波間を照らす月-8-

 先ほど島岡が「調査途中ですが」と持ってきた報告書を眺めていた。
 漏洩していた可能性があるいくつかの案件を目の前にして、その分野の違いに首を捻る。
 何人もの産業スパイが紛れ込んでいるということなのだろうか。それとも、元締めがいて各分野から情報を集めてきているのか?
 今回の件はたぶん研究員の誰かから漏れたのだろうが、相手会社との取引方法も受け渡し方法もわからず、携わった人間の情報も皆無。八方塞だ。
 どこかに綻びがあれば、そこから一刀両断できるのに。
 指でデスクを叩きながら考え込んでいたときノックが響き、返事を返したあとドアが開いた。
「副社長、ただいま帰りました」
「あぁ、ご苦労だった。わかったか?」
「はい。フェラー・コーポレーションで研究していた事実は、どこにもありませんでしたよ」
「そうか」
 午前中から調査のため、社外に行っていた松本がフェラー・コーポレーションの、ここ一年の研究内容を置く。
 全く関係ないことばかりじゃないか。それに、研究されている内容も、こちらではすでに結果が出ているものばかりだ。あそこの研究員も碌なもんじゃないな。いや、うちと比べるのは酷か。
「こちら側からの漏洩で確定だな」
「そうですね」
 これは、全研究員の調査をするしかないのか。それとも、フェラー・コーポレーションの社長を調べたほうが早いのか?
 今後の動きをシュミレーションしている横で、松本がコーヒーメーカーをセットしながら、
「そういえば、さっき葉山さんにお会いしましたよ。ハイラインの横のカフェで」
 世間話をするように、愛しい恋人の名前を口に出した。
「託生と?」
 そういえば、NYに来てしばらくしてから、ハイラインに連れて行ったことがあったな。無機質なビル街の間をぬって走る、レトロな雰囲気が好きだとはしゃいでいたっけ。
「ハンバーガーを食べていたら、なぜか葉山さんに笑われました。葉山さんって笑い上戸なんですね」
 と律儀に報告するのはいいが、松本……。
 それは、今まで託生と談笑してましたと言っているのと同じだってことに気付かないのか?
 オレでさえ、ここ数日託生の顔をまともに見てないというのに……!
 ドイツで佐智のコンサートがあると教えてくれたのは感謝しているが………おかげで、託生に怒られることはなかったが、お前まさか託生に惚れてるわけじゃないだろうな?
 でも、まぁ、託生のことならなんでも知っていたいオレとしては、なにを話していたのか気になるのも事実。
「託生となにを話したんだ?」
「えーっと、ミス・イートンのことを聞かれました」
「……秘書室のイートンのことか?」
「はい。そのイートンです」
 Fグループの社員とはいえ、島岡や松本と違い、託生にはなんの関係もない女のことを?
「なんて聞かれたんだ?」
「これと言って、はっきりしたことは……ただ、気になっていた感じだったので、『秘書室のエリザベス・イートンだ』とだけ葉山さんには教えましたが」
「そうか」
 胸の奥がじわりとなにかに侵食されていくような気がした。
 オレといる限り、託生の身に危険が及ぶ可能性がある。出来る限りの防御策を取っているが、それでもゼロではない。
 本当は、一緒にいてはいけないのだと。託生の安全を考えるのであれば、手放さなければいけないのだと、オレはあの卒業式の夜、頭に叩き込んだ。
 だから、もしも託生が別のヤツと恋仲になったときには、すんなりと別れてやらなければと理解しているはずなのに。理性ではわかっているのに、心が追いつかない。
 あのとき、事務所に来たイートンを託生は見詰めていた。他人に対して、どこか一歩引いてしまう託生にしては珍しいことだ。
「副社長?」
 気付けば松本がコーヒーカップをデスクに置きながら、オレを覗き込んでいた。
「………いや、なんでもない」
 託生はイートンに惹かれているのか?
 おれは、また託生を手放さなくてはいけないのだろうか………。


 ペントハウスに帰り、その足で託生の防音室に向かった。託生の真意を見定めるために。
 たった一度、しかも一分にも満たない擦れ違いのように会った女が、なぜ気になるのか。
 そして、もしも託生がイートンに特別な気持ちを持っているのなら………。
「あ、ギイ、お帰り」
 オレの顔を見て嬉しそうにソファから立ち上がった託生の側に足早に近寄った。
「松本に会ったらしいな」
「うん。松本さんに聞いたんだ?」
「松本にエリザベス・イートンのことを聞いていたそうじゃないか?」
 声が震えそうになり、誤魔化すために託生の腕を引っ張りソファに座る。
「あぁ、あの人ちょっと気になってるんだよね」
 オレの内心に気付かず、託生は素直に肯定した。
 それを見たとたん、じわりとしたなにかが、理性を食い尽くしていくような気がした。
 託生の身の安全のためとか、手放さなければとか、頭の片隅にいつも置いてある自制心をも食い尽くしていくなにか。
 託生に恋をしたとき、恋心と同時に自分の心の中に生まれたものだ。
「ふぅん」
「あのね……うわっ、ギイ、なにするんだよ?!」
「気になる……ね」
 託生の目がオレ以外のヤツに向けられるのが気に入らない!
 託生の口からオレ以外の名前が出るのが気に入らない!
 託生がオレ以外のヤツのことを考えているのが気に入らない!
「ギイ……?!」
「託生は、女の方がいいってわけだ」
「違う違う!ギイ、違うよ!」
「どこがだよ?!気になるって、お前、そういうことだろ?!」
 乱暴にソファに押し倒し、噛み付くように口唇を重ねる。これ以上、託生の口からイートンの名前を聞きたくなくて。
 託生を閉じ込めておければいいのに。誰にも見せず、誰をも見ず、託生の心がオレでいっぱいになるように、オレしか考えられなくなるように。
 誰にも渡したくない。オレだけの……!
「託生……たくみ………」
「ギ……あぁ……ん!……やぁっ!」
 息を継ぐ間も与えず、上り詰めるたびに次の波間に引きずり込んだ。
 託生の懇願も涙も、オレの中を占めるなにかを止めることはできない。この腕の中にいるのに、なぜ?
 何度目かの頂を越えたとき、腕の中でくたりと託生が意識を手放した。その重みに我に返る。
 白い肌に残る無数の紅い跡。涙で濡れた痛々しい頬。
「た……くみ………」
 残酷な仕打ちに眉を寄せていいはずなのに、託生は無垢な表情を浮かべていた。
 
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