夏の日の約束(2014.2)
遠く小波の音が聞こえる。聞き慣れない響きにうっすらと目を開け、あぁ、託生とバカンスに来ていたのだと思い出した。
ずっと、ここに留まっていたいほど穏やかな空間。モリスの件を片付け、慌ただしい日常から逃げ出すかのように訪れた小島は、静かにオレ達を迎え入れてくれた。 しかし、隣で眠っているはずの託生の姿が、月の光と取って代わっているのを見て、一気に目が覚める。 「託生?」 手を添えたシーツは、まだ温かい。 いったい、どこに………? 手早く脱ぎ捨てていた服を身に着け、寝室のドアを開けた。 ベッドを抜け出した託生を追って降りてきた砂浜は、淡い月と降り注ぐような星の光しか見えない闇だった。 湿った海風と波の音。人間の五感を刺激するような空間に、白く浮かび上がるように託生が立っている。 託生の姿を確認し、知らず安堵の溜息が零れ出た。 ここは小島で、託生がどこかに行く手段もないのに、腕の中にあった温もりが消えていることに気付いたときは血の気が引いた。今までのことは、全て夢の中の出来事だったのではないかと、立っている地面が崩れ落ちていくような感覚になったのだ。 そう思った自分に、打ち消すように首を振る。 いや、本当は、託生がオレから離れていってくれたほうがいいんだ。そうすれば、託生の身に危険が迫ることはない。 日本にいた頃とはわけが違う。NYに来たことにより、Fグループの、オレのバックが付いていることが世間に知られ、馬鹿モリスの件でそれは一気に広まった。現に事務所の方には、音楽関係どころか、それらしい理由をつけた無関係なところからもアクセスしてきている。 今はスタッフに選別をさせているが、NYに戻ったら一度チェックしなければならないだろう。託生の実力を評価してなのか、オレとの繋ぎを狙っているのか。それとも、オレの喉元にナイフを突き立てたいのか。 どちらにしても、託生の仕事にまで影響を与えているのは事実。 ………そう、オレは理解している。 ゆっくりと驚かせないように、託生に近づいた。 ぼんやりと浮かんでいた託生の体が、はっきりと輪郭を作っていく。まるで触れることが許されなかった過去と、手を伸ばせばすぐに抱き寄せられる現在のように。……未来は、いったいどっちなんだ? 「託生、無防備すぎるぞ」 そんな格好で。 少し冷えた体を温めるように、背後から託生を抱きしめたとたん、潮風と一緒に託生の甘い香りが届き、無意識に頬を摺り寄せる。 この愛しい者がいない世界。数か月前までのオレの日常だったはずなのに、身震いするほどの恐怖を感じ腕に力を込めた。 ――――――離したくない。もう一度、この腕に戻ってきた託生を離したくないんだ。 理屈と本音。しかし、どちらもオレの本心。託生の命以上に大切なものがあるはずないのに、オレは、決めることができなかった。 この蜜月のような甘美な生活を、オレはずっと夢見ていたから。 「だって、ここにはぼく達しかいないんだろ?」 少し前まで濃厚な大人の時間を過ごしたはずなのに、無垢な子供のように言い訳する託生のギャップに苦笑し、羽織っているだけのシャツのボタンを一つ外した。 「ギイ……!」 「だから無防備だと言ったんだ」 さらりとした肌に手を滑らせ、しかし、安心しきった顔で背中を預ける託生に気をそがれる。ここで襲われるなんてこと、露ほども考えていないらしい。 一瞬呆気にとられ、しかしクスリと笑って疲れを癒すように撫で下ろした。お前がそう思っているのなら、今はそういうことにしておこう。 こんな恰好をしているのに、ここまで無防備になるのは、オレの臆病な心に気付いているからなのかもしれない。 ときに託生は、オレの沈んだ心を引き上げ、自身の存在をオレに示し、現実を見せる。自分は、ここにいるのだと。 無意識なのかもしれないが、そんな託生にオレは救われていた。 二人でいることが当然なのだと錯覚するほどに。離れなければと考えることが罪なのだというように。 「あのさ、ギイ」 「うん?」 「この十年、ギイ、がんばってたよね?」 「え?」 「会えないと思ってたけど、新聞とか経済紙とか、ギイが載っているのは見ていたんだ。副社長になったのだって、知ってたよ?」 視線だけオレに寄越しニコリと笑ってくれるが、あれは、復讐していたときに瓢箪から駒のような状態で地位が上がっただけの話だ。 託生に、詳しいことは話していない。知った託生がオレを怖がって離れて………話した方がいいのだろうか。そうすれば、お前はオレから離れていくのだろうか? そう考えた瞬間、ヒュと喉の奥が鳴ったような気がした。息ができなくなりカラカラに口の中が乾いていく。目の前が暗くなる感覚に、咄嗟に抱きしめた腕に力を入れ意識を保とうとしたオレの手を、託生の手が柔らかく包み込んだ。 とたん失っていた視界が戻り、呼吸が楽になる。 「ギイ?」 