Honey 1(2002.9〜)

 カーテンの隙間から入る明るい日差しと、どこかから漂うトーストの香ばしい匂いに目が覚めた。
 眠い瞼を擦りスリッパを履いてドアを開けると、
「おはよう、託生」
 麗しい笑顔のギイ。
「おはよう、ギイ。ごめん、時間ないんだろ?ぼくがするよ」
 スーツ姿にエプロンという格好のギイに申し訳なくて、慌てて側に寄ると、
「今日は一時間遅いんだ。ここはいいから、顔洗って来い」
 やんわり断られた。
「う………ん」
 昨晩も遅かったのにいいのかな?
 後ろ髪を引かれながら洗面所に向かったぼくの背中に、
「託生」
「何?」
「忘れ物」
 優しく肩を抱き寄せられて、キス。
 口唇を離して微笑むギイに、ぼくもつられて笑った。
 幸せな時間。こんな日が来るなんて………一週間前までは思いもしなかった。

 
 祠堂を卒業後。
 ぼくは日本に、ギイはNYに、それぞれに進路を取り別々の生活をしていた。
 だからと言って別れたわけではなく、ギイからは毎日のように電話が入り、寂しいながらも恋愛関係は続いていたのだ。
 そして、大学1年の終わり。今から2年ほど前の事だ。
 いつものようにかかってきたギイからの電話に、ぼくは重大な事を伝えた。
「あのさ、ギイに言っておきたい事があるんだけど」
"何だよ、改まって"
「今年の9月から………マンハッタン音大に留学する事が決まったんだ」
"………本当か?!"
「うん」
"こっちに来るんだよな?!"
「うん」
"託生、オレ嬉しい!抱き締めてキスしたいよ"
「9月からは、いつでも出来るじゃないか」
"そうだよな。ずっと一緒にいるんだよな。じゃ。オレ、二人で暮らすマンション探しておくから"
「え?」
"ずっと一緒にいような、託生。………愛してるよ"
 ギイの笑顔が思い浮かぶような嬉しそうな声に、NYという未知な街への不安はぼくの中から消え去っていった。
 ぼくの目には、これからの生活が眩しいくらい輝いて見えていた。
 しかし、思いもよらなかった事態に………。
 その日を境に、ギイの連絡が途絶えたのだ。
 いつのまにか携帯は解約され、五番街の実家にかけても繋いでもらえず、ギイへの連絡が取れぬまま、刻々と渡米に向けての準備は進んでいった。
 しかし最期まで気がかりだったのが、
"マンション探しておくから"
 ギイの言葉。
 ギイは一度言った事は、必ず守る人間だ。これだけは勝手に決める事は出来ない。
 連絡が取れないのなら、NYまで会いに行こうと留学前に一人飛行機に乗り、ギイの実家を尋ねた。
 なかなかチャイムが押せないぼくの横で、ドアマンが扉を開けた。
 半年振りに見る、ギイ!
 しかし、ギイはぼくにちらりとも視線を掛けず、横付けされたリムジンに乗り込んでいった。
 ギイ………?!
 ぼくがいたのに気付かないはずがない。じゃあ、どうして?!
 瞬間、ギイが記憶喪失になっている事を悟ったのだ。
 その日のうちに日本に戻り、一日中泣いた。
 泣いて泣いて、泣き疲れて自分が空っぽになったとき、これでよかったのかもしれないと、ぼんやりとした頭で考えた。
 Fグループ次期会長のギイ。普通なら結婚をし後継者を残さなければならない立場。ぼくの事を忘れてしまった方が、ギイの為によかったのではないか。
 ぼくに出来る事は、託してくれたストラディバリを鳴らすことだけ。それだけで、充分じゃないか。
 ギイがいなくてもストラディバリと生きていこう。
 そう思い直して、NYで一人暮らしを始めたのだった。
 でも、一人で生きていこうと決めたのに、肌寒い夜はギイを思い出して涙が止まらない。
 湧き上がるギイへの想いを消化しきれず、狂いそうになったぼくに、ふと目に入ったのがまっさらな五線紙。
 その日から、ぼくはギイとの思い出を五線紙に綴るようになった。
 戸惑いや不安、それらの物と戦いながら、やっと生活になれた頃、偶然レッスン室で自作の曲を弾いているのを聴いた人と知り合いになり、第一バイオリン兼作曲担当でカルテット組む事になった。
 何度目かの演奏会の後、ギイと再会したのは偶然だったのか運命だったのか。
 友人として心を押し隠しているぼくに、
「愛している」
 と雨に濡れた体で抱き締めてくれたのが、1週間前。
 想いを交わしたその晩、ギイは記憶を取り戻した………。

 
「コーヒー入ってるぞ」
 キッチンに戻ると、テーブルに朝食の用意をしてギイが煙草を燻らせていた。
 数年前は見慣れた風景だったのに、ちょっとした仕草でドキドキしてしまう。
 こんなにギイが好きだったんだ。
 ひとつひとつの出来事に、暖かい何かが胸に満ちてくる。
 食卓につき、たわいない話をしながら、二人きりの時間を楽しんでいるとギイの携帯が鳴った。
「あぁ。わかった」
 短めに話を切り、ポケットに携帯を入れ、
「もう迎えが来ちまったらしい」
 残念そうに立ち上がりスーツの上着を取ったギイに、ぼくも慌てて立ち上がった。
「今日はパーティで遅くなるから、先に寝てろよ」
 ドアまで見送りに出たぼくの頬に手を当て、
「行ってきます」
 チュッと口唇と落とすと、晴れやかな顔で出て行った。
 ぼくはそのまま窓辺に寄り、階下を覗き込んだ。アパートの前にはこの風景が似つかわしくないリムジンが一台。
 ギイは乗り込む前にふと視線をぼくに向け、片手を挙げて微笑みリムジンに乗り込んだ。
 仕事が忙しく、ぼくと顔を合わすことなんて数度しかなかったのに、この1週間ギイは必ずここ、1DKのぼくのアパートに帰ってきていた。
「少しでも託生といたいんだよ」
 実家の方が楽じゃないかと尋ねた時、嬉しそうに言った言葉。
 ぼくも、そうだよ。
 たとえギイと朝会えなくても、キッチンの灰皿に吸殻が残っているだけで、胸の奥が暖かくなるんだ。
「幸せだなぁ」
 ぼんやりとリムジンを見送りながら、この幸せを噛み締めた。
 
