Reset -11-

 シャワーを浴びてギイの部屋に行くと、ギイはコーヒーを用意して待っていてくれた。
 ぼくの部屋と同じような石造りのクラシカルな部屋なのに、全く似つかわしくないシンプルなベッド。猫足のサイドテーブルもこれまた機能的なテーブルに変わっており、ソファーに至っては黒い皮製だ。
 ここでもまた我侭を言ったのかと呆れてしまう。
 腕を引かれてソファに座ると、当たり前のように隣にギイが座った。テーブルを挟んだ距離感が、ここまで縮んだ事に笑みが漏れる。
 抱き寄せられギイの腕の中にすっぽり納まると、ギイはぼくの髪に口唇を寄せキスを落とした。無言で何度もキスしながら髪をかきあげ、考えをまとめようと思案しているようだった。
 一体、10年前に何があったのだろう。
「ギイ」
 全部教えてほしいと見上げると、ギイは覚悟を決めたように表情を堅くし、
「話を聞いた後、託生がどうするかは自由だから」
 そう前置きして話しはじめた。
「託生の命を狙われたのが、過去に2回ある」
 全く思いつきもしなかった言葉に、思考が停止する。
 命を狙われた……?
「え……?」
「一度目は車のスリップ事故を装って、二度目はホームから突き落とされそうになって」
 あ………。
 人生に置いて数少ない出来事に分類されるであろう事故は、ぼくの記憶にはっきり残っている。
 でも、それって。
「もしかして1月に外出した時と受験の時の事?」
「そう」
「あれは事故だろ?」
 久しぶりの晴天に雪が溶けて、慣れない山道を走っていた車がスリップして、学校に向かって歩いていたぼくに突っ込んできた。咄嗟にギイがぼくごと横に飛び込んで、事なきを得たけれど。
 そして、ホームから転落しそうになったのは、背後にいた人が眩暈をおこして倒れたからだ。あの時もギイが助けてくれた。
 どちらも偶然が重なった事故だと、今の今まで疑うこともなく思っていたのに。
「ギイ、事故じゃなかったの?」
「あの事故を起こした二人は、もういない」
「え………?」
 それは、どういう意味?まさか……。
 まっすぐと向けられた視線が、ぼくの予想が真実だと物語っていた。
 ぼくの周りでぼくの知らない事があった事実に、今更ながら驚きと恐怖が心を占める。体の震えが止まらないぼくをしっかり抱きしめて、ギイが頭を下げた。
「あれはオレのせいだったんだ。今更謝って済む事じゃないけど、すまなかった」
「ギイ、教えてよ。いったい、10年前何が起こってたの?」
 中途半端に知っているより、全てを知りたい。
 ギイは遠い過去を思いだすように、ゆっくり話を続けた。
「脅迫状が届いていた……。『葉山託生と別れろ。別れなければ失う事になるぞ』ってな。祠堂内でよくある子供騙しみたいなものだと思っていた。しかし、脅迫状は脅迫状だ。出所を調べていたんだが、どれだけ調べてもわからなかった。そんな時に、あのスリップ事故だ。翌日『次は成功させてみせる』と、手紙が届いた」
 その時の感情をよみがえったのか、ギイの握りしめる手から血の気がなくなっていく。力を入れすぎた拳を両手で包んで宥めるように撫でると、高ぶった感情を静めるように、ギイは何度か大きく息を吐いて話を続けた。