「いや、あのスクラップの山は、そういうことだったんだなと思って」 「もう……!」 照れ隠しに睨んで見せた託生の頬にキスをしながら、小さく息を整えた。 記憶の底に眠る光景が浮かんでくる。託生の命が狙われたのだと知った夜と卒業式の夜だ。オレは同じように呼吸が止まり、冷たい床の上に転がった。そして、涙した。 死ぬかもしれないという命の危機よりも、オレは託生を失うことを恐れたのだ。 そんなオレに気付かず、くすぐったそうに肩をすごめた託生が言葉を続ける。 「ぼくも、がんばったつもり。色んな人に助けてもらったし、亀のようなスピードだったかもしれないけど、自分なりにがんばったと思ってる」 「いや、託生は、昔から人一倍の努力をしてたさ。言葉もわからないのに留学するなんて、人間接触嫌悪症だったのに全寮制の祠堂に入学したことと変わらない」 いつも、そうだった。弱いように見えるかもしれないが、託生は自分の成長のために自ら困難な道を選び、全てに打ち勝ってきた。 今、バイオリニストとして表舞台で活躍できるのは、託生の人並みならぬ努力の結果だ。事務所やオレの力じゃない。バックアップこそすれ、客の心までは動かせないからな。 「祠堂の頃は、色々とギイに頼って心配かけたりしたけれど、今は大丈夫だから………」 言葉を切り、腕の中の託生が体を捻ってオレと向かい合う。真っ直ぐ見上げる目に迷いはない。 「だから、ギイのように経済界を変えるような大きな力は持っていないけど、それでもギイを支えるだけの力はつけたと思うんだ」 「託生?」 「もしもギイが、ぼくを排除しようとしても、ぼくはぼくの意志でここにいる。もしもギイが、事務所を解散させても、NYで仕事をしていくことは可能なんだ。ぼくだって、そのくらいのコネは持ってる。だから、これから先、NYから離れるつもりはない」 きっぱりと言い切る託生に、ゾクリと鳥肌が立つ。 フランスで再会し、離れたくないからと半ば強制的に事務所を移転させた。危険に近づける行為だとわかっていたが、どうしても離れられなかった。 そして、今、慌ただしく動く周囲の状況を改めて見て、やはり託生を連れてくるのは間違いだったと、自分の過ちに気付いたのに………。 元々事務所の人間が、こちらにいた人間なのだと伝えれば、すんなり納得して異議を唱えることもなかった。あのとき、託生が求めたのは移転作業のための時間だけだ。 オレの我儘を許してくれているだけだと思っていたのに、託生は………。 「ぼくは、ギイから離れない。ずっと側にいる」 腕をオレの首に絡ませ、そっと託生が口づけた。 オレの答えなんて初めから聞くつもりもないらしく妖しく舌を絡ませ、オレの髪をかきあげる。あの小屋で、オレが欲しいのだと訴えたときと同じ口づけ。 「愛してるんだ、ギイ」 「………託生」 「愛してる」 ねだっても恥ずかしがって口に出さなかった愛の言葉を、惜しげもなく何度も囁き、託生が熱く口唇を重ねてくる。 その口づけに答えながら、胸が詰まった。 オレの側にいれば自分の身に危険が迫るのだとわかっていたはずなのに、なにも言わずにNYに来てくれた。昔、幾度と求めていた覚悟を、一人胸に秘めて。 託生。 愛してる、お前だけを、ずっと………。 「次の夏もここに来たいな」 そっと口唇を離してオレの肩に頭を預けた託生が呟く。 「……託生がおねだりなんて珍しいな」 そう揶揄しながら、オレは眩暈を感じるくらい甘く魅惑的な未来に想いを馳せた。 次の夏……これからまた一年、オレの側にいてくれるのか?その次の夏も、そのまた次の夏も、これから先、ずっと……。 しかし、差し出された小指を見てハッと現実に気づく。 離さなくてはいけないのに、そんな約束をしていいのか? 「ギイ?」 うろたえて小指を凝視したオレを、託生が覗き込む。その瞳が、覚悟を決めろと言っているように見えた。 次の夏まで。一年だけ許されるだろうか。託生が、オレの側にいても大丈夫だろうか。 「……約束するよ」 託生の小指にキスをして、震えそうになる自分の小指を絡ませた。 どこかで見たな?という方もいらっしゃると思いますが、小話ついったー《短文問題集》で、『「深夜の海辺」で登場人物が「約束する」、「雷」という単語を使ったお話を考えて下さい。』という問題がありまして、以前託生くんバージョンで書いた物のギイバージョンです。 というか、元々がこちらで、でも短文にはならないし、設定ファイルみたいだし、雷使えないしと急遽託生くんに当時変えたんです。 託生くんの方は、小話ついったー《短文問題集・お題》のどこかにあると思います。すみません、不親切で; そのままファイルが残っていたんで、とりあえずなにか書いておこうと思いましたので、仕上げてみたのですが、結局、最初から最後まで、うじうじ悩んでいるギイ…になってしまいました; (2014.2.3) |