 
「あれ?」
 いつも通りの朝。
 窓から入る日差しも、通りを歩いている人の気配も、何もかも変わりのない朝なのに、でも、空気がどことなく違うような気がして、部屋を見渡した。
「ギイ?」
 キッチンのドアを開けて呼んでみる。でもそこにギイの影はない。
「もうお仕事行っちゃったのかな?」
 言いながら、ふと視界に入ったテーブルの上に視線が止まった。
 吸殻がない………。
 「帰ってきていたよ」という合図なのか、ぼくの寝ている間に帰宅して仕事に行く時のギイは、必ず煙草の吸殻を残していた。
 ぼくはそれを見て、ギイの残り香に触れたような安心感を感じていたのだ。
「確か昨晩はパーティだって言ってたよね」
 もしかしたら、そのまま実家に戻らなくてはならない用事があったのかもしれない。こっちに帰ってきていること自体、ギイは無理をしていたはずなんだから。
 そう自分に言い聞かせながら、でも黒い不安が心の中を過ぎる。
 この胸騒ぎは、なんだろう。ギイが記憶喪失だと知ったときでも、このような気持ちにはならなかったのに。
 テーブルの上の時計がピピッと9時を告げた。
 しまった。講義に遅れてしまう!
 不安を打ち消すように頬を両手でパチパチと叩き、ぼくは朝食もそこそこに慌てて大学に向かった。
 
 
"チケット上がったぞ"
 カルテットのリーダー、ビオラのリチャードが箱を片手に入ってきた。
"おぉ、これが来ると近づいたって感じるな"
 ムードメーカー、チェロのジェイク。第2バイオリンのロイが振り返り、わらわらと机の周りに集まる。
 3週間後の日曜日。2ヶ月ぶりの定期演奏会のチケットが出来上がってきたのだ。
"チケットいるやつ、先に取っておけよ"
 リチャードの言葉に、それぞれ頼まれた枚数を取っていく。この後、チケットは事務局で委託販売ということになるのだ。
 ギイと絵利子ちゃんと絵利子ちゃんの友達の分、貰っておかなくちゃ。
"あ、ぼくも3枚欲しいな"
 と手を伸ばすと、3人がギョッとした顔をしてぼくを見た。
"何だよ?"
"いや、タクミがチケット欲しいって言うの、初めてだからな"
"そうだったかな?"
"もしかして、ついにタクミにも春が来たってことか?!"
"そうかそうか。今回の『Destiny』は、さしずめ彼女の為の曲ってやつなんだな?"
 図星だろ?
 代わる代わる頭を撫でながらからかう3人に、ぼくの顔が赤く染まる。
"違うって!"
"照れるなよー。今度の定演はタクミの彼女がお目見えってことか"
"もう、違うってば!"
 ムキになるとろが可愛いんだよなぁ、と抜かすジェイクの頭をぽかりと殴ってやった。
 20歳も回って可愛いなんて、言われたくない!
 
 
"じゃあな"
"バイ"
 カルテットの練習を終え、仲間と別れたぼくは足早にマンションへの道のりを歩いていた。
「今日はギイの好きな肉じゃがでも、作っておこうかな」
 昨日のように帰ってこないかもしれないけど、何かしていないと落ち着かない。
 根拠のない不安を忘れる為には、何かをしているのが一番なのだ。
 スーパーマーケットに向かおうと歩き出した時、道沿いの電気屋のテレビから『ギイチ・サキ』の言葉が交じったような気がして、振り向いた。
 所狭しと並んでいる数台のテレビが、仲むつまじいギイとひとりの女性を映し出していた。
「どういこと………?」
"Fグループの御子息Mr.ギイチ・サキとカートンコーポレーションの御令嬢Missキャサリン・カートンが車に乗る所をキャッチしました"
"昨晩のパーティで、Mr.サキがデートに誘ったと訊いていますが?"
"では、このまま大物カップル誕生になるかもしれませんね"
 キャスターの声が、ぼんやりと頭の中を通過していく。
 どうなっているんだろ?こんなことあるはずないのに………。
 でも、何度も繰り返される映像と、立ち尽くしたぼくに舌打ちをして肩をぶつけて通り過ぎる人に現実だと知らされる。
 ぼくはその場を逃げるようにアパートに向かって走っていた。キャスターの声が、頭の中に鳴り響いている。
 ギイ、ぼくを抱き締めてよ………!違うって言ってよ、ギイ………!
 どこをどうやって帰ってきたのか。
 アパートのドアを後ろ手に閉めたぼくは、ずるずるとその場に座り込んだ。
「違うよね?ギイ………ギイ…………」
 あの二人の映像が、頭に焼きついて離れない。
 流れる涙を止めるすべもなく、ぼくはギイの名前を呼んでいた。
 そして………ブラックアウト。
 
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