「これは祠堂内の話ではないと、間抜けな事にそのとき初めて気がついた。すぐに調査機関に依頼し、託生の身辺に気をつけていたんだ。外出時が一番危なかったから」
 そう言えば、ぼくが麓に行こうとすると、
『買出しなら、オレが行ってきてやるよ。風邪でも引いたら受験に差し障るぞ』
 そう言って、ギイはぼくが祠堂から出るのを止めていた。
 心配性だなぁと笑っていたぼくは、ギイの心情に全く気付いていなかったんだ。
「それでも、受験会場に行くのを止めるわけにはいかなかったから……」
 そうだった。
 音大の受験に行くのに「送らせてくれ」とホームまで見送りに来てくれたギイの目前で、ぼくは転落しそうになったんだ。
「『運がいいな。次はどの手を使おうか』。調査機関の報告書も真っ白、卒業も迫っていた。オレが帰国した後、オレの知らないところで託生が殺されてしまうんじゃないかと、気が狂いそうになった。でも、託生を手放す事なんて考えられなくて」
「ギイ……」
 一歩間違えば、二人とも転げ落ちていてもおかしくはない状況だった。
 電車の警笛と周りの人の悲鳴、そしてわずか数センチの差で眼前を走り抜けて行った車両。パニックになりかけたぼくを必死で宥め、すぐさま学校に連絡しどのような方法を取ったのかは知らないが、ギイはその後ずっと付き添ってくれたのだ。
「託生が悩んでいたのは気付いていた……いや、託生が不安定なのを良い事にオレが仕向けたんだ」
「ギイ?」
「お前の命がかかっているのに、オレは言えなかった。………どうしても託生を手放せなかった!」
 両手を組んで額を押し付け、振り絞るようにギイが告白する。
 ぼくが不安になると必ずきっちりとフォローして、その後ギイはぼくを愛している事を念を押すように言い聞かせた。
 腕の中にしっかり包み込まれて、何度も何度も「愛している」と耳元で囁かれて。それで心が穏やかになったのは、一度や二度じゃない。
 思い返してみれば、卒業間際、そのようなフォローが一切なかった。ゼロ番に行けばいつも忙しそうに携帯で話していて、その状態に耐え切れなかったぼくが「帰るよ」と言うと、「託生、ごめん」と申し訳なさそうな顔はするものの、ぼくを引きとめようとはしなかった。
「託生に別れを告げられて正直安心した。もう託生が狙われる事がないんだと。どうやって調べたのかはわからないが、帰国して数日後に『つまらん』と一言だけ書かれた手紙が送られてきた。念のため数ヶ月ほど託生にSPをつけてはいたが、以後の接触はなかった」
「………なにそれ」
 どれだけギイが傷ついたのか、思うだけでも胸が苦しくなる。人の心を玩ぶような人間がいるなんて。人の命まで巻き込んで「つまらん」の一言で終わらすなんて、許せない!
「脅迫状を送っていた奴等を、しらみつぶしに探して辿り着いたのが1年。根絶やしにするのに5年。正攻法では全く歯が立たない相手だったから、思っていたより時間がかかったけど」
「”奴等”って、一人じゃなかったの?!」
 いったいどんな人間が集まったら、こんなひどい事ができるのだろうか。
「世界には金も名誉も地位もあって、暇を持て余している人間ってのがいてな。世の中の楽しみってのをやりつくすと、人間をターゲットに楽しむようになるらしいんだ」
 ギイの顔が嫌悪感で歪む。
「それって、どういう意味?」
「賭けてるんだよ。人の心を」
 人の心を賭ける……?
