波間を照らす月-9-

 目覚めたとき、隣にギイはいなかった。カーテンの隙間から入る日差しは、かなり明るい。
 体は清められ、着た覚えのないパジャマを身に付けている。
 防音室から寝室に運んで、ギイが着替えさせてくれたんだな。
「痛っ!」
 寝返りを打とうとして動かした瞬間、体中に痛みが走りベッドに逆戻りした。
「はぁ、もう……」
 動くのは無理だな。
 「愛している」と。「オレだけを見ていろ」と。「離れないでくれ」と。
 何度も訴えるように耳元で囁かれた言葉が、まるでギイの悲鳴のように聞こえていた。
 たまに喧嘩はあるけど、お互い言いたいように言い合って、でも一方的ではなく歯車が噛みあうところをお互い見つける努力をして、昔のようにやってきたつもりだった。
 ―――そう、昔のように。
 人は変わるんだってことを、ぼくは忘れていた。
 ぼくに対するギイの気持ちは変わっていない。けれども心は変わっている。
 あの呆れるくらいの心配性も、ぼくになにかがあった場合、ぼくが離れていくんじゃないかと不安になっている裏返し。
 杞憂なのに。ぼくがギイの側から離れるなんて、あり得ないのに。
 ギイ自身、ぼくと離れたほうがいいと心の奥底で思っているのを知っている。でも、ぼくが離れることは、ギイにとって恐怖になっている。
 相反する気持ちに、ギイは戸惑っているんだろう。
 だから、昨晩のように、なってしまうんだ。
 ベッドサイドに、ギイが置いていったと見られる薬とミネラルウォーターを見つけ手を伸ばした。メモも置いていたみたいだけど、面倒なので読むのを止めた。
 ギイが帰ってきたときに話せばいい。
 錠剤を手に取りミネラルウォーターで流しんだとき、口元から水が零れて枕が少し濡れたけれど、動くのはだるい。いつか乾くだろうから放っておこう。
 しばらくすると、頭がぼんやりとしてきて目を閉じる。アメリカの薬って、どうしてこんなにきついのか不思議だ。
 でも、今はなにも考えずに眠りたい。
 ぼくは、眠気に抗おうとはせず、そのまま暗闇の世界に引き込まれた。


「託生……?」
 小さく呼びかけられて目を開けた。窓から差し込む光が赤い。あぁ、もう夕方か。
 こんな時間に帰ってくるなんてギイには難しいのに。また、島岡さんに無茶を言ったんじゃないだろうか。
 心配そうにぼくを覗き込む薄茶色の瞳。
 そんな泣きそうな顔をするくらいなら、最初から話を聞いてくれればよかったのに。
「託生、気分はどうだ?」
「……お腹空いた」
「あ……あぁ、少し待っていてくれ」
 ぼくの訴えにギイは慌てて内線で食事を頼み、またぼくを覗き込んだ。
「喉、乾いた」
 今度はバタバタと冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきてキャップを開けた。
 ぼくの背中に腕を回し抱き起こそうとするギイを、じっと見詰める。
 ギイは無言の要求に躊躇いながらミネラルウォーターを口に含み、そっと口唇を寄せて流し込んだ。
「もっと」
 ぼくの言葉に、もう一口流し込む。
「もういい」
 次の言葉を待っているらしいギイに首を振った。
 キャップを閉めてベッドサイトにペットボトルを置き、いつ怒られるだろうと小さくなっているギイの襟元を掴んで引き寄せ、形のいい鼻を噛んだ。
 犬のように鼻の頭を濡らしたままのギイの、右頬を噛んで、左頬を噛んで、顎の先を噛んで 耳たぶも噛んで、空腹と抗議と八つ当たりをセットにする。
「た……託生………」
「お腹空いた!」
「もう少し待ってくれ!すぐに出来るから!」
「待てない!」
 心底困った顔をして、たぶん厨房に行こうとしたんだろう。立ち上がったギイに向かって両手を伸ばす。
 ギイはおずおずとぼくを抱きしめ、肩口に額をつけた。
「託生……ごめん………ごめ………」
「ギイって、バカだよね」
 大きな溜息を吐いて、広い背中を抱きしめる。
 結局傷ついてるのはギイじゃないか。
「離れないって言ったじゃないか。ずっと側にいると言ったじゃないか」
「……あぁ」
「ギイが離れろって言ったって、もう無理なんだからね」
 ぼくは、あの朽ち果てた小屋で決めたんだ。もう二度とギイの側から離れないって。
「愛してる、託生」
「うん」
「愛してるんだ」
「ぼくも、ギイを愛してる」
 ギイの胸の中にある恐怖感がなくなってくれるなら、何度でも言うよ。愛してるって。
 顔を上げたギイの目のふちが赤い。
「最初からギイに聞けばよかっただけの話だし。おあいこにしよ」
 ギイの頬を両手で包んでキスをした。


 持ってきてもらった食事をベッドトレイに置き、いそいそとぼくの世話を焼くギイに呆れながら食事を終え、食後のコーヒーでやっと一息ついてギイと向かい合った。
「ミス・イートンのことだけど。ギイ、今度はきちんと聞いてくれよ?」
「あぁ」
「あの人が気にかかるのは、この頃よく見かけたせいなんだ」
「どこで?」
「最初に見たのは、ギイを事務所に迎えにきたときなんだけど、そのあとドイツでの佐智さんのコンサートで見かけて、こないだも事務所に来てたから」
「事務所?なんの用だ?」
 訝しげに眉を寄せたギイに、首を傾げる。
「ギイが頼んだんじゃないの?DVDのチェックが終わったから持ってきたって。これから空港に向かうからついでにって」
「……いや、あれは松本に頼んだはずだ。あいつ、調子よく丸投げしやがったな」
 宙を睨みそのときのことを思い出したのか、ギイがムッと口を尖らせた。
 でも、ぼくのDVDチェックなんて、ギイの個人的趣味みたいなものだから、秘書である松本さんの仕事じゃないような気がするんだけど。
 と言えば、脱線しそうなんで、軌道修正。
「それで、そのあと、ぼくもDVDのチェックして気付いたんだけど、ぼくのコンサートにも来てたみたい」
「イートンが託生の?」
「うん。ついでに気になって調べてみたら過去のDVDにも映ってた」
「……クラシックファンなんじゃないか?」
「かなって思ったんだけど、なんだか違うような気がするんだ。表情がね。コンサートを楽しんでいる顔じゃない。なにか別の用事で来ているような感じ。でも、ぼくの気のせいかもしれない」
 ぼくの言葉にギイは顎に手を当てて考え込んだ。
 近所に住んでいるとか、同じ職場や学校にいるとか、同じ趣味であるとか。そういう共通したものがあるわけでもないのに、ここまでぼくがあの人を見るというのは、さすがに偶然というには無理があるような気がする。
 一歩引いて偶然だとしても、あの表情がなぜか気になるんだ。
「もしかして………」
「なに?」
 心当たりがある?
「託生、そのDVDはどこだ?」
「居間のテーブルの上にあるよ」
「お前、佐智のも持ってたよな?」
「うん。オーディオラックに並べてるけど」
 聞くなりギイは立ち上がり、隣の居間からぼくと佐智さんのDVDを持ってきた。
「これ、借りてっていいか?」
「うん、いいけど」
 それは、構わないけど。
「ギイ。なにかあったの?」
 単純にミス・イートンの表情が気になっただけなのに、ギイを見ていると、とんでもないことが隠れているような気がする。
「まだ確証がないから言えないけど、もしそうだったときには言うよ」
 軽い口調とは裏腹に、ギイは口元を引き締めた。
 
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