月夜に揺れる白い花-4-

 しばらくすると、工場の門から一台の自転車が入ってきた。
 人のことは言えないが、この暑い中、きっちりとスーツを身に着け、しかし額は汗だくらしく、門のすぐ側にある駐輪場に自転車を置き、前かごの中に入れてあったタオルで無造作に顔を拭く。
 片倉の顔を最後に見たのは、託生の壮行会だ。あれから一年も経っていない。しかし、この男は、こんなに細かっただろうか。
「社長、社長!」
 隣の男が立ち上がって大きく手を振り、その声に振り向いた片倉がオレを認識したとたん、驚愕の表情を浮かべた。
「ギイ?!」
「よ、片倉、久しぶり」
 バタバタと走ってきた片倉が突っ込みそうな勢いのまま右手を差し出し、その手を握りながら左手で片倉の肩を叩いた。
「いつ、こっちへ?」
「つい先日。仙台まで来たものだから、寄ってみたんだ」
「そうかぁ。お茶くらいしか出せないけど、上がっていってくれよ」
 嬉しそうな笑顔に疲れが滲み出ていた。頬はこけ目の下も黒ずみ、暑さのせいで紅潮した頬をしているが、全体的に顔色が悪い。軽く叩いた肩も骨ばっていた。
 これじゃ、皆が心配するのも頷ける。
 相手をしてくれていた男達に礼を言い、オレは片倉の手招きについていった。


 工場の横にある建物の階段を上り、通された廊下突き当たりの部屋は社長室らしく、壁や天井は古さを感じさせる色合いであったが、清潔で明るい室内だった。隣は事務所になっているのだろう。たまに電話の鳴る音が聞こえてくる。
「ギイ、コーヒーでも……」
「いや、日本茶貰えないか?できれば冷えた」
「へ?麦茶でよければあるけど」
「あぁ、それは嬉しい。夏は麦茶が一番だよな」
「わかった。じゃ、そこに座って待っててくれ」
 片倉は上着を無造作に椅子の上に放り、オレにソファを勧めて、今入ってきたばかりのドアを出ていった。
 奥のデスクの上には書類が山積みになり、電源を落としたノートパソコンが開いたまま置かれている。
 片側の窓からは門と駐輪場、それと先ほどは気付かなかったが、もう少し奥に駐車場が見えた。そこには『片倉鉄工所』の文字が入った数台の車が置いてある。
「経費節減なんだろうな」
 片倉が自転車で銀行周りをしているのは。
 片腕に持っていた上着と封筒をソファの上に置き座って待っていると、隣の事務所から持ってきたのか、片倉が麦茶ポットと氷を入れた二つのグラスをトレイに乗せ戻ってきた。
「俺も喉が渇いててさ、ポットごと貰ってきた」
 へへへと照れたように笑い、二つのグラスに麦茶を注ぎ入れ一つをオレに差し出し、向かい側に座った片倉は、美味そうにぐびぐびと喉を鳴らしたあと、すぐさまもう一杯麦茶を注ぎ入れた。
 そりゃ、あれだけ暑い中、自転車をこいだら喉も渇く。
「日本は暑いだろ?残暑が厳しくってさ。九月なのに、まだ真夏日があるんだよ。曇ってたら、まだマシなんだけど」
「そうだなぁ。気温はそう変わらないと思うけど、この湿度がな」
「だろ?」
「おかげで、麦茶が美味い」
 汗をかいたグラスを目の前に上げると、
「何杯でもおかわりあるよ」
 笑いながらオレのグラスにもう一杯注いだ。
 その様子を見ながら、そういえば、片倉と二人きりで会うことなんて今までなかったなと、ぼんやり思い出した。
 一年生のときはクラスメイトだったし、なにより託生の親友だから話す機会は何度もあったが、こうやって膝を突き合わせて二人で話すのは初めてだ。
 どうやって切り出そうかと話の糸口を探していたら、
「ギイ。もしかして、手形が飛んだこと聞いて来てくれた?」
 一息ついた片倉が、おずおずと、しかしずばり核心を突いてきた。
 驚きに目を見張り、そして苦笑する。
 そうだよな。いくらなんでも気付くよな、訪ねるタイミングが良すぎて。
「まぁな」
「やっぱり」
 片倉は目尻に皺を寄せて笑い、ふと表情を引き締めた。
「古い取引先だって聞いたけど」
「うん、そうなんだ。親父の代からだから、結構古いよな。それと、俺が跡を継いだあとも何度か取引しててさ。いつもと同じだと思って………。俺が甘かったよ」
 大きな溜息に後悔と自責の念が込められていた。
 いつから、片倉をはめようと相手が思っていたのかは知らないが、これまでの取引実績を考えれば、普通の人間なら、ころっと騙されるに違いない。しかも、相手は素直で人のいい片倉だ。託生と同じで、人を疑うことができない。
