背中で感じる恋 -1-

 高校時代。託生は将来の事を、何も決めてはいなかった。明確なビジョンを持つ学生の方が少ないだろうし、それが間違っているとも思わない。なので今はバイオリンを弾く事以外考えられないからと、漠然と音大に進んだのは当然の事だ。
 ごく普通の大学生活を送り、ごく普通に就職活動をし、卒業後は音楽関係ではあるだろうが一般の学生のように仕事に就くのだろうと考えていたオレの予想を裏切り、託生は大学を中退してパリに留学した。
 託生の性格上、冒険をするようなやつじゃないのはわかっている。それに音楽を競うようなやつでもない事を。
 しかし、ヨーロッパで数々の賞を取る様子に、バイオリンで生きていく事に決めたのかと疑問を抱いたオレは、託生の意思を知るために、NYフィルとの共演を終えた佐智の楽屋に顔を出した。
 託生には関わらない。たまに託生の様子がわかれば、それで十分だった。
 だが、託生がソリストを目指しているならば話は別だ。
 一般の人間が当たり前のようにソリストになれるのならば、佐智のサマーキャンプなんて必要ない。託生ならば、すぐに後見人がつくのは予想できたが、オレの心が許せなかった。
 オレ以外の人間が託生の後見人につくなんて。
 託生と関わってはいけないとわかっているのに、それに逆らう本能。
 葛藤を胸に秘め、佐智と向かい合ったオレに、
「義一君の話って?」
 半ば呆れたように話を振った。
 佐智がこちらでの定宿代わりにしている井上家のマンションに移動し、ソファに座った直後の事だ。
「………託生の事だよ」
「うん。それは、わかってるよ。今更、託生君の何が聞きたいんだい?」
「あいつは、卒業後、どうするつもりなんだ?」
「託生君は、どこかの楽団にでも入るつもりみたいだけど?」
 どこか投げやりに質問に答えた佐智の顔が、不満に染まる。佐智自身、託生の選択に納得していないのか。
「じゃあ、バイオリニストの佐智に聞きたい。託生の意思がもちろん最優先だが、佐智はあいつの将来をどう思っているか?」
 オレをチラリと見上げ、
「あれだけ幾つもの賞を取っているからには、どこの楽団ででも通用するだろうね。ただ、どれだけの賞を取っていても、楽団に入ればただの下っ端。虐めや妬みがそこら中に横行しているクラシック業界だ。ストラディバリを持っているだけで、目をつけられるのは火を見るより明らかだし。第一に託生くんの持ち味が殺され埋もれてしまうのは悔しい」
 まるで八つ当たりのように言葉を連ね、コーヒーを一口飲んだ。
 いや、実際八つ当たりなんだろうな。
 託生がソリストとしてやっていくために、一番必要なものがわかっているからこそ、オレに文句を言ってるんだ。
「佐智は、ソリストとして活動したほうがいいと思ってるのか?」
「そうだね。今、託生君に足りないのは………後見人だけだ」
 きっぱりと言い、オレの真意を量るように睨みつける。
 覚悟を決めろと。そう言いたいのか、佐智?
「………わかった。オレが後見人になる」
 静まり返った部屋に響く自分の声が、まるで他人の声のように聞こえた。
 オレが表に出なければいいんだ。それならば、託生を巻き込む事はない。
「マネージメントのプロを集めて事務所を作る。それで、いいか?」
「義一君にしては上出来だね」
 責めるような眼差しから一変、佐智の表情が柔らかく緩んだ。
「託生は納得するかな?」
「協力は惜しまないよ」
 あぁ、そうだろうな。佐智があれだけ気に入っていた託生の音が、世の中に出るんだからな。こっちが言わなくても、協力は惜しまないだろうさ。
「ただ、託生君が素直に日本に戻ってくれるかが問題なんだよね」
「は?」
 溜息混じりに言われた言葉に、あんぐりと口を開けた。
「パリが気に入っているのか?」
「じゃなくて、日本が気に入らないんだ」
 なんだ、それ?
 日本生まれで日本育ちの人間が、日本を気に入らないとはどういう事だ?
 ということは、まさか………。
「託生は日本が気に入らないから、パリに行ったとでも?」
「そうだよ」
 あっさりと頷いた佐智を凝視する。初めて聞いた裏事情が、理解できない。
「気になるなら、いつか聞いてみなよ。託生君に」
 佐智の言葉に、口元を歪ませ視線を外した。
 オレがその理由を託生に聞く事は、一生ないだろう。
 あいつらを根絶やしにしたって、オレの置かれた立場は変わらない。もう巻き込みたくはないんだ。
 オレの命より大切だから。
 もう、二度と託生には会わない。
 
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