月夜に揺れる白い花-5-

「なんだ、改まって?」
 片倉はテーブルとソファの間に膝を落として座り込み、
「託生を頼む!」
 突然、床に頭を押し付けるようにして勢いよく頭を下げた。
「なにしてんだよ?!」
 驚きに慌ててテーブルを回って片倉の横に座り、肩を掴んで顔を上げさせた。その目は真っ赤に潤み、嗚咽を堪えるように口唇を噛み締めている。激情を押さえようしたのか片倉は数度大きく呼吸を繰り返し、訴えかけるようにオレを見上げた。
「俺はもう二度と、あんな託生を見たくないんだ」
「片倉、いつの話だ?」
「託生が、まだ日本の大学に通っていた頃」
「留学前か………?」
「………あいつボロボロで。ほんと思いつめてて。あるとき、託生と連絡が取れなくなって、同じ大学の野沢も数日見かけていないって言うから、野沢と赤池と一緒に託生のマンションに行ったら、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中でぼんやりと座ってたんだ。俺達の顔も見えていない、声も聞こえていない。なにをやっても反応がなくて、そのとき、俺が『託生』って呼んだら『ギイ?』って笑ってそのまま意識を失って………救急車で病院に運び込んだ」
 片倉の話を聞いて、頭を殴られたような衝撃を受けた。
 託生から、パリに留学したのはオレを考えたくなかったから、忘れたかったからだと聞いていたが、日本でそんな状態になっていたなんて………。
 『託生』と名前で呼ぶのは、オレと片倉だけ。
 その場に片倉がいなければ、託生はどうなっていたのか。そのまま、深い意識の中に囚われ、戻れなかったかもしれない恐怖にゾッとした。そして、そこまでオレのことを想ってくれていた託生に、胸が苦しくなる。
「診断は睡眠不足に栄養失調。すぐに退院したけど、託生はそのときのこと覚えてなかったんだ。そんな託生を一人に出来なくて、皆代わる代わる託生の部屋に泊まりこんでた。だから留学の話を聞いたとき、こんな状態の託生を一人でパリになんて行かせて大丈夫なのかって思ったんだけど、赤池に『このままだと酒や薬に溺れる可能性もあるんだぞ』って言われて送り出したんだ」
「それで、託生は留学を………」
「うん。留学先で落ち着いたみたいで、皆、安心したんだ。戻ってきてプロになって、喜んでたんだけど、やっぱり託生が無理しているように見えてさ。でも、昨年末に託生のコンサート行ったときに思ったんだ。音が変わったって。聞いているだけで、すごく幸せな気分になってさ。NYに行ってギイの側にいて託生は幸せなんだなって思ったから」
 祠堂を卒業して一年間はSPをつけていたけれど、ターゲットを外されたと確信したあと、オレは託生に関わらないようにした。オレのことは忘れて、普通の人生を送ってほしいと。
 だから、大学二年からプロになるまでの四年間、オレは託生がどのような生活を送っていたのかを知らない。
 それに、祠堂の卒業生も東京の大学に進学した人間が多かったから、オレと別れても支えてくれる人間は何人もいると思っていた。
 事実、片倉も章三も、その場にいた野沢も、託生を気にかけてくれていただろうし、託生の壮行会には、個室どころか広間を貸し切るくらい、学年を越えかなりの人数が集まっていた。
 それだけの人間が周りにいたにも関わらず、章三がそう判断せざるを得ない精神状態だったなんて。
 託生は、強いけど脆い。強さを発揮する裏には、同じだけの傷を心に受けている。
 オレとのことは結果的に「開き直った」と自嘲して笑っていたが、そこに至るまでの間、どれだけの傷を受けたのか。………どれだけの傷を、オレがつけたのか。
「託生にはギイが必要なんだよ」
「………いや、片倉。オレこそ、託生が必要なんだ」
「ギイ………?」
「託生がいなければ、オレはオレでいられないんだ。離れていた十年、ずっと暗闇の中を彷徨っていた」
 復讐が終わったあと、毎日が空しかった。忙しさに紛れ込ませ、極力託生を思い出さないようにしてはいたけれど、どこにいても、なにをしていても、託生の面影が消えることなんて微塵もなかった。
「どうして、別れたか聞いていい?」
 あのときの虚ろに過ごしていた日々を思い出し息苦しさ感じたオレに、片倉がそっと聞く。
 どうして………。
 一瞬にして記憶が祠堂卒業以前に戻り、走馬灯のように場面が切り替わり脳裏を流れていく。託生に真っ直ぐに向かっていく車。耳に響く警笛と悲鳴。あざ笑うかのように届く白い封筒。
 絶望と無力な自分への情けなさが鮮明によみがえり、ヒクリと喉が鳴った。
「オレのせいで………託生の命が狙われたからだ」
 絶句した片倉の視線がいたたまれなくて、目を反らす。自分の親友が命の危険に晒されていたなんて、聞き捨てならないことだろう。
 罵倒の言葉を待って目を閉じたオレに、
「でもさ、託生は自分の命が狙われてても、ギイと一緒にいたかったと思うよ?」
 思いもよらない言葉を投げかけられ、唖然として片倉を見返した。
「片倉………」
「あ、ギイを責めてるわけじゃないんだ。そうしなきゃ、託生が危なかったのはわかるから。でも、託生はなにがあっても、ギイといたかったんじゃないかな」
 オレの行動に肯定も否定もせず事実を事実として受け入れ、次いで親友の気持ちを代弁した片倉は、
「託生が笑っていられるのはギイの側だけだと思うから、託生を頼むよ」
 初志貫徹。オレの告白を聞いても主張を変えず、もう一度深く頭を下げた。
 託生、お前の親友は、すごいヤツだな。
 オレに関わったせいで、お前の命を危険に晒し、そしてお前が自己を忘れるくらい傷ついた原因なのだと知っても尚、親友のために頭を下げる。オレが託生の側にいる限り、同じような危険があるとわかっているだろうに。
 あのときの対処が間違っていたとは思っていない。託生の命を守れるだけの力を、オレは持っていなかったのだから。
 返事を待つ片倉の眼差しに、オレのすべきことが写っているような気がした。
 危険な目に会うことは承知で、託生はオレの側にいる。それなら、オレが託生を守れと。
 あのときのオレは、力がなかった。今なら………今なら、託生を守れるかもしれない。いや、守らなければいけないんだ。
 目の前に立ち込めていた暗い霧が晴れ渡り、視界の向こうに未来が見えた。
 いつか、離れなければ、手放さなければと、そんな後ろ向きの覚悟を持つのなら、お前を何者からも守る力を身につけ、絶対に放さないと腹をくくらないと、ただの大馬鹿者じゃないか。
「片倉、約束する。もう二度と託生の手を放さない」
「絶対だぞ?頼んだからな、ギイ」
「あぁ」
 オレがお前に恋をしなければ傷つかずに済んだはずなのに、それでも、オレを愛し信じてNYまで来てくれた。
 今ほど、託生を幸せにしなければと思ったことはない。
 託生………。お前に会いたい。会って、この腕に抱き締めたい。