「幾ら、やられた?」
「六千万」
「………かなり大口だったんだな」
「うん。貸倒引当金で充当しても、賄えるような金額じゃなくてさ。仕入れにも響いてるんだ」
 馴染みの優良な取引先だと思っていたんだ。万が一、倒産したときのために用意する貸倒引当金も、そこまで見積もっていなかった。
 鉄を仕入れ、製品にして売る。その元となる鉄の仕入れができなければ、おのずと仕事は回らない。
 ゴーン・ショック以降、鉄鋼関連は軒並み経営が厳しくなり、大手の赤字決算も珍しくない状況の中、六千万もの不渡りなんて、この規模の鉄工所じゃ大打撃だ。
「お袋の実家の笹かま屋は姉貴夫婦が継いだから、俺がこっちを継ぐことになったんだけど、どっちにしろ、俺、社長には向いていないのかもしれない」
「片倉………」
「皆の就職先を探して、鉄工所を畳んだほうがいいような気がしてるんだ。退職金が出せる間に」
 氷が溶けカラリと鳴ったグラスをぼんやりと見詰めながら、片倉が心中を吐露する。
 調べたところ、事件が起こったのはちょうど二ヶ月前だった。章三から話を聞いたのが、約二週間前。
 この二ヶ月の間、片倉は事態収拾に向けて奔走し、しかし、もうすでに相手は逃げているものだから回収は叶わず、しかも運転資金の融資も受けられない状態に八方塞になっていた。
「片倉はどうするんだ?」
「俺、一人暮らしだからさ。一人分の生活費を稼ぐくらいなら、なんとかなるし。俺のことより、働いてくれている皆には家族がいるから………」
「本当にそれでいいのか?鉄工所を畳んでしまって、片倉は後悔しないか?」
「ギイ…………」
 親父さんが作った会社であることはもちろんだが、片倉自身、とてもがんばっていることを託生から聞いていた。
 実際、片倉が継いでから、ほんのわずかではあるが業績も上がっている。
「さっき下で話をしたんだけど、皆、自分のことよりも鉄工所のことよりも、お前の心配をしていたよ。体を壊さないといいんだけどってさ」
「え?」
「いい人ばかりじゃないか。こんなに温かい職場は滅多にないぞ?片倉の人柄が表れている」
 従業員から聞いたばかりのことを口に出したとたん、片倉がボロボロと涙を零した。
「だろ?いい人ばかりだろ?俺、小さかった頃からよく遊んでもらってたんだ。こんなことになって皆に申し訳なくて………」
「先代からの取引先だったんだろ?信用しちまっても仕方ない」
「でも………」
「なにもトラブルのない、そんな運のいい会社なんて一つもないさ。たしかに進退きわまる状態だけど、鉄工所を畳むのはもう少し考えた方がいいんじゃないか?」
 Fグループとは規模は全く違うけれど、オレと片倉は同じような立場だ。
 もしも、オレがこのような状況になれば、経営そのものを見直すことはもちろん、一番の経費である人件費を削ろうとリストラを決行するだろう。そうして残った社員と社を守る。
 しかし、片倉は親父さんから受け継いだ鉄工所を守るより、従業員全員のこれからの生活を考えている。
 その考え方に対して、経営者として甘いという声もあるだろう。だが、あの汗だくで働いていた従業員を、鉄工所を潰してまでも守ろうとする姿勢は、尊敬に値するものだとオレは強く感じた。
「片倉さえよければ、オレには援助する用意があるんだ」
「ギイ………」
 この一言を伝えるために、オレはここに来たんだ。
 鉄工所が潰れれば託生は必ず泣くだろうから、そんな事にはさせたくなくてここまで来たけれど、今はそれ以上に、この鉄工所をオレ自身が潰したくなかった。
 こんなに思いやりの深い場所をなくすなんて、あまりにも惜しい。
 オレの言葉に、しばらくじっと考え込んだ片倉は、しかし静かに首を振りオレを見詰めかえした。
「いや、ギイの気持ちは嬉しいし、従業員のことを考えたら、ギイに頭を下げるのが一番の方法だと思うんだ。でも、俺、バカだと言われるかもしれないけど、自分が撒いた種は自分で刈りたい。尻拭いは自分でしないと。初めから三ヶ月分の資金しか残っていないのはわかっていたから、あと一ヶ月がんばってみて、そこで無理なら諦める」
 きっぱりと言い切った片倉に迷いはなかった。
「そうか」
