月夜に揺れる白い花-3-

 託生には心配いらないと言ったけれど、約束手形ってやつは、それなりの信頼関係がなければ使わない。金を払うと書いた、ただの紙切れだ。
 片倉の性格上、かなり慎重………悪く言えばリスクを伴うことを嫌う怖がりだから、軽々しく手形なんてものは扱わないだろう。だから、第三者名義の手形を、片倉が受け取るとは考えられなかった。
 片倉を騙したヤツは、十中八九、何度も取引を重ねたことがある相手。長年の付き合いのあるところ。
 そうなると、被害額が巨額になっている可能性がある。
 案の定、ホテルに送るリムジンの後部座席で、
「かなり危ないって噂だ」
 章三が、重々しく口を開いた。
「お互い代替わりはしているが、親父さんの代からの取引先だったらしくて、ここの取引は昔から全て約束手形を使ってたんだそうだ」
「その息子が片倉をはめたんだな」
「あぁ」
 親父同士は長年の付き合いで信頼関係が築けていたのだろうが、息子達もそうだとは限らない。二代目なんて言葉ばかりで、親に甘やかされチンピラまがいのヤツだっている。
 経営が上手くいかず、建て直す努力もしないまま、あっさり会社も従業員も捨て、自分だけ金を持って高飛びしたんだろう。
「ギイに言うべきかどうか迷ったんだが………」
 章三が歯切れ悪く口篭る。
 連絡があったときから、なにかを言いたそうにしているなと気付いていた。それが片倉のことだと知ったのは、もちろん託生が話題に出したからだが、章三が迷っていたのは、この話を聞いたオレがどうするか………わかっているだろうに、十年離れている内に勘がにぶっちまったのか?
「いや、いつかオレの耳には入っていた。事が終わってから知らされなくてよかったよ。今なら、まだ間に合う」
「ギイ………!」
 もしも、鉄工所が潰れたならば、託生は自分のことのように泣くだろう。それに「心配いらない」と言ったオレの言葉も嘘になる。
 嫌悪症だった託生を理解してくれていた数少ない人間の中の一人だ。一年生のとき、片倉がいなかったら託生はどうなっていたかわからない。
 今、託生がここにいることさえ、夢のような幻になったかもしれないんだ。
 そして、章三と同じように、離れていた十年を見守ってくれていたからこそ、託生は昔と変わらぬ笑顔を持ち続けている。
「片倉はオレの恩人なんだぜ?」
 この恋を手放せないオレにとって、片倉は一生の恩人だ。
「ギイ、片倉を頼むな」
「あぁ」
 オレの目の奥ををじっと見詰る章三に力強く頷き、拳をぶつけ合った。


