Reset -2-

「堅苦しいホテルよりアパルトマンがいいね。どうせスタジオに缶詰になることもあるだろうし」
 佐智さんの言葉で決まったシタディーヌ。ホテルのサービスがついたアパルトマンというところだろうか。各自の部屋を確保しつつ、リビングとキッチンがついてあるシタディーヌは、仕事の打ち合わせなどもすぐにでき長期滞在には快適な空間だった。
 部屋に荷物を置き力なくベッドに座ると、無意識に震える両手が目に写りそのまま顔を手で覆った。
「ギイ……」
 突然現れたギイに動揺していた。
 忘れたくて、でも忘れられなくて。
 この10年、夢の中に出てきたギイの顔は、最後に見た悲しそうな諦めたような微笑みばかりだった。
 今更会って、ぼくに何が言えるのだろう。卒業式の夜、ゼロ番で別れを告げたこのぼくに。
 自分から手放してしまった、優しい温もり。あの情熱。
 思い出して体が熱くなり羞恥心でいっぱいになったぼくは、このまま部屋に閉じこもりたくなった。ギイに見せる顔なんてあるわけがない。
 しかし「お茶、用意してるね」と佐智さんに声をかけられている状況では不可能な事で、ぼくは頭を振って切り替える事にした。
 ほんの少しの時間だ。それが終われば、もう二度とギイと会う事はない。
 胸の奥にふわりと浮かんだ寂しさに気づかないふりをして、ぼくはドアを開けた。
 リビングに向かうと、もうすでにお茶の用意はできており、ぼくは空いているギイの隣に腰かける。体温が感じられそうな距離に鼓動が跳ね上がるが、ギイの顔を正面から見なくていいのは正直助かる。
「義一君自ら、車を運転してるなんて珍しいね」
 ぼくの戸惑いなど気付いていない佐智さんとギイが、和やかに会話を続けていた。
 よくよく考えてみれば、佐智さんがギイをお茶に誘って当たり前なんだ。忙しい二人だもの。なかなか会う機会もなかったのだろう。だいたい再会したのが、佐智さんが住んでいる東京でもギイが住んでいるNYでもない、フランスのパリというところが、二人の忙しさを物語っている。
「オフだからな。ミシェルのところに行く途中だ」
「あ、もしかして、ミシェル・ド・ルフェビュール侯爵?」
 ぼくにはよくわからない名前が出たところを見ると、二人の昔からの知り合いというところか。
 知らない事には口を挟むべからず。
 そう判断し、大人しくお茶を飲んでいたのだが、
「ブルボネ地方だったよね?」
「ブルボネ?」
 佐智さんが口にした言葉に、無意識に反応してしまった。
「そうだが。ブルボネがどうかしたのか?」
「あ、ううん」
 ギイに問いかけられ、知らず交わった視線に耐えられず首を横に振った。
「ふふっ、託生君はヴィエルの調弦法の種類を思い出したんだよね」
「……はい」
「ヴィエルってなんだ?」
 馴染みのない言葉に、ギイが首をひねる。
「ヨーロッパの民族楽器だよ。バロックやルネサンス時代の。ハンドルを廻して奏でる手回しバイオリンってとこかな。ヴィエルはフランス語読みで、英語ではハーディ・ガーディと呼ばれている」
「ハーディ・ガーディ……聞いた事があるような、ないような」
「それで、ヴィエルの調弦法には二種類あって、その一つがブルボネ式って言われてるんだ。託生君、調弦法のブルボネ式は、このフランスのブルボネ地方から来てるんだよ」
「そうだったんですか」
 さすが佐智さん、音楽に関する事は物知りだ。
「手で廻すのか?」
「そう。右手でハンドルを廻して、左手で鍵盤を押すんだ」
「それって、もしかして、これくらいの大きさ?」
 と言いながら、ギイは両手で架空の箱を作った。
「そのくらいだけど、義一君、どこかで見たのかい?」
「それなら、ミシェルん家にあるぞ」
 ギイの言葉に、佐智さんの目が光ったような気がした。
 佐智さんとの付き合いも10年が過ぎ、さすがにこの人の性格もわかってきたというか、この頃、佐智さんの笑顔がたまに左横の人物に重なるときがある。
「義一君」
「はいはい。何人だ?」
「一人」
「はぁ?」
「僕と大木さんと桜井さんは帰らなきゃいけないんだ。だから」
「託生一人ってことだな?」
「え、ぼく?!」
 なにを話しているのかチンプンカンプンで、てっきり人事だと思ってぼんやりしていたら、急にぼくの名前が出てきて驚いた。
「あの、ぼく一人ってなにがですか?」
「ヴィエルを見に行く事」
「えぇ?!」
 いや、ちょっと待って!
 ヴィエルを見る事なんてなかなかできないことだから、ありがたい話なのだとは思うけれど、そのミシェルなんとか侯爵の所にギイと二人で行くというのは、遠慮したいです!心の準備が!
 そんなぼくの焦りなどそっちのけで、佐智さんは話を進めていく。
「桜井さん、託生君のスケジュール大丈夫ですよね?」
「えぇ、2週間のオフです」
「ね?だから、託生君見ておいでよ」
「いや、でも!」
 だから、ギイと二人というのは………!
「託生君、ヴィエルを見る機会なんてなかなかないよ?音楽家として吸収できるものは、なんでも吸収した方がいい。見る事も体験する事も、全て財産になるんだから」
 『音楽家として』と佐智さんに言われれば、反論はおろか意見もできなくて、しかも大木さんも桜井さんも神妙に頷いている状況で「NO」と言う勇気はぼくにはない。
「託生君、僕は行った方がいいと思う」
 そう、佐智さんに断言されれば。
「わかりました」
 と頷くしかないのだ。
 ギイは、ぼく達の話が纏まるのを待って席を外し、数分後指で丸を作って戻ってきた。
「向こうはOKだ。ただヴィエルはどれだけ触ってもいいけど、たぶん音は出ないだろうってさ。数百年置きっぱなしだからって」
「数百年……」
 さすが骨董品。確かにハンドルが回りそうにない。
 そのまま佐智さんに急かされ、荷物をまとめさせられたぼくは、
「義一君、よろしくね」
 の声に送り出されて、気が付けば車上の人。
 ギイと再会して、わずか30分。
 まさか元恋人とドライブをする羽目になるとは、思いもしなかった。
 
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