 なんて悪趣味な遊びなんだ。ぼく達の時は、死ぬか別れるか。たぶんそんな所だったのだろう。
「それだけじゃないな。殺し屋を雇うだけの金があるのに、わざわざ一般人に破格の金額を提示して依頼し、その人間が金に目が眩むの見て楽しみ、失敗すれば命乞いをする様子を、笑いながら虫けらのように始末する。自分の意のままに状況を動かして、人が苦しむのを嘲笑って……まるで自分達を神のような存在だと勘違いしていた傲慢な奴等だ」
 吐き捨てるように言い、ギイは冷めたコーヒーを一口飲んだ。
 あの時、説明しなかったのは、ぼくを怖がらせない為だったのだろう。たとえぼくに告げたとしても、状況は変わらない。脅迫している相手もわからなければ、どこで見ているかもわからない状態で、一時別れたふりをしても同じだ。
 それをギイは全部一人で背負って、何年もかけて解決してくれた。
「今回の事も、本当にすまなかった。そろそろ大丈夫だろうと、気を抜いたのが悪かった。オレのミスだ」
「そんな、気にしなくていいよ。それより、ごめん。何も知らなくてギイに負担ばかりかけて……別れてほしいなんて勝手言って……」
「だから、それはオレが誘導したんだ」
「でも……」
 言いよどむぼくの頭を撫で、
「いいんだよ」
 優しく微笑む。
 いつも守られていた。大切に大切に。宝物みたいにぼくを優しく抱きしめてくれていた。
 今のように……。
 暖かい腕の中でうっかりまどろみそうになって、もう一つ、聞き忘れている事を思いだした。本当の理由をまだ聞いていない。
「ギイ、あの小屋は、何のため?」
「………未来を考えないため」
 ポツリと言う。
「え?」
「軽井沢で、急がないって決めたんだ。今がよければそれでいいって。未来は考えないでおこうってな」
「あれは!」
 まだ進路もなにも決まっていない状態なのに、ギイが未来の話ばかりするから。
「わかってるよ」
 そう笑ってふいに口を閉じ、躊躇っているような表情をして視線を逸らせた。まるで、ぼくと顔を合わせたくないように。
「ギイ?」
「それを忘れないために、小屋を残してもらった。未来を考えない。そう思っていたのに、偶然託生と再会して、この数日一緒にいて、未来を考えてもいいのだろうかと勘違いして……」
 ぼくはギイの襟元を両手で掴んで叫んだ。
「勘違い?勘違いって、なに?」
 10年前の事情を知った今、二人の思いが通じ障害もないのに、どうして未来を考える事を否定しないといけないんだ。
「昨日、思いだした。オレこそが原因なんだって」
「そんな事ない!」
「オレと一緒にいなかったら、託生があんな危険な目に合う事はなかったんだ」
 襟元を掴んだぼくの手を握り、淡々と自分の思いを吐露しているつもりなのだろうけど。
 ギイ、泣き出しそうな顔してるよ。
「ぼくなら、大丈夫だよ」
「馬鹿を言え!誰が、大切な人間を危険な目に合わせたいと思うんだよ!」
 この10年。ギイはこんな瞳をして、生きてきたのだろうか。
 寂しさと悲しみを写し未来を夢見ることもなく、ただ流れていく時間の中で彷徨っていたのだろうか。
 誰よりも、輝いていた人が……。
 1年の頃からぼくが傷つけば、自分の事のように顔を辛そうにしかめていたギイ。10年前の事も今回の事も、たぶん、ぼくの何倍も何十倍もギイが傷ついている。
「オレはお前を手放せない。託生に触れれば、もう放すことなどできないとわかっていながら、お前に触れてしまった。危険な目に合うかもしれないとわかっていても、手放す事ができない。だから、託生から離れてくれ」
 祈りにも似た色を乗せたギイが、ぼくの両肩を掴んで懇願する。
「ぼくは、ギイより先に死なない。そう約束しただろう?」
 ぼくの言葉に、ギイはクッと息をつめた。
「信じられないのなら、ギイがぼくから離れて」
 ギイの背中に腕を回し、頬を摺り寄せる。
 一人にしてしまって、ごめん。側にいるから。もう、そんな悲しい瞳はしないで。
 ギイは溜息を吐きながら、諦めたようにぼくの背中に腕を回した。
「離れるなんて、できるわけがないだろう?」
 腕の中にお前がいるんだ。もう離せない……。愛してる、愛してるんだ。
 ぼくの肩口に甘えるように顔を埋めて、駄々っ子のように訴える。
「じゃあ、諦めて」
 ギイの頬を手で包んで、キスをした。
 
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