ラビリンス-2-

「もう!いったい、ここはどこなんだよ!」
 子供のように両手を天に突き上げ、苛立ち紛れに叫んだ。でないと、心細さに泣き出してしまいそうだから。
 ぼくもいい大人だし、ちょっとやそっとじゃ涙なんて出なくなったけれど、気付けば誰もいない森の中だなんて、
「予定にないんだよーっ!」
 残響さえ残さず森の奥深くに吸い込まれたぼくの叫び声に、返る言葉はない。
「はぁ。どうして、こんなところにいるんだろ」
 ガックリとしながらちょうどいい具合にあった切り株に座り、左手に持っていたバイオリンケースを抱きしめる。
 本当に、なにもわからないのだ。目を開けたら森の中だった。かといって、目を閉じる前になにをしていたのかも覚えていない。現実じゃない、夢の中なんだと自分に言い聞かせながら思いっきり頬を引っ張ったけれど痛いだけで、目の前の景色に変化なし。
「ギイ………」
 今、なにしてるんだろう。ぼくがいないことに気付いてるかな。
 一人になると必ず胸に浮かべるのは、ギイのことだけ。祠堂にいたときも、別れたあとも、再会してからも。ずっとずっと、ギイのことだけを愛していたから。
 ここがどこかわからないけど、ぼく以外、生き物の気配が全くない。周りを取り囲んでいる草木でさえ作り物のようだ。
 こんな不可解な世界に、どうして迷い込んだのかわからないけれど、ここから脱出しなければ、もう二度とギイには会えない。それが、ギイの望みかもしれないけれど………。
 ギイは、ずっと後悔している。ぼくと再会したことを。
 ぼくを離したくないのも本心。でも、巻き込んでしまうくらいなら、別れた方がいいと思っているのも本心。
 この一年、二人でいるのが本来の姿なのだと、事あるごとにアピールしてきたつもりだけれど、ギイの心を変えることはできなかった。
 どう言えば伝わったんだろう。ぼくは、君の側にいることだけが、ただ一つの願いなんだと。
「…………っ!」
 今、ギイの声が聞こえた……?!
 空耳かもしれない。でも、この無音の世界に異質な音が紛れ込んだはずだ。
「ギーーーイーーーっ!」
 立ち上がり、腹の底からギイを呼んだ。もしかしたら、ギイじゃないかもしれないけれど、ぼくは、ここから脱出してギイに会わなければいけないんだ。
 お願い、届いて。
「託生、どこだ?!託生ーっ!」
 ぼくの声に答えて遠くから聞こえてきた声は、間違いなくギイの声だ。
「ギイっ!ギイーーーーっ!」
 ぼくは、ここだよ!
「そこで待ってろ!オレが行く!」
 学生時代、外出時に必ず言い置いていた『迷子の鉄則』通り、ギイがぼくを探して見つけてくれた。
 よかった、ギイがいた………。
 ホッと体から力が抜け、堪えていた涙が溢れそうになり、慌てて袖口で拭う。また泣き虫と笑われるのは嫌だからね。
「託生!」
「ギイ!……………あ……れ?」
 草木の影から現れたギイに両手を伸ばし、しかしぼくはそのままの形で固まった。目の前のギイも、両手を伸ばしたまま呆気に取られたような表情をしている。
「託生?」
「ギイ?」
 ギイだけど、ギイじゃない。ギイ、そのものなのに、ギイじゃない。
「託生、だよな?」
 確認するように慎重に問いかけてきたギイは、
「そうだけど、ギイ。君、いつのまに勝手に一人で若返ったの?」
 どう見ても、ぼくより若いのだ。いつも見慣れているギイじゃない。
「オレは、そのままだけど……」
「でも、若くなってる」
 複雑な表情でぼくの頭の天辺から足の先まで、何度も視線を往復させ、
「失礼」
 と言いながら、ギイがペタリとぼくの胸に両手を置いた。
「………ない」
「は?」
 ボソリと呟かれた台詞に首をかしげつつ、
「ぼく男だからいいけど、それ、セクハラだよ」
 もしくは、痴漢。
 真っ平なぼくの胸に大きな溜息を吐き、若返ったギイはその場に力なく腰を下ろした。
「ギイ?」
「オレの託生は、女なんだ」
「………はぁ?」
 ということは、目の前にいるギイは、ぼくのギイじゃない?いったい、どういうこと?


