波間を照らす月-4-

「あ……れ………?」
 見覚えのない部屋。清潔なシーツ。
 ここは……?
 ベッドに起き上がり部屋をぐるりと見回して、隅に置かれた自分の鞄が目に入ったとき、全てを思い出し頬に血が上った。
 誰もいないけれど恥ずかしくなって枕に顔をうずめる。
 いつ誰が通るかわからない廊下を背に、ギイの口で………。
「あー!思い出すの、やめっ!」
 頭を振って思考を蹴散らす。そうしないと、また体が熱くなりそうだ。
 ギイだけじゃない。ぼくだって二週間ぶりだったのだから。
「今、何時だろ?」
 思考を切り替え時計を見ようとして、サイドテーブルに置いてある白い封筒が目に入った。
 ぼく宛だ。ギイが置いていったのかな?
 折っただけの封を開けて中の紙片を取り出すと……。
「うわぁ!佐智さん、今ミュンヘンにいるんだ」
 今夜の日付が入った、佐智さんのコンサートチケット!
『オレは行けないけれど、楽しんできてくれ。託生のスーツはクローゼットに入っているから。佐智によろしく。今夜は絶対帰るから寝るなよ―――G』
 と書いてあるギイのメモも同封されてあった。
 詫びのつもりだろうに、きっちり自分の要求を忘れないところがギイだよね。
 コンサートチケット一枚で機嫌が直る自分を現金だなぁと笑いつつ、今度こそベッドから起き上がり、しわくちゃになった服を脱ぎ捨てバスルームに向かった。


 ヨーロッパの町並みは好きだ。新しく建設された建物もあるけれど、風情を残し優しく包み込んでくれる。特にドイツはグリム童話の中に飛び込んでしまったかのような気分になる。
 フランスのパリに留学したとき。ギイを思い出してボロボロになって日本から逃げたぼくを、あの古い町並みが癒してくれた。
 どこからともなくパンの焼ける匂いが漂い、人々の生活音が耳に届き、細い石畳の道を、そしてセーヌの辺を歩き、ぼくはバイオリンを弾く生活にどっぷり浸かることができた。
 あの赤い夕焼けを見たときには、ギイを忘れることはできないんだと覚悟を決めたけれど、それは哀しいを通り越してやけに清清しい気分になったことを覚えている。
 こんな自分でも人を愛し続けることができるんだ、と。
 音楽をやっている人間にとって、留学先はドイツという選択肢もあったのに、ぼくがフランスに行ったのは、今思えばギイの中に四分の一流れるフランス人の血のせいだろう。
 ギイを忘れたいと思いながら、ギイと繋がっていたいなんて、相反するものだけど、あの頃はいっぱいいっぱいで、自分のことなのに気付かなかった。
 でも、あの二年間の留学生活は、ぼくの人生を変えたと思う。
 バイオリンの技術もそうだけれど、自分の人生観と言うか価値観と言うか、狭い世界で代わり映えのしない日々を送っていたぼくの頑固な考え方を、粉々に砕いてくれた。
「託生に見せたいものが世界中にある」
 学生時代、ギイはそうぼくに言った。
 でも、あの頃のぼくは、ギイが言う「世界」とは、景色や建物など目に見えるものを指しているのだと思っていたのだ。
 だから、言葉も生活習慣も知らないと言い訳を口にし、ギイが開けてくれているドアをくぐることはできなかった。とても遠かった。未知の領域と言ってもいい。
 でも、今ならわかる。ギイが言っていた「世界」というのは、そういうものじゃない。
 小さな殻の中で育てたちっぽけな価値観を取り払い、ぼく自身を成長させたかったんだ。
 「愛してる」に込められていた、ギイの深い想い。
 認識できず受け取れなかった子供のぼくは、別離を選択した。
 でも、今なら、全てを受け入れられるような気がする。いや、そうであってほしい。
 ぼくだって、ギイを愛しているのだから。
 ミュンヘンの街が夕闇に包まれ、街燈の明かりがぼんやりと灯っていく。街が優しい色に包まれていく。
「うん。やっぱりグリム童話だ」
 絵本を抜け出してきたかのような風景に溜息を吐き目を細めた。
 クラシック音楽のルーツがヨーロッパだからかもしれないけど、ぼくにとってヨーロッパはとても身近な存在のような気がする。
 でも、そう言うと、ギイはちょっと拗ねるかな。
 NYにもいいところはあるぞって。


 チケットを渡し会場内に入ると、華やかに着飾った人々で溢れかえっていた。
 さすが佐智さん。
 ギイも、よくチケットを入手できたもんだ。大木さんか、もしくは佐智さん本人に頼んだのかもしれない。あとでお礼を言わなくちゃ。
 座席を確認しようと壁際に歩きかけたとき、その人に気付いた。
 人の顔を覚えるのが苦手なぼくだけど、この人だけは覚えてしまった。
 人ごみに紛れ込むように立っている、先週、事務所にギイを迎えに来た女性だ。
 なぜ、ここに?
 あの人もギイに付いてドイツに来ていたのだろうか。それにしては、今のドレスアップしている姿は、仕事とは無関係のようだけど。
 ふと彼女がなにかに気付いたように入り口を見詰め、そして何事もなかったかのように、すっと方向転換して客席に向かうドアを開けた。
 人を待っていたんじゃないのか?
 ぼんやりと女性を見送りつつ、ぼくは違和感を感じていた。
「あの人も佐智さんのコンサート聴きにきたんだ……」
 ロビーの中にいる人々は佐智さんのバイオリンを心待ちにし、誰もが浮き足立って幸せそうな表情をしている。
 しかし、彼女は違ったのだ。音楽を楽しむような雰囲気は微塵も感じられなかった。
 じゃあ、彼女はどうして、ここにいるのだろう……。
 
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