松本君の、これが本当の日常(2012.9)
副社長がフランスから戻り、休暇延長という前代未聞のアクシデントを葉山さんの鶴の一声で乗り越え、そして昨日、無事葉山さんが日本へと帰国した。
そう、無事に………。 飛行機に乗られるまで、これまた大変だったのだ。 「託生、やっぱり荷物を送ってもらおう!」 「だから……。すぐに移転できるわけないじゃないか。もう、向こうでスタッフが準備に入っていると思うけど、ぼくだってお世話になった人達に挨拶回りしたいし」 両肩を掴み、泣き出さんばかりの副社長に引き止められても、それは社会人として当たり前ですよね、葉山さん。 それに、もうここはケネディ国際空港の出発ロビー。 副社長、諦めましょうよ。 「オレと一緒にいるって言ったじゃないか。あの小屋で愛を確かめあっ……むぐっ!」 「…………何を言ってるのかな、ギイは」 ドスがきいてます、葉山さん。 大丈夫です。誰も聞いてません。聞こえてません。ここはアメリカ。SPだって英語しかわからない者ばかり。 僕と島岡さんを除いては……! 「はい、ストップ。義一さん、お時間です。託生さん、お坊ちゃまのために滞在を引き伸ばしていただきまして、ありがとうございました」 「いいえ、休暇中でしたので、気になさらないでください」 「たくみぃ………」 「じゃあね、ギイ。次は荷物を持ってくるから、それまできちんとお仕事してね」 この副社長の変わりように度肝を抜いたのは僕だけのようで、島岡さんは慣れた様子であっさりと二人の間に割り込み、首根っこを掴むがごとく葉山さんから副社長を引き離した。 そして、恨みがましい眼差しを物ともせず受け流し、さっさとSPに副社長の周りを固めさせ逃亡を阻止する。 はい。葉山さんを追いかけて成田行きの飛行機に乗られる危険性が、ここにいる誰からも見えましたから。 そのような攻防戦の中、葉山さんが無事ゲートをくぐられたときには、心底ホッとしたものだ。 その後の副社長の落胆振りは、言うまでもないだろう。 葉山さんが帰国した翌日の今日。 さぞかし不機嫌なんだろうなとペントハウスに足取り重く迎えに行ったものの、さすが経済界のカリスマ副社長。気持ちの切り替えは早いらしく、昨日の意気消沈した面影はどこにもなく、いつもと変わらないクールな様子に胸を撫で下ろした。 いつになるのかはわからないけど、葉山さんがアメリカに住まいを移すことは副社長から、さ、ん、ざ、ん、聞かされていたから、それまでの我慢だと思っておられるのだろう。 そんなことよりも、今日は仕事が山積みだ。 なぜなら、休暇延長を却下する代わり、葉山さんと毎晩ディナーができる時間までに帰宅と、島岡さんが副社長に話をつけたのだ。 直々に島岡さんがスケジュール調整をし、あとに回せるものは全て回せとばかりに後日に詰め込んだものだから、真夜中までスケジュールが満員御礼。 ぼんやりと考え事をしている場合じゃない。 僕は次の会議に必要な書類を持って、副社長室に向かった。 重厚なドアをノックして、副社長の返事を待ってから開ける。 「会議か?」 「はい。あと十分です」 大きなデスクの上に置かれたノートパソコンから目を離さず、副社長は僕に問いかけた。その整った横顔に溜息を吐く。 やっぱり、同じ男から見ても惚れ惚れするくらい、いい男だよなぁ。 思ったと同時に、昨日の葉山さんを引き止めていた副社長が脳裏に浮かび、頭を振る。 あれは、たまたま。偶然だ。副社長でも、恋人と離れるときくらい、常人と同じく気を落とされる。ただ、それだけのことだ。 「書類は?」 「こちらに」 渡した書類をパラパラと捲り、内容を確認して副社長が椅子から立ち上がりかけたとき、どこかから振動音が聞こえてきた。 僕の携帯じゃないな。とすると、副社長の? 音のありかを探そうと視線を彷徨わせる中、予想通り、副社長が胸元から携帯を取り出しフラップを開けた。 あぁ、もう一台、増やされたんだな。 もしも副社長が一台しか携帯を持っていなかったら、ずっと話し中ばかりだ。それこそ、何かの緊急時に僕や島岡さんが連絡を取ろうとしても、絶対繋がらないだろう。 だから、常に数台持っておられたが、やっぱり、今の台数では事足りなかったか。 見慣れない携帯に、そう考えていた僕は、直後、目の前でゆらゆらと揺れている銀色の物体に釘付けになる。 あれは、なんだ………? ゆらゆらと。小さいながらも、とんでもなく存在感のある、あれ。 「副社長………」 「なんだ、松本?」 応えながら手早く操作して……メールを打っているのだろう。 数秒で打ち終わり、チュッと画面にキスをしてフラップを閉めた副社長と、その手の中にある携帯にくっついている銀色の物体を交互に見やる。 「あの、それは………」 「見てのとおりの携帯だが」 えぇ、携帯。それは、僕だって知ってます。というか持ってます。ガラケーとスマホの二台を。 じゃなくてですね! 「その、銀色の………」 窓から差し込む光に、キラキラと輝くハート型のストラップは、いったいなんすか?!新手の嫌がらせですか?!じゃなくて、恥ずかしくないんすか?! もしも最愛の恋人に渡されたとしても、これは絶対付けられない。たぶん僕だけじゃなく、世の中の男全員! 「あぁ、これか?」 問いかけながら、でも僕に説明することなく大切そうに手のひらに乗せ、感慨深げにストラップを見詰める副社長にクラリと眩暈を感じた。 副社長とハート。 どうやったら、そんなメルヘンちっくな組み合わせになるんすか? 頭の中で盛大に突っ込みながらも呆然としてしまった視界に、またもや飛び込む新たな事実。 ………先週の定期検査で、コンタクトの度を上げるべきではなかったかもしれない。 見たくはなかった……僕は、見たくなんてなかった。 『T&G』なんてイニシャルが彫られていることなんて、僕は知らずにいたかった! となると、これってオーダーメイド?でもって、銀色の金属ってプラチナプレートで、小さく光っている石はダイヤモンドとか? 副社長、そのストラップは、いったいお幾らなんでしょう? 僕の給料、何ヶ月分集めたら買えるのでしょうか? 絶対、買いませんけど! 現実逃避したくなった空間の中、島岡さんが音を立ててドアを開き顔を覗かせた。 「義一さん、会議の時間……松本君、なにやってるんですか?ぼんやりしている時間はないですよ」 「島岡さん………」 振り向きざま、ストラップにキスをしている副社長が視界に入ったような気がするけど、気のせいだ。うん、気のせいにしておこう。 「義一さん。ストラップと戯れるのはあとにしてください。今日は時間がないんですから」 「はいはい」 気の………せいにさせてください! 胸元に大切そうに携帯を入れ、今度こそ立ち上がってドアに向かう副社長の後に続きながら、ふと気付く。 葉山さんも、あのストラップをつけているのだろうか………。 ブログより、加筆転載 (2012.10.4) |