 なんとなくそういう気がしてたんだ。受け取らないだろうなと。
 空気を読み人に合わせることが得意な片倉だけど………だからこそ、嫌悪症であった託生が一緒に寮生活ができたのだが、この男の筋は竹のように硬くて真っ直ぐだ。人に迷惑をかけることを良しとしない。そして、自分が招いたことを放り投げるような、無責任な人間でもない。
 生真面目で誠実で。もっと軽く考えれば楽な道を歩けるのに、不器用な生き方しかできないのだろう。しかし、裏を返せば、これほど信用できるヤツはいない。
 だから、断られることを見越して、もう一つの案を用意してきた。
「片倉。ここ数年の決算書を用意できるか?貸借対照表と損益計算書も付けて。あと、鉄鋼相場の推移グラフ」
「決算書はすぐに出せるよ。推移グラフの方は、鉄鋼新聞にデータがあったはずだから、とにかく、そっちもちょっと待ってもらえれば出せるけど」
 矢継ぎ早の指示に不思議そうな顔をしつつも、全て出揃うと答えた片倉に、ニヤリと笑う。
「それなら、うちの経営コンサルタントを、明日にでもここによこすよ。その人間と相談して返済プランを具体的に出し、銀行に持っていってみろ。返済原資を明確にしないと、銀行も考えてくれないからな」
「え………?」
「数字を扱う人間に、数字を目の前に出すのって、結構効果的だぜ?」
「………そうか。頭を下げるだけじゃダメだったんだ。資料を用意して確実な返済の意思を示さないと!」
 片倉が運転資金の調達、所謂融資をしてもらうために、毎日銀行を回っているのは知っていた。
 借りるのは片倉個人ではなく、法人の片倉鉄工所。
 今までの業績から計算し、少なくとも一年間売り上げるであろう金額、そして必要経費を差し引いた上で返済に回せる額を算出する。それらを明確に銀行側に示し、もう一度検討してもらうしかない。
 オレの金を受け取ってもらえないのなら、いかにして銀行から金を借りられるか方法を考えるしかないんだ。
 額がそれなりに大きいことが、銀行側の足踏みする理由だろう。しかし、反対に考えれば、それだけ大口の融資なら、銀行側も数年の経常利益である利息が確保される。
 あとは、片倉の信用と………。
「それでもNOと言うのなら、これを出せ」
 持参していた封筒を取り出し、テーブルに置く。
「これは?」
「オレが片倉の保証人になると明記した書類だ」
「え?!」
「こっちの弁護士が作成したものだから、日本語訳もつけているし安心してくれ」
「ギイ、だから………!」
「NOと言われたら、だ。それに、名前だけだぞ?」
 暗に、保証人になったとしても、絶対的責任は片倉にあるんだと釘を刺す。名前を貸すだけだと。
 じっと封筒を見詰めていた片倉の目が潤み、震える両手で封筒を手に取った。そして、キュッと口唇を噛み締めて、オレを真正面から見上げる。
「………わかった。これは、お守り代わりにさせてもらうよ。もしも……もしも、使わせてもらうことになっても、ギイに迷惑をかけるようなことは絶対しない」
 片倉が書類を受け取ったのを見て、ホッと肩から力が抜けた。資金さえ用意できれば片倉鉄工所は軌道に乗るのだから。
 託生に泣かれることも、あの従業員達が路頭に迷うことも、これでない。
「ありがとう、ギイ」
「がんばれよ。託生も心配してた」
「あ、託生からメール貰ってたんだ。忙しくて返事を書くのを忘れてたよ」
「だと思って、託生には適当に誤魔化してるから。元々、経営に関して託生はよくわかってないし」
 本当の状況を教えたりなんかしたら、コンサートどころじゃない。もちろん、あいつもプロだから仕事を放り出すような無責任なことはしないけど、動揺して佐智が聴いたら眉を寄せるような音になってしまうだろう。
「今はアジアツアーの真っ最中だ。近くにいるのに日本に来れなくて残念がってた。日本公演のときは、聴きに行ってやってくれよ」
「うん、託生、絶対仙台に来てくれるだろ?毎回、聴きにいってるんだ。次も必ず行くよ」
 大きく片倉が頷いて、ふとなにかを思い出したように押し黙り、
「………ギイ。俺、ギイと話せるときが来たら、絶対言おうと思ってたことがあったんだ」
 居住まいを正して、オレに向き直った。
 
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