雨の夜と風の囁き-4-

 インターホンのチャイムが連打されているなとぼんやり考えていたら、今度は枕元の携帯が容赦なく鳴りだした。切るつもりはないらしい。ということは………。
「あいつ………」
 完璧な遮光カーテンを閉めた室内では、現在何時なのか見当がつかない。ゆっくりベッドに起き上がり伸びをして、ナイトガウンを羽織り玄関に向かった。
「遅い!」
 ドアを開けるなり容赦なく怒鳴られ、眉間に皺を寄せた。
「勝手にアポなしで訪ねてきたのは、お前だろ、佐智?」
「自分の別宅に来るのに、アポなんて必要ないだろ。一応礼儀として鍵を開けなかっただけでも、ありがたく思ってほしいね」
 この暑い中待たされたからか、相当お冠のようだ。
 そりゃ、今はオレが借りているとはいえ、ここは井上家の別邸。しかも車であれば、都心からさほど時間がかからない立地だから、佐智がツアーの合間によく骨休めに来ている場所だ。佐智の言い分もわかるが、寝起きに怒鳴られるのは勘弁してほしい。
「なんだ、急に?忙しいんじゃなかったのか?」
 ロビーへの道を開けながら、怒りを背中に漂わせた佐智に問いかける。確かバカンス返上で、レコーディングがどうのこうのと言ってなかったか、こいつ?
「そうだよ。今日だって久しぶりの休みだよ」
「なら、ゆっくり休んでおけばよかったじゃないか」
 聖矢さんと一緒に、という言葉を飲み込んだのは、我ながらよくできたと思う。
 欠伸を一つしながら後に続くと、勢いよく佐智が振り向いた。
「誰のせいだと思ってるのさ。『お坊ちゃまの様子が、どうもおかしい』って島岡さんに聞いたら、素行調査に乗り込むしかないだろ?だいたい太陽も真上を通り過ぎた午後なんだよ。なに不健康な生活してるのさ?しかも屋敷中のカーテン閉め切って、まるで吸血鬼のようじゃないか。顔色も良くないよ」
「この歳になって、素行調査なんて………っ!」
 ねちねちと言いだした佐智に文句を言いかけるも、ズキリと頭に痛みが走り額に手をやる。
「義一君?」
 心配そうに覗き込んだ佐智に「なんでもない」と作り笑いを浮かべ、しかし、頭痛と共になにかを思い出しそうな、あやふやな感覚が脳裏を駆け巡り気分が悪くなる。
 って、なにかって、なんだ?
 自分で言うのもなんだが、桁外れの記憶力を持っている。忘れたくても忘れられない、全てがスライドショーのように繋がっているような記憶なのに……。
「島岡がわざわざ、お前に頼んできたのか?」
「頼まれたわけじゃないけどね。それに、近々こっちに来るらしいよ」
「島岡が?そんなこと言ってなかったぞ」
「仕事絡みらしいけど、それこそアポなしで、ここに来るつもりじゃないのかな。それで困るのは義一君だと思ったから」
「知らせてくれたってわけだ」
「そういうこと」
「島岡もそれがわかってて、佐智に言ったんだろうけどな」
「だろうね」
 過保護親父に「品行方正に暮らしていましたよ」と伝えるためにな。
「あれ?バイオリン、持ってきたの?」
 突然、素っ頓狂な声を上げ、佐智がサロンを覗き込んだ。
「え?」
「あれ、義一君のストラディバリじゃないのかい?」
 ガラス格子のドアの向こうに見えるピアノの上に、なぜかバイオリンケースが無造作に置いてあった。
「お前の予備のバイオリンじゃないのか?オレは、ここに入ってないぞ」
「……僕のバイオリンだとして、何週間もここに来ないかもしれないのに、あぁいうふうに置いておくと思う?」
 確かに。愛器のアマティじゃなくとも、こいつが楽器を放りっぱなしにするはずがない。
 足早にサロンに入りカーテンを全て開いた佐智は、バイオリンケースを取り上げ中を確認した。弓と共に取り出したそれは、誰も弾くことのないストラディバリ。東京の実家にあるはずの……。
「うん、やっぱり義一君のバイオリンだよ。東京から持ってきたんだろ?」
「そ……うなのか?」
「そうなのかって……義一君、しっかりしてよ。君、さっきからおかしいよ?」
 バイオリニストの性なのか、当たり前のように佐智が調弦を始めた。それを、いつものようにソファに腰掛け………いつものように?
 まるで頭の中に霧がかかっているようだ。なにかがおかしい。どうして東京にあるはずのバイオリンがここにあるんだ?どうしてこんなに既視感があるんだ?
 頭痛がひどくなり眩暈まで感じてきた。胸の奥にあるもやっとしたものが、不安の色を添え大きくなっていく。
 手早く調弦を終えた佐智が、確認するように小曲を弾きだした。
 とたん、今までとは比べようもないくらいの頭痛が襲い、両手で頭を抱えた。ぐるぐると回る視界に冷汗が滲む。
「う………」
「義一君?!」
 呼吸と呼応するようにズキズキと痛む頭に、映像が流れ込んできた。嬉しそうに楽しそうに音と戯れている姿が。あれは誰だ?
「義一君!」
『ギイ』
 オレを心配そうに覗き込む佐智の顔が、誰かと重なった。