 階下に下り建物を出ると、ちょうど休憩が終わったのか、皆が持ち場に戻りかけているところだった。
 その中に、さきほどの気さくな男が混じっていて、オレを見つけたとたん人懐こい笑顔を浮かべ近付いてくる。
「兄ちゃん、もう帰るのか?」
「えぇ、片倉と懐かしい話もできましたし。仕事中にお邪魔しました」
「そうかそうか」
 頷きながらオレと片倉に交互に視線を移し、目尻に深い皺を寄せて嬉しそうに笑う。
 まるで喧嘩をしていた子供達が仲直りしたのを、目を細めて喜んでいる保護者のようだ。昔から子ども扱いをされることがあまりなかったものだから、これはこれで新鮮だが。
「そうだ、兄ちゃん。これ、持っていきな」
 と、ゴツゴツの手でオレに握らせたのは塩飴三つ。
「営業マンは、塩分補給も大切だぞ?」
 その台詞に片倉がギョッと目をむいたのが視界の端に映り、吹き出しかけた。
 世界中を走り回るオレに、営業マンとは言いえて妙だ。
「ありがたくいただきます」
「おうよ。兄ちゃんも、体に気をつけろよ」
 親しげにオレの肩を叩き、男は手を振って工場内に消えた。
 もしもオレがFグループの次期総帥なのだと知っても、変わらずに「兄ちゃん」と出迎えてくれるのだろうな。
 門まで見送りに来てくれた片倉に別れを告げ、片倉鉄工所の門をくぐった。
 さっきより気温は上がり、道の向こうには陽炎が揺れている。しかし、この蒸せるような暑さが心地よい。
 託生と再会し、あの小屋でもう一度腕に抱いたときから胸につっかえていた錘が、すっかり消えていた。
 そして、オレの中に残ったのは、二つの誓い。
 託生を一生守り愛し続けること。そして、二度と託生を放さないという、シンプルかつ最大の誓いだった。
 
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