 アジアツアーに出発した託生から数日遅れて日本に渡ったオレは、仕事をこなしながら片倉鉄工所の情報を集めていた。そして、片倉と話をすべく島岡にスケジュール調整を頼み、日本での最終日、やっと仙台に来ることができた。
「ここだな。SPは待ってろ」
 少し離れた場所に車を停めさせ、一人で車を降りた。
 とたん、強い日差しと湿度が体を包み込み、日本独特の蒸し暑さに眉をしかめる。
 外壁沿いに工場をぐるりと回ると、大型車両が敷地内から出て行くのが見え、ついで大きな門が眼前に現れた。
 鉄工所としては、中堅というところか。門の向こうには、大きな工場の扉が開け放たれ、大型の機械が所狭しと並んでいるのが見える。しかし、機械が動いている様子はない。
 ちょうど休憩時間だったようで、数人の作業服を着た人間があちらこちらで休んでいるようだ。
「兄ちゃん兄ちゃん、ここになんか用か?」
「こんにちは」
 門を抜け、事務所に向かうオレに気付いた男が、人懐こい笑顔を浮かべ首にかけたタオルで額の汗を拭きながら近づいてきた。見たところ五十歳は軽く回ってそうだが、作業服から覗く腕は隆々とした筋肉がつき、腕っ節の強さが感じられた。
「この暑い中、セールスかい?でも、ここは金がないから、なにも買えないぞ?」
「いえ、社長の学生時代の友人の崎と言います。仕事で仙台まで来たものですから、寄ってみたんですけど」
 人受けする笑みを作り訪問の理由を述べると、男は、さも自分のことのように驚きと喜びを顔に浮かべ、
「社長の友達か?!時間があるなら、待っててくれ。社長もじき戻るから。学生時代の友達なら大歓迎だ」
 そう言って、日陰にある喫煙所らしき場所にオレを案内した。
 一つ一つ買い足したらしい、バラバラのデザインのベンチがいくつか並べられた喫煙所には、何人もの筋肉質な男達が油で汚れた作業服をまとい、世間話をしながら休憩しているようだ。
「社長の友達だってよ」
「おぉ、この暑い中、よく来たな」
「大学のお友達かい?」
 ベンチを空けてくれながら方々から親しげに声をかけられ、少々面食らいつつも外交用の笑顔を浮かべ、
「いえ、高校時代の………」
 と、口に出したとたん、
「あぁ、祠堂の!」
「そりゃ、社長も懐かしかろう」
 大きく頷いてあっさり納得した男達に驚く。
 自分が働いているところの社長の学歴なんて普通興味もないだろうし、知っていても大学名くらいだろう。高校と聞いて、すぐさま祠堂の名前が出るとは………。
「よく、ご存知ですね」
「そりゃあ、俺達は先代から世話になってるし、社長がこーんな小さな頃から知ってるからな」
 自分の膝あたりで水平に手を振りながら笑う男を見て、片倉を社長と呼んでいるのは表向きで、自分の子供のように可愛がっている様子がうかがえた。
「しかし兄ちゃん、それ暑いだろ?脱いだらどうだ?」
 オレの普段着のようになっている上下のスーツに目をやり、男が眉間に皺を寄せる。
 たしかに、こんな日差しの中じゃ見ている方が暑いだろう。
「じゃ、失礼して」
「ネクタイも外せ外せ。仕事じゃないんだし。若いからって自分の体力を過信しちゃなんねぇ。熱中症は怖いんだからな」
 自分の父親ほど年上の男達に囲まれ、息子の友達を相手にしているような歳相応の対応に、遠慮なくスーツの上着を脱ぎネクタイも第一ボタンも外した。
 おかげで窮屈な首元に風が入り、無意識に大きな溜息が零れる。
「あー、暑かった………」
 ボソリとぼやくと、豪快な笑いと共に肩をバンバン叩かれ、その裏表のない表情に心が安らんでいくのを感じた。
 毎日、狐と狸の化かしあいではないが、いかにして有利に商談を進めようかと、相手の言葉の裏を読んで計算ばかりしているものだから、緊張感を持たずにいられる空気が新鮮で居心地がいい。
 この鉄工所を作った片倉の親父さんも、裏表がなく気立てのよい人間に違いない。
「兄ちゃん、煙草吸うかい?」
 と煙草とライターを胸ポケットから取り出した男に、
「えぇ、オレもご一緒させてもらっていいですか?」
 と、傍らに置いた上着から煙草を取り出す。
 灰皿代わりに使っているらしい、ペンキで赤く塗った一斗缶には「火の用心」と擦れた白文字が浮かび、錆がこびりついていた。
 これも、かなりの年代物なんだろうな。
「片倉………いや、社長は元気ですか?」
「んー、ちょっと色々とあってさ」
 紫煙を吐き、一斗缶の淵で灰を落とした男が口を濁らせる。
「なにか、厄介なことでも?」
「いや、まぁ、詳しいことは俺達から言えないけどもさ」
「そうですか………」
 それは、そうだろう。片倉の友人とは言え、初対面の部外者に内部事情を話すことなど、もってのほか。と同時に、従業員全員かどうかはわからないが、ここにいる男達はなにがあったのか知っているのだと確信する。
 しかし、口を濁らせながらも、片倉の状態が普通じゃないんだとオレに話す理由はなんだ?
 脳裏に浮かべた疑問は、すぐに解けた。
「あっちこっちに駆けずり回って、いつか社長が倒れるんじゃないかと心配してんだよ。俺達相手に愚痴なんか言えないだろうしさ。だから、兄ちゃんみたいな友達と少しでも話せば、気晴らしにでもなるんじゃないかって引き止めちまった」
 深く吸った紫煙を溜息と共に大きく吐き出し、その煙を追う男の目には、片倉の心配の色しか見えなかった。
 長年働いている鉄工所が潰れるかもしれない危機に直面し、自分達の生活もあるだろうに、男達の顔に浮かんでいるのは、自分の息子のような片倉の心配だけだった。
 
PAGE TOP ▲