Honey 3
「ギイ!!」
あまりの息苦しさに、叫んだぼくはハッと気が付いた。 ここは、ぼくのアパート。ぼくのベッドの上。 「夢………?」 荒い呼吸を繰り返すぼくの息遣いだけが、薄暗い室内に響いていた。 「………大丈夫ですか?」 誰もいないと思っていた耳に、遠慮がちに問い掛けられギクリと体が揺れる。 「し…まおか………さん………」 ベッドの横には、着崩れひとつもなく、きちんとスーツを着こなした島岡さんが座っていた。 「鍵が開いていたので、失礼だとは思いましたが入らせていただきました」 「いえ………」 じゃあ、倒れたぼくをベッドまで運んでくれたのは島岡さんなんだ。 「ご迷惑おかけして、すみません」 ベッドに座ったまま、頭を下げる。 ここに島岡さんが居るって事は、さっき街頭で見た光景は本物だということなのだろうか。 想像したくない予感に声が震える。 「島岡さん、あの………」 「義一さんから伝言を預かってきたのですが」 「ギイから?」 「はい。『早めに片付けるから、信じて待っていてくれ』と」 温和な表情を崩さず、しかし何故か戸惑いを瞳に写し、島岡さんはギイの言葉を伝えた。 信じて待っていてくれ。 そうだね。あの雨の日に感じた運命。ぼくとギイとの絆。 ぼくが信じなくて、どうするのだろう。 ごめん、ギイ。君を少しでも疑ってしまって。 「『信じて待っていてくれ』と、そう言ったんですね?」 「はい。それと、当分の間ホテルに泊まるから、こちらには帰って来れないと」 では、あのキャサリン嬢とのことは、何か理由があるのだろう。 しかし、このNYに実家があるのに、何故ホテル暮らしなんか………。 「島岡さんは、理由をギイから訊いているんですか?」 「それが、何も訊いていないんです。託生さんへの伝言を頼まれただけで」 「島岡さんも、知らないんですか?」 どういうことだろう。 仕事上の事であれ、プライベートな事であれ、ギイの事は全て島岡さんが把握していると言っても過言ではない。言うなれば、それだけの信頼関係が二人の間に築かれているのだ。 その島岡さんに何も言わず、ギイが何らかのことで動いている。 もしかしたら、とんでもない事をギイはやっているのではないだろうか。 「どのくらいかかるか、言ってましたか?」 「1ヶ月以内には、と」 1ヶ月以内。そうすると演奏会には間に合うか間に合わないか、ギリギリの線だ。 でも、「Destiny」の初演には、必ずギイに来て欲しい。 「わかりました。ギイに「待ってるから」と伝えてください。それと………」 ぼくはベッドを降りて、机の上に置かれていた鞄からチケットを取り出して、島岡さんに手渡す。 「演奏会のチケットです。ギイと絵里子ちゃんとお友達の分です。必ず来てくださいと」 「託生さんの伝言とチケットは、確かにお預かりしました」 島岡さんは、チケットを大切そうに上着の胸ポケットにしまった。 「では私は社に戻りますが、託生さんは大丈夫ですか?」 心配げな声に、 「もう、大丈夫です。ご心配おかけしました」 にっこりと微笑んだ。 ギイの気持ちが訊けただけで今は充分。 ぼくに出来るのは、ギイを信じて待っているだけ。 それが、君への協力になるのなら、ずっとここで待っている。 「では、これで失礼します」 「あ、島岡さん」 言い忘れた事があって、ドアノブに手をかけた島岡さんを引き止めた。 「はい?」 「ギイに………無茶をしないように、伝えてください」 ぼくの言葉に、たぶん同じ心配をしていただろう島岡さんは 「託生さんの言葉は、義一さんにとって一番効き目がありますからね」 と頷いて出て行った。 ギイは何を考えて、何をしているのだろうか。 わからないけど、でも、ぼくに出来るのは信じる事。待っている事。 愛しているよ、ギイ。 窓からかすかに覗く空を見上げ、呟いた。 "今日もまた載ってるぜ" 放課後のレッスン室。 ドアを開けたとたん、ジェイクの言葉が耳に入った。 "ほんと美男美女のペアだよなぁ" あの日から、新聞の社交界の面は、ギイとキャサリン嬢の話題で毎日賑わっている。 昨晩はどこどこのパーティに二人で現れた。 5番街の宝石店で、指輪を買った。 日曜日は、キャサリン嬢の屋敷にギイが挨拶に行ったなどなど。 ルックス的にも絵になる二人は、格好の被写体になるのだろう。 ギイがぼく以外の人と歩いているという事実を目にして、哀しくないと言ったら嘘になるけど、写真嫌いのギイが何も言わずに写真を撮らせているということは、ギイを知っている人間が「何か裏があるのじゃないか」と疑ってもおかしくはない。 赤池君あたりは、100%そう思っているだろう。 そして、非の打ち所がない完璧なギイの笑顔。この柔和な笑顔のギイは、要注意だ。 "ほんと嫌味になるくらい、いい男だな。タクミもそう思うだろ?" 突然話を振られて、ビクリとした。 "え………なに?" "ほら、このFグループのギイチ・サキ" "さぁ………ぼくはあんまり興味ないから" "ま、そうだな。知り合いってわけでもなし、誰が結婚しようが関係ないからな" "それより、あと1週間だよ。他人の事より演奏会" そう言って、ぼくはバイオリンを手にとった。 この2週間、ギイから一本の電話もなく演奏会に来てくれるのかどうか、返事さえ訊いていない。 でも、もし来てくれたとき酷い演奏を聴かせてしまうと、それこそギイを信用できなくて練習が疎かになっていましたと、自己申告するようなものだと思う。 だからこそ、ぼくは今まで以上に頑張っている。 ギイに聴いてもらっても恥ずかしくない演奏をする為に。 演奏会は、目の前に迫っている。 |