 声を潜めた会話が耳に届き、オレは目を開いた。ここは?
「義一君!」
「気が付かれましたか?」
 眩しくて目を細めた視界に、見慣れた二人の姿が映る。
 あぁ、頭痛がひどくなって倒れたのか。
「佐智、島岡……」
「連絡したら成田に着いたところだったんで、そのまま来てもらったんだ」
「そうか。迷惑をかけてすまなかったな」
 ソファで横になっていたらしい体を起こすと、窓の向こうに赤く染まっている空が見えた。カーテンを閉め切り昼夜逆転の生活をしていたオレが、この空を見るのは何日ぶりだろうか。
「佐智さんにお話をお聞きして、勝手ながらロビーの監視カメラをチェックさせていただきました」
「あぁ、それで、なにかわかったか?」
 自分の行動がわからない。そんな不可解な状況を知るためには、記録をさかのぼるのが最善だろう。
 島岡はPCをサーバーに繋げ、ディスプレイをこちらに向けた。
「ちょうど20日前です」
 ロビー全体を見下ろすように設置された監視カメラには、この部屋のドアが隅に映っている。表示されている時刻は、午前2時過ぎ。
 玄関からオレが入ってきた。あの黒いバイオリンケースを下げて。もちろん一人でだ。
 やはり、あのバイオリンはオレが持ってきたのか。しかし、そんな記憶はオレの中にはない。まさか夢遊病なんて落ちじゃないだろうな。
 様子を見ていると、オレは誰かをロビーに招き入れているように見えた。しかし、そこには誰もいない。そして、見えない誰かを促しサロンに入っていく。しばらくしてバイオリンの音が聞こえてきた。スピーカーから聞こえてくるような音ではない。力強いリアルなバイオリンの音だ。
「義一さんではないですよね」
「あぁ。オレに弾けるわけがない」
「でも、この部屋に入ったのは、義一さん一人」
 なにかを思い出せそうだ。とても大切な。なぜならバイオリンの音が、オレの心をざわめかせている。
「この音………」
 それまで側で黙っていた佐智が、驚いたように呟いた。
「佐智、知っているのか?」
「でも、彼は………」
「なにか知っているのなら、教えてくれ!」
 詰め寄るオレに、佐智は躊躇いながら口を開いた。
「一度だけ発表会で、この音を聞いたことがある。演奏者は葉山託生くん」
 名前を聞いた途端、それが鍵となりオレの記憶の扉が開いた。その名前が心に染みわたり、託生の笑顔があざやかに浮かんでくる。
「託生………」
 そうだ。オレは託生とここにいたんだ。あいつが弾いているバイオリンを、このソファで聴いていた。
 どうして忘れていたんだ。夢のようにオレの前に現れて、オレの心を一瞬にして奪ってしまった愛しい人を。あの笑顔を。全部、思い出したよ、託生。
 しかし胸のつかえが取れたものの、オレの心は晴れない。
 あいつは、オレの記憶を消して出ていったのか………。
「託生くんが、ここにいたのかい?」
「あぁ」
「でも彼は、発表会の帰りに交通事故に遭ったらしくて……ぼくは、すぐに留学したから、彼がどうしているのかわからなかったんだけど……」
「それは、いつの話だ?いつ、交通事故にあった?」
「三年前だよ」
「三年前?」
「気になって須田先生に挨拶に行ったとき聞いてみたんだ。でも託生くんのことを先生は覚えていなかった」
「なに?」
「他の人に聞いても誰も覚えていなくて、もしかしたらぼくの記憶違いなのかと思っていたけど、この音だよ。絶対、託生くんだ」
 きっぱりと佐智が言いきった。
 それならば、託生は三年前までは正真正銘の人間だったということだ。その交通事故が原因かどうかわからないが吸血鬼になり、そして記憶も失った。
 もしかして託生も記憶を消されたんじゃないだろうか?たった三年前のことを忘れるはずがない。託生の記憶と共に関係者の記憶を消した別の誰かがいる?
「どういうことか教えていただけないでしょうか?この不可解な現象も、貴方がこのような昼夜逆転の生活を送っているのも」
 推理を始めたオレの思考を、島岡の声が引き止めた。説明しない限り納得はしないだろうし、これからの事を考えれば協力者は必要だ。
 二人が見つめる中、オレは託生との出会いから記憶を失うまでの数日間を話し始めた。
 
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