雨の夜と風の囁き-3-

「あ…の………ギイ………」
「ん?」
 言葉にしたいのに、声が途切れる。ギイの口唇がぼくの体を、くまなく触れるたびに、体が熱くなっていく。今まで経験したことのない感覚に翻弄されていく。
「どうした、託生?」
 質問しているくせに初めから答えを聞く気がないように口唇をふさがれ、柔らかな舌がぼくの中に潜り込んできた。くすぐるように撫でられたかと思うと熱く絡ませ、溢れる唾液がぼくの口から流れ落ちる。そして、愛しそうにとがった牙を舐めていく。
「これ……って………なに?」
「これ?」
 ギイがぼくの中心に手を滑らし、キュッと握った。とたん、快感が体中を走り抜けていく。
「オレとこうするの、イヤか?」
「……イヤ………じゃない」
「気持ちいい?」
「うん………」
 昨日も、同じようなことをされた。
 これにどのような意味があるのかわからないけれど、誰かの前で裸になることも初めてだし、触れられるのも初めてだし、でも、これがぼくの快感を研ぎ澄ませ押し上げていくことだけはわかった。そして、ギイと一つになったとき、暖かななにかが自分の中から湧き出て満たしてくれることも。今だけは、ぼくは一人じゃないんだと。
 人間の世界で生きたことがないから、よくわからないけれど、ギイの腕の中はとても暖かい………。


 またこの屋敷で夜を迎えてしまったぼくに、ギイは「ドライブに行こう」と誘った。
「ドライブ?」
「あぁ、車に乗って、ちょっと遠出して」
「車……乗ったことがない」
「ない?」
「だってガラスや鏡に映らないのに気付かれたら、ぼく………」
 そんなことになったら大騒ぎになる。だから、ずっと歩いていた。運よく休めるところが見つかっても、長期間そこにいれるわけでもないので、数日でまた別の場所へと移動していた。
 こんなことを永遠に続けながら生きるなんて、なんの意味があるのだろう。
「オレと一緒なんだから大丈夫だ。それに暗いんだから車内まで見えないさ」
 にっこり笑ったギイになにも言えず、ぼくは言われるがまま車に乗り込んだ。窓にはスモークがかかり、これならぼくの姿も見えなさそうでホッとする。
 滅多にすれ違う車もない海沿いの道を走り、その車窓を流れる景色が珍しくて食い入るように見つめていると、「もっと景色が見えるところに行こうか」と、ギイは山の上にある展望台に連れていってくれた。
「うわぁ」
 広い空の下、キラキラとした光が見える。まるで地上の星だ。そのキラキラとした場所の向こうは果てしない暗闇が続く。これが海というものだろう。いつも森の中を彷徨い歩くぼくは見たことがない。
 昨日テレビで見た海は、どこまでも続く青が広がっていた。生き物のように姿を変えながら波を作り、岩を砕き、砂浜を撫で……。けれど、そんな風景は昼しか見れない。ぼくには絶対見ることのできない幻の海。
 人間とぼくの住み分けを考えれば、これが一番最善だろう。
 それなのに、ギイは………。
「寒くないか?」
「うん、大丈夫」
 夏とは言え、高地の風は強い。肩に回された腕と背中に感じるギイの体温が心地よくて、ぼくはギイの胸に頭を押し付け体重を預けた。
 こめかみにギイの口唇を感じ見上げると、ゆっくりキスが降ってくる。優しくて甘いギイのキス。他の人間のキスも、こんなに美味しいのだろうか。それを知っているから、人間の世界にキスなんてあるんだろうか。
 夜景を充分に堪能し山を下りたギイは、閑静な住宅街に入っていった。そして屋敷よりもずっと大きな建物の敷地に入り、ぼくに「すぐ戻るから」と言い置き、その言葉通り、すぐに戻って後部座席になにやら黒いケースを置いた。


 ドライブから帰ったあと、ギイは玄関横のサロン……って言うのかな?ピアノが置いてある部屋に入るよう促した。そして、後部座席に置いていたケースをぼくに差し出す。
「なに?」
「バイオリン。昨日、綺麗な音って言ってただろ?」
 ローテーブルにケースを置き、うながされるまま蓋を開けてみる。とたん、とても懐かしい風が吹いたような気がした。価値なんてものはぼくにはわからないけれど、これってすごく高価なものじゃ………。
 ケースから取り出し、そのままの流れでごく自然に肩にバイオリンを当て調弦を始めたぼくに、ギイが目を見張った。
「弾いたことがあるのか?」
「わかんない。ぼく、記憶がないんだ」
「記憶が、ない?」
「そう。いつのまにか、こうだった」
 どうせ永遠に生きていくしかないのだからと、月日を数えることをしなかったぼくには、いつ頃記憶がなくなったのかさえわからない。
 でも、ぼくは昔バイオリンを弾いたことがあるのだろう。頭で考えることなく体が覚えている。
 なんとなく音を鳴らしたつもりが、その味わい深い音色に引き込まれ、気付けば相当な時間バイオリンを弾いていたようだ。
 ギイは微笑みながら、そんなぼくをじっと見つめていた。


