波間を照らす月-5-

 オフ返上のドイツ出張を終えNYに帰ってきたオレは、数ヶ月前から話を進めてきた技術提供の詰めの打ち合わせを、相手方フェラー・コーポレーションの本社で行うため訪れていた。
 しかし。
「契約は白紙と。そう言われるんですね?」
「はい。我が社の研究所も黙ってみているわけではありませんので」
「……なるほど。そちらでも研究を重ね、結果が出たと?」
「そういうわけなのです。ですから、もうFグループの提携なしで事業を進めることが可能になりまして」
 自信ありげに白紙撤回だという男を鼻で笑った。
 自社だけでなんとかなるのならば提携なんて野暮だ。利益の取り分が少なくなるからな。
 しかし、この男は目の前にあることだけしか考えられないようだ。今回はともかくとして、Fグループとの繋がりを蔑ろにできるほど大きな企業ではないのに、あっさりと切り捨てるとは、自社の未来を全く考えていない。おめでたいことだ。
 自分の息子ほどの歳のオレに頭を下げるのが、よほど気に入らないらしい。
 それはそれで構わないが、この提携話が出たときに、フェラー・コーポレーションが研究をしていた事実はなかったはず。
 となると……。
 まぁ、いい。それは本社に帰ってから考えるか。
「わかりました。では、この話はなかったということに」
「ご足労いただきまして、ありがとうございました」
 外交用の笑みを浮かべその場をあとにする。
 同席していた島岡が車に乗るや否や、モバイルで本社のサーバーにアクセスしだした。


「島岡、どう思う?」
「ありえませんね。仮に同じ研究をしていたとしても、前提にあるものでさえこちらは公表していません。それがなければ、この研究は成し遂げられない」
 戻ってきた副社長室で、フェラー・コーポレーションの情報を再確認しつつ相槌を打った。
 やはりな。いったい、どれだけの金を使ったのやら。
「漏れたか」
「十中八九、それしかないでしょうね」
「だな」
「産業スパイってことですか?!」
「たぶんな」
 大人しくオレ達の話を聞いていた松本が息を飲む。
 どれだけセキュリティを強固にして外部から守ったとしても、内部の人間が持ち出すことは可能だ。
 さて、どこから漏れたのか。研究所内の関係者が有力だが。
「でも、あのデータって……」
 遠慮気味に指摘した松本に、ニヤリと笑う。
「そう。お前も知っているとおり、一部が足りない」
 元々技術提供をする話だったのだ。
 データを渡さずこちらで処理し、結果をあちら側に渡す契約になっていた。だから、データをどうやって保管しようがあちらに言う必要もない。
 オレでさえ、一部欠けた状態でしか見ることはできないんだ。
「あれは軍事転用ができるものだから、誰もがアクセスできるわけではないし、全てのデータは所長が持っている。研究員が知っているのはその内の九割ほどだ」
 だから、もしもフェラー・コーポレーションにデータが漏れていたとしても、今すぐ慌てる必要はない。使うことができないのだから。
 まずは、事実調査からだな。
「島岡。今までに似たようなケースがあったか研究所の所長に確認を取ってくれ。他の部署もだ」
「わかりました」
「松本は、フェラー・コーポレーションの研究所が、いつからこのデータを研究し完成させたのかを調べてくれ。そんな事実はないと思うが一応な」
「はい!」
「情報提供者のいぶり出しは、そのあとだ。まずはデータ漏洩の事実を突き止めるのが先だからな」
 オレの指示に、足早に島岡は退出し、残った松本が机に広げた資料を慌しくまとめ始めたのだが、今日は眼鏡をかけているせいか別人のように見えて、じっと松本を凝視していたらしい。
「副社長、どうしました?」
 オレの視線に気付いた松本が、訝しげに聞く。
「いや……お前も眼鏡をかけると印象が変わるなと思って」
「え?どんな感じにですか?似合ってますか?」
 とたん、はしゃいだ様子で松本が嬉しそうに笑うのを見て、溜息を吐いた。
 この状態で、はしゃげるお前は、ある意味大物だよな。
「それなりに知的に………黙って立っていればな」
「副社長、ひどい……」
 よよよと泣きまねをしている松本に、
「ほら、さっさと行ってこい」
 発破をかけて部屋から追い出す。
 デスクの上に置いてあった煙草を手にし、火を灯し深く紫煙を吸った。
「誰だか知らないが、あのデータに手を出すとは命知らずだな」
 軍事転用できると想像つかなかったのか。その時点で、手を引けばよかったものを。
 喉の奥で笑いを噛み殺した。
 
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