波間を照らす月-2-

 ふらりと事務所に現れるのはいつものこと。でも、Fグループの副社長なんだから、こんなに頻繁に抜け出したら、仕事に差し支えるんじゃないかと人事ながら心配になる。
 防音室で練習をしていたら、おざなりのノックと同時にドアが開きギイが顔を覗かせたのだ。
「ギイ」
 諌めるつもりで名前を呼ぶと、
「いいじゃん、別に。動いてる託生を見るの、四日ぶりなんだぞ?」
「ぼくはロボットか……」
 子供のような言い訳に、ぼそりと呟いて脱力した。
 ソファにどさりと腰を下ろし、内ポケットを探ろうとした手を睨みつけると、ギイがぼくの視線に気付いてその手を頭の後ろで組んだ。
 はい、ここは禁煙です。
 ペントハウスと同じくベーゼンドルファーのモデル214が置いてある場所で煙草なんてとんでもない。用意してくれたのはギイだけど。
「仕事の邪魔をしているつもりはないぞ」
「でも、練習の邪魔だよね」
「気にせず練習すればいいじゃないか」
「だから、人前では練習したくないの」
 これはプロの意地だ。これでお金を貰っている限り、たとえギイ相手であっても、いやギイだからこそ、最高のものを聴かせたいし聴いてほしい。
 というのを百も承知のはずなのに。
 大きな溜息を吐いてバイオリンをケースに置き、ソファに体を投げ出しているギイの隣に座った。
「ぼくがNYに来たことで、ギイが仕事を疎かにするのは嫌なんだ」
「疎かにはしてないぞ。託生を充電しないと動けないんだよ」
 言いながらぼくを抱きしめ髪に顔をうずめる。
「んー、生き返る」
「大袈裟だよ」
 自分が納得するまで居座るつもりなんだろう。説得を諦めて背中に腕を回した。
 ぼくだってギイの顔を見るのは四日ぶりなんだ。寝ている間に帰ってきて、早朝仕事に行ってしまっているのだから。
 頬をすべりギイの口唇がたどり着く。欲をぶつけるような性急な激しさはなく、ただ穏やかに吐息を交換して鼻の頭をぶつけた。
「ここに来る時間にお仕事して、早く帰ってきてくれたほうが嬉しいんだけど」
「オレも早く帰って託生を抱きたいよ」
 ここぞとばかりに過激なことを言うも、そのままずるずるとぼくの上半身をすべり足に頭を乗せる。
 疲れてるんだろうな。
 どれほどの重圧がギイに圧し掛かっているのかぼくには皆目わからないけれど、ギイの一声で経済界が変わると言われている世間の評価を見ると、それだけの動きをギイがしているからだ。
 何万人もの人の生活が、この肩に乗っている。
 学生の頃、今とは比べ物にはならないけれど、グロッキーになったギイが、よくぼくの膝枕で休んでいたっけ。二人の時間を持つことで、ギイは自分のコンディションを戻していた。
 毎回、島岡さんや松本さんが迎えに来るけれど、ギイが抜け出すのを見て見ぬ振りをしてくれているんじゃないだろうか。
 いや、たぶん、そうなんだろう。でなければ、本社ビルの一階ロビーでギイは足止めされているはずだ。
 しばらくして小さくノックの音が響き、ギイが渋々頭を上げた。どうせ返事をしても声は届かないのでドアを内側から開けると、案の定桜井さんが立っていた。
「あの、副社長は?」
「ギイ」
 振り向きざま時間切れだと匂わせ、退出を促すようにドアから一歩ずれる。
「副社長、お迎えにあがりました」
 と同時にドアの向こうから聞き慣れない声がし、そちらに視線を移すと落ち着いた感じの綺麗な女性が現れた。
 Fグループ本社に女性社員がいるのは当たり前のはずなのに、ぼくは驚きを隠せなかった。今まで見かけた人が男性ばかりだったから、このように女性がギイの側にいることを考えられなかったのだ。
 秘書である島岡さんや松本さんに代わってギイを迎えに来るということは、この人はギイに近い立場の人間なのだろうか。
「わかった。ロビーで待っててくれ」
 いつもならグダグダと文句を並べるのに、ギイは大きな溜息を一つ吐いて指示を出し、素直に立ち上がった。
 その態度にムッとする。……それがくだらないヤキモチだとは自覚してるけど。
 一礼して出ていった彼女をなんとなく見送ってしまっていたぼくの肩をギイが掴んだ。
「託生」
「うん、なに?」
「………いや。来週三日間のオフだろ?」
「そうだけど」
「オレも同じ日に休みを取ったから」
「ほんとに?」
 ギイが連休を取るのは、きわめて難しいことをぼくは知っている。せいぜい一日オフが重なればいいほうなのに、それが三日間とは。
 あぁ、そのための連日不眠不休なのか。
 ギイの忙しさに納得して、
「楽しみにしてるね。でも無理はしないでよ」
 にっこり笑うと、ギイは満足そうにぼくにキスをした。
 
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