波間を照らす月-6-

 NYに移転するときにギイが用意してくれた事務所は、ビルのワンフロアー全てを占めていた。
 エレベーターを降りるとすぐに入り口があり、セキュリティカードがないと入室できず、しかも常時SPのマイケルかジョンが入室者と不審物をチェックしている。
 日本とは全く違う厳重な警備に、
「ここはNYだし、Fグループ傘下だと知られているから、念のため、な?」
 ギイは申し訳なさそうに説明した。
 裏を返せば、それだけギイは危険と隣り合わせなのだと思い知らされる。
 普段何人ものSPが付き、オフでさえも衛星で常時居場所をチェックされ、普通の人間ならばその煩わしさに発狂してしまいそうな状況の中、あの強い精神力で維持している。
 その精神力を揺るがしてしまうのが、たぶんぼくなのだろう。あの十年前の事件も、ギイの心配性に拍車をかけていると思う。
 だから、せめてギイが不安にならないようにと、自分の行動に注意するようになった。
 VIPでもないのに送迎されるなんてと、ここに来た当事は思っていたが、これもギイを安心させるためなのだと思えば目を瞑るしかない。
 桜井さんには仕事を増やして申し訳ないとは思うけど。


 ぼくの仕事はバイオリンを弾くことだ。なので、これと言った打ち合わせがなければ、事務所に来ずともペントハウスで練習しても構わなかった。ギイが勿体ないくらいの防音室を作ってくれているのだし。
 でも、自分の中でメリハリがつくような気がして、同じ時間に事務所に行き、バイオリンの練習をしたり作曲したりして、同じ時間に帰ってくる。急な仕事が入ったときでも、すぐに対応できるし。
 ぼくって、サラリーマン体質なのかな。
 今日も朝から事務所に来ていたけれど、なんとなく気分が乗らなくて、お茶でも飲んでこようとスタッフルームに足を向けた。
「託生様?」
「気分転換にお茶でも飲みに行こうと思って。一緒に飲みませんか?」
 防音室の前の椅子から立ち上がったマイケルに声をかけ、二人並んで廊下を歩き事務所の入り口付近に差し掛かったとき、桜井さんの声がした。
「わざわざ、ありがとうございました。お預かりします」
「いえ、今から空港に行く途中でしたので、ついでですわ」
「これから出張ですか。道中お気をつけて」
 廊下の影からそっと覗いて相手の顔を見るなり、なんとなく顔を合わせたくなくて立ち止まった。
 あの女性だ。ここにギイを迎えに来た。
 にこやかに桜井さんと挨拶を交わす姿にまた違和感。
 普通に笑えるんだ、あの人。
 佐智さんのコンサートでの表情が脳裏に浮かび、そのあまりの違いに首を捻る。棘が刺さったかのようになにかが引っかかる。
「託生さん。どうされましたか?」
「あ……お茶でも飲もうかと……」
 いつの間にかあの女性は退出し、桜井さんがぼくに気付いて声をかけてきた。その桜井さんの手に小さな紙袋が一つ。
「あぁ。DVDのマスターの最終チェックが終わったので、持ってきてくださったんですよ」
 ぼくの視線に気付いて桜井さんが説明した。
「最終チェックって、本社でやってるんですか?」
 この事務所はFグループ傘下とは言え、どちらかと言えばギイの個人的主観で作られたものなのに、そこまで本社が携わっているのだろうか。
 小首を傾げると、桜井さんはごくごく当たり前のように理由を言った。
「いえ、副社長がチェックなさってるんです」
「は?」
「DVDだけですが」
「毎回?」
「はい、毎回」
 初耳だ。知らなかったぞ、そんなこと。
 それと同時に、ギイが最終チェックをする理由が、なんとなく理解できて脱力した。
 以前、ライブDVDの話が出たとき、
『託生の映像をバラまきたくなかったんだよ』
 なんてバカなことを言って反対していたからなぁ。
 そりゃ、ぼくもCDはともかくとして、ライブDVDの発売に需要があるのか?と疑問を浮かべたが、事務所内で決定したことに異議を唱えたことはない。
 マネージメントのプロ集団ということ以上に、何年も一緒に働いてきた仲間だ。だから、ぼくはスタッフに任せておけば大丈夫と全幅の信頼を寄せている。
「お帰りになってからで構わないので、一応、託生さんもチェックしてもらえますか?」
 がっくりきたぼくに頓着せず、桜井さんは紙袋を渡しながらにこやかに宿題を言いつけた。


 DVDをペントハウスに持って帰っては来たけれど、自分の演奏している姿をこういう風に見るのは実に恥ずかしい。何度経験しても慣れない。
 第一、ぼくがこれを見たところで、なにをチェックしたらいいんだろうと、いつも思う。
 しかし、これも仕事の一つだと思いながら赤面しつつテレビ画面を見詰め、約二時間に渡るコンサートの終盤、アンコールの拍手が鳴り響く中、客席が映った。
「あれ?」
 その客席の中に違和感を感じ、早戻ししてスロー再生してみた。そしてあるシーンで一時停止をしてじっくり画面を見てみる。
「やっぱり、あの女性だ……」
 右の端に小さく映った、今日の女性。
 ぼくのコンサートにも来ていたんだ。
 しかし、彼女だけ周りから浮いていた。佐智さんのコンサートで見たときのような冷めた表情で、だからこそ普通なら見過ごすシーンに違和感を感じたのだ。
「まさか、他のコンサートにも来てないよね?」
 なんとなく気になって、今までのDVDを片っ端からプレーヤーに入れ探してみたところ、その内の二枚。先程より遠く小さいのに、ぼくは、彼女に気がついた。
 奇妙な違和感を感じながら。
 
PAGE TOP ▲