポーズを取ると、
「今日はギイの誕生日だよ」
 悪戯っ子のような顔をしてプチ託生は笑った。
「だから、ぼくからギイへのプレゼント」
 天井に向けて伸ばしたプチ託生の右手から、目が眩むような光が出され、辺り一面不思議な光に包まれた、
 そして次の瞬間目に飛び込んできたのは、果てしなく広がる蒼く透き通ったマリンブルーの海………!
 潮騒の音が聴こえそうな穏やかで静かな水面は、まるで託生の心を映したかのようだ。
「託生……これは………?」
「海の中だと、大きい鯨も小さく見えるよね」
 託生の言葉に鯨を見ると、それは今までの重圧感が嘘のように、とても小さく感じられる。
 小さな手が髪に触れ振り返ると、じっと見詰める澄んだ瞳が待っていた。
「愛してる、ギイ」
 プチ託生の柔らかい口唇が、優しくオレを包み込む。
「ずっと傍にいるよ。何も心配しないで」
「託生………」
「ぼくがいるよ。ずっとギイの傍にいるよ」
 約束のようにもう一度口唇を合わせ、プチ託生は微笑んだ。
「ありがとう、託生」
 そうだな。託生さえいれば、オレは頑張れる。鯨なんかに押しつぶされて、たまるもんか!
 プチ託生の体をぎゅっと抱き締め、甘い香りを吸い込む。と、不意に腕の中のプチ託生がぐにゃりと歪んだ。
 え………?
 微笑を残したプチ託生の体は透き通る光になり、さらさらと流れ落ちマリンブルーの海に溶け込んだ。
「託生………?!」
『愛してる、ギイ』
 囁きのような声が耳に届き、優しい風がオレを包み込む。海が………託生が、オレを包み込んでくれる。
 託生に抱かれているような錯覚の中、安堵にも似た眩暈を感じ、オレはマリンブルーの海に横たわった。
 
 
「……ん………義一さん?」
 ん?
 オレを呼ぶ声に目を開けると、顔を曇らせた島岡の顔がそこにあった。
 あぁ、デスクで寝てしまっていたんだな。
「顔色が悪いですが、大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫だ。もう出掛ける時間か?」
 大きく伸びをし、島岡に確認する。
 今日はプロジェクトの最終確認の日だ。これで、全てが決まる。
「はい。お車の用意が出来ております」
「よし!さっさと終わらせて、鯨を見に行くぞ」
「はぁ?」
 呆けた島岡の顔に噴出し、スーツの上着を手に取りニヤリと笑った。
「成功させてみせるさ。心配するな。オレには託生がついてる」
 惚気にも動じない有能な秘書は、
「託生さん以上の保険はないですね」
 柔和な微笑を浮かべ、ドアを開けた。
 
 
 帰ったら託生と二人で、鯨を見に行こう。
 そこにはマリンブルーの海が広がっている事だろう。
 
 
ギイのお誕生日用に書いたお話です。
もうこの頃はプチに凝ってまして、勝手にプチ託生を魔法使いにしてしまうし(笑)
気に入ってるシリーズなので、またネタがあったら書いて見たいですね。
(2002.9.4)
 
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