「怖くないの?」
「なにが?」
「ぼく、吸血鬼なんだけど」
「なにを今更」
 PCのディスプレイから目を離さず、ギイが鼻で笑う。
 今まで襲った人間たちは、誰もがぼくを恐れた。仲間にするつもりはないから記憶は消してあるけれど、もう一度会っても同じように悲鳴を上げるだろう。
 それなのにギイは、恐れるどころか、ぼくがここを出ていこうとするたびに邪魔をした。
「棺桶で寝るより、ベッドの上の方が体が休めるだろ?」
「だから、そんないかにもな場所で寝るわけないだろ?偏見もいいところだ」
「それは失礼」
 笑いながら、しかしあれやこれやと引き止める理由を作り、しかも毎晩、えーっと、その、人間で言うところの「襲う」行為でぼくを疲れさせ、結局のところ、ぼくは自分の住処に帰ることなく、あれからずっとここにいる。
 変なヤツ。
 ギイの広い背中を見ながら、深い深い溜息が零れ出た。
 どうして、こんな森の奥の屋敷に一人でいるのか知らないけれど、こうやってPCを触ったり電話をする以外、ギイはぼくの側から離れない。
「遠慮せずに、吸ったらいいじゃないか」
「………は?」
 くるりと椅子を回して、まっすぐにギイがぼくを見た。
「オレの血が欲しくて、ここに来たんだろ?」
「そう……だけ………ど…………」
 美味しそうな匂いがしたから、ここに来たけれど………。
「託生、おいで」
 呼ばれて、ゆっくりとギイに近づいた。とたん腕を取られ膝の上に座らせられる。
 鼻先に芳香な匂いが漂い、くらりと眩暈を感じた。吸血鬼の本能が、頭をもたげてくる。
「ここだろ?噛めよ」
 ギイが、自分の首を指差して、ぼくを促した。
 この白い皮膚の下に流れている赤い鮮血。近づいただけで、これだけ美味しそうな匂いがするのだから、さぞかし甘くて極上の味がするのだろう。
「ほら、託生………」
 抱きしめるようにギイがぼくの頭を、自分の首に押し付ける。
 しかし、ギイの肌に口唇が触れたとたん、目が覚めるようにハッとして口唇を離した。
「託生?」
「………できない」
 なぜだかわからないけれど、ギイの肌に傷をつけたくない。この綺麗な肌に、消えることのない傷跡を残したくない。
「オレの血を吸って、お前の血をオレに流し込めば、オレはお前の仲間になれるんだろ?」
「え?」
 仲間………?
「託生と、ずっと一緒に生きていける」
「………嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だっ!!」
「どうして?!」
「ギイには、普通の人間でいてほしい」
 限りある命の中で、生きていってほしい。ギイをこんな化け物の仲間にしちゃいけない。
「オレは、お前と一緒に生きていきたい」
「ダメだよ。こっちに来ちゃダメだよ、ギイ」
「託生とずっといれるなら、オレは永遠の命が欲しい」
「ギイ………」
 どれだけ魅力的な言葉なんだろう。
 死を知らず、彷徨い続けるには一人は寂しくて、でも、一緒にギイがいてくれるなら、そんな永遠の時間を過ごすのもいいかなと思うけど、
「………無理だよ。ぼくには、できない」
 この人には、太陽の下で生きてほしい。夜の闇にまぎれ隠れ生きるような、そんな生き方は似合わない。
「なぁ、託生」
「うん?」
「オレは、お前を愛してるんだ」
「え………?」
「愛してるって、わかるか?」
「………ごめん。よく、わからない」
 ぼくには、人間でいた頃の記憶はない。唯一事情を知っているはずの兄さんも消えた。人間の感情がどういうものか、ぼくは、もうとっくに忘れている。
「オレは、託生とずっと一緒にいたい。寂しい思いなんてさせたくない。なにより、これから先、オレの知らない時間を、託生に過ごしてほしくない」
「ギイ………」
 真剣な瞳に、ギイの本気が伝わってくる。
 愛しそうにぼくの頬に大きな手を滑らせ、口唇が重なる。忍び込んだギイの舌が、とがった二つの牙を、くすぐるように撫でた。
 どうして、ここに来てしまったんだろう。雨の匂いに消されることなく、ぼくを導いたギイの香りが、あのときよりも濃厚にぼくを包み込んでいく。
 ギイの体を受け止め、ぐにゃりと輪郭をなくしながら、でもヒヤリと冷めた部分がぼくに決断を促した。
 そうだよね。それがこの人のためだよね。人間と吸血鬼が相容れてはいけない。


 その日、ぼくはギイの記憶を消した。
 
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