波間を照らす月-1-

 大人のニューヨーカーが着飾り街に繰り出すこの時間、仕事用のスーツを着ている自分が野暮に思えるが、こればかりは仕方がない。実際、仕事中なのだから。
 帰社時間を三十分ほど遅らせ、洒落たレンガ造りのマンションの前に車を止めた。
 内ポケットに入れたUSBメモリーを服の上から確認し、インターフォンを鳴らす。事前に連絡を入れていたので、応答の声がないままロックがカチリと解除された。
 エレベーターで何度か通った階まで上がり招き入れられた部屋には、上品な調度品が飾られ、落ち着いた女性らしい甘い香りが漂っている。
「やっと手に入れたよ」
「ありがと」
 艶っぽく女が微笑み、受け取ったUSBメモリーをテーブルの上に置いたノートに刺して、ざっと中身を確認した。
「どう?」
「さすがね」
「だろ?」
 男が甘えたように女の背後から腕を回し頬を寄せた。その腕に白い手を添え、
「今日は泊まっていくでしょ?」
 女が自分を抱きしめている男に視線を流す。
 一般的なノーマルな男として女に誘われて悪い気はしないが、今日は生憎そういう気分じゃないんだな。仕事中だということを抜きにしても。
 一度この女と寝たら病みつきになるだろう、極上品の体。
 ただ、今の自分は快楽に溺れる余裕が全くないだけの話だ。
「がんばったご褒美を貰おうと思ったんだけど、社に戻らないといけないんだ」
「あら。もしかして抜け出してくれたの?」
「だって、早い方が良かったんだろ?その代わり、今度のオフは大人のデートをお願いしたいな」
 男の思惑など気付く様子はなく、残念そうな口調で、しかし、しっかりデートの約束を取り付けるような子供っぽい行動に女は声を出して笑い、
「いいわよ、ボーヤ」
 約束の印と男の口唇に口づけた。
 女の部屋をあとにし駐車していた車に乗り込んで、普段はあまり吸わない煙草に火をつける。高揚している気分と溜息を煙と一緒に吐き出した。
 ぼんやりと少し開けた窓から流れ出る煙を視線で追い、自嘲気に口元を歪ませる。
 この世界は情報が全てだ。誰よりも早く情報を掴み、そして有効活用していく。どの分野においても最先端を行かなければ生き残れない。
 だからこそ産業スパイなんてものが、どこにでもいる。
 さっきの女のように、金で体で情報を手に入れ、相手会社に売りつけるブローカーのようなヤツも数多い。
 まさか自分が声をかけられることになるとは思わなかったが。
 あの女。自分を利用しているつもりで、まさか利用されているとは露にも思っていないだろう。
「こんなチャンス、みすみす見逃せないよな」
 あのデータが誰に渡っていくのかはわかっている。それによって、どういう事態を引き起こすのか。そして、自分がどうなるのか、も。
 もう、すでに覚悟はついていた。
 短くなった吸殻をアッシュトレイに押し付けエンジンをかけた。
 ヘッドライトに照らされた街角をうっとりと見詰め、男は低いエンジン音と共に街の中に消えた。
 
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