波間を照らす月-11-

 ピアノの伴奏の人とコンサートの最終打ち合わせをし、エレベーターまで見送った背後から、桜井さんが慌しくぼくを呼んだ。
「どうしました?」
「副社長から連絡が入りまして、すぐにペントハウスに戻ってほしいと」
「ギイが?」
 時計を確認すると、まだ夕方の時刻。こんな時間にギイがペントハウスに帰るなんて、いったいなにがあったのだろう。
 急いでペントハウスに戻ると、ギイはプライベートの居間にいると言う。
 そして、桜井さんも一緒に呼ばれ、ドアをノックをして開けると、そこにはギイの他に島岡さん、松本さん、そして数人の男性がいた。
「託生、お帰り」
「ただいま……どうしたの?」
 小声で聞くとギイは曖昧に笑い、
「託生も桜井も、そこに座ってくれ」
 言われて首を傾げつつ、ソファに座った。
 普段ならこれだけの人数が集まれば玄関ロビーの奥にある居間を使うはずなのに、なぜこの居間なんだろう。しかも、他の部屋からソファを移動させてまで。
 メイドがぼくと桜井さんの前にコーヒーを置き、ギイはすぐに出ていくように指示した。そして、居間の鍵を閉める。所謂密室状態だ。
 改めてぼく達に向き直り、ギイが見知らぬ男性を紹介した。
「こちら、FBIの捜査官だ」
「はじめまして。葉山です」
「マネージャーの桜井です」
 挨拶をして首を傾げる。
 FBI?どうして、そんな人がいるところに、ぼく達が呼ばれたのだろう。
 説明を求めてギイを見ると、真剣な表情でギイは口を開いた。
「前に託生が、エリザベス・イートンのことが気になるって言ってたよな?」
「うん、そうだけど」
「それで調べてみた」
 言いながらギイは紙の束をテーブルに置いた。
 これって、報告書だよね。
 一番上にはミス・イートンと日本人の男性の写真がクリップで留められている。
「イートンとこの男……田村と言うんだが、Fグループの情報を流している産業スパイだった」
「え?!」
 隣に座っている桜井さんも、動揺しているようだった。だって、見知らぬ人ではないのだから。
 桜井さんと顔を見合わせ、もう一度写真を見る。確かに、この人の表情が気になっていたけれど、まさかそんな重大なことが隠れているなんて、思いもしなかった。
「だから、社内ではなくここに集まってもらったんだ。どこから情報が漏れるかわからないからな。漏洩の流れはこうだ。イートンが情報提供者から手に入れた情報を田村に渡し、田村がその情報をいい値で買ってくれる所を見つけて売る。ただ………」
 ギイは少し口ごもって一呼吸おき、ぼくを真っ直ぐに見た。
「イートンから田村に情報を渡している場所が、日本人のクラシックコンサートだ」
 あ………。
 それが、あの表情の答えだったのか。
 取引に来ていただけで、音楽を聴きにきているわけではなかったんだ。
「日本人のクラシックコンサートを使っていたのは、客に日本人がいてもおかしくない環境だからだ」
 ギイが説明に補足する。
 確かにどこの国でコンサートをしても、日本人の人が必ず来てくれている。それは、ぼくが日本人だからだ。
「それで、どうするの?」
 ぼくの問いにギイは膝の上で組んだ手に力を入れ、そしてFBIの人と目配せして、もう一度ぼくを見た。
「数週間前に漏れた情報があるんだけど、それは完成品じゃなくて一部が欠けた状態のものだったんだ。相手方もそれに気付いたから、改めて完成品の情報を置いたのが五日前だ。そして、今日イートンが、来週の託生のコンサートチケットを購入したことがわかった」
 そこでギイは言葉を切った。固い表情。
 言わなくてもギイの気持ちがわかりすぎるほどわかる。ぼくがこの場に呼ばれた理由を。
「ぼくのコンサートを使えばいいよ。現行犯なら確実に捕まえられるだろ?」
「………いいか?」
「うん」
 ギイがぼくとぼくを繋ぐもの全てを大切にしてくれるように、ぼくだってギイが大切だ。
 それに、ギイに協力できるなんてこと滅多にないのだから、正直ぼくは嬉しいんだ。だから、そんな苦しそうな顔をしないでほしい。
「具体的には、どのようにされるのですか?」
 桜井さんが、話を先に進めた。
 動きを把握しておかなければ、コンサートへの影響が出てくるかもしれないからだ。対応が遅れてお客さんに迷惑をかけるわけにはいかない。
「イートンと田村の周りを我々が固めます。また、どのような形でデータの受け渡しをしているのかがわからないので、隠しカメラを仕込み監視する予定です」
 もうすでに話がついていたのか、捜査官が質問に答える。
「では、控え室を何室か押さえておきます。そちらをお使いください」
 そうして、捜査官と桜井さんの間で会場内での打ち合わせが始まり、
「島岡は、オレと一緒に会場のモニタールームに詰めてくれ。松本は、本社にていつもどおりの振る舞いをしつつ連絡係を」
「わかりました」
 ギイと島岡さん、松本さんは、当日の動きを決めていた。
 皆を見送って部屋に戻ると、どちらともなくぼく達は抱きしめあった。
「ごめんな」
「ギイは、なにも悪いことなんてしてないじゃないか」
「でも、託生のコンサートを、こんな形で使うなんて……」
「そんなこと……。ぼくだって他の人だって、自分のコンサートが取引の場に使われるなんて許せないからね」
 それに、他の聴きにきてくださっているお客さんにも失礼だ。
「この二人を確保するのは、終了直後だ。コンサートの邪魔はしないから」
「うん」
 ギイは約束の印とキスして、ぼくの肩に顔を埋めた。
 しかし、ぼくにはもう一つ気になることがあった。誰もなにも言わなかったけれど、どうするのだろうか。
「ねぇ、ギイ」
「なんだ?」
「ミス・イートンに情報を渡していた人は?」
 ぼくの問いにギイは顔を上げ、静かに微笑んだ。


 一ベルが鳴り客電が少し落とされた。ざわざわとした客席の様子が、舞台袖のモニターに映し出されている。
「託生さん、計画通り、あちらは周りを固めたようです」
 チューニングを終わらせ、舞台袖で待機していたぼくに、桜井さんが耳打ちした。
「そうですか」
 こちら側のスタッフにはなにも伝えてはいない。知っているのは桜井さんだけだ。どこから情報が漏れるかわからないからと、監視カメラの準備も昨晩に仕掛たはずだ。
 ギイと島岡さんは、数人のFBIの人とモニタールームで待機している。
「あと一分です」
 桜井さんの声に、ぼくはいつもどおり胸に手を当て目を閉じた。そしてギイを思い浮かべる。
 これは、人前で演奏するようになってから始めた儀式みたいなもの。ギイが側にいてもいなくても、ぼくはギイを想ってバイオリンを弾くから。
 本ベルが鳴った。
 幕が上がる。
 ぼくは、視線を真っ直ぐに上げ、光に向かって歩き出した。
 
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