 信じられないことだけれど、ぼく達とは別に、もう一人のぼくとギイが存在しているらしい。
「平行世界……パラレルワールドと言われるものですが、貴方達が生きている世界とオレ達の生きている世界が、なんらかのきっかけで交わってしまったのだと思います」
 若返ったギイ……ではなく、義一君が今の不可解な状況を解説してくれた。
「いったい、なにが原因なんだろうね」
「さぁ?」
 ぼくと同じく、気付けばこの世界にいたらしい義一君は、ぼくが年上だとわかったときから言葉遣いを改め、年長者には節度を持った態度を取るギイそのものだった。女の子のぼくというのは、想像つかないけれど。
「でも、ここが交差している世界なら、君の託生ちゃんと、ぼくのギイも、ここにいるかもしれない?」
「それは充分考えられますね」
 この世界に一人きりじゃないというのは、心強い。しかも、ぼくのギイではないけれど、ギイなのだ。この世界から脱出する方法が見つかりそうな気がする。それに、もしも、もう一人のぼくとギイがいるのなら、早く探さなければ。
 同意して頷いた義一君の左手に指輪が光っているのに気付き、
「結婚してるんだ?」
 驚きの声を上げる。
 さっき、二十二歳だって言ってたよね。
「えぇ。託生が二十歳になるのを待って」
「そっか」
 そういえば、昔ギイが『二十歳になったら結婚しよう』なんて、本気とも冗談とも取れることを言っていたなと思い出し、口元で笑った。そして、ほんの少し羨ましく思う。
 ぼくは、この頃のギイを知らない。
 でも、この二人は別れることなく、手を取り合い未来に向かって歩いている。今更、離れていた十年を後悔しても仕方ないけれど……。
「どこまでが同じ人生だったのかな?それとも、最初から全然違う人生だったとか?」
「おそらく祠堂卒業間際までは、同じだと思いますよ」
「祠堂?女の子なのに?」
「……卒業間際に、女性だと判明したんです」
「あぁ………って、ものすごく重大な事件じゃないのかい?!」
 それなら、そこまでの人生は重なっていたかもしれないなと単純に納得しかけ、しかし、その台詞が度肝を抜かれるような爆弾を含んでいることに気付き、驚きの声を上げた。
 他人事であって他人事じゃないような気がする。違う世界であれど、ぼくなんだ。
「まぁ、色々とありましたけど、今は落ち着いてますから。託生さんと義一さんは、卒業後どうされたんですか?」
 しかし、問題はないと微笑む義一君の余裕のある態度に、ぼく達との差を感じ俯いた。
「………卒業と同時に別れたんだ。一年前に再会して、今は一緒にいるけど」
 ギイと一緒にいたい。心から望んでいるのに、受け取ってもらえない歯がゆさ。ギイの気持ちを疑っていないけれど、ぼくが手を離したとたん、また過去の世界に囚われるであろうギイの弱さを、ぼくは理解しているから。だから………。
「貴方の義一さんは、自分勝手な人ですね」
 吐き捨てるように投げかけられた言葉に、ギイを嘲笑われたような気がして、目の前が真っ赤に染まった。
「ぼくの命を守るために、ギイは離れたんだ!」
 そうだ。あのとき別れなければ、今、ぼくは生きていない。そんなことになれば、たぶんギイも、この世にはいない。そういう人だから。
 ぼく達は、ぼく達の世界で精一杯生きていた。そして、離れていた時間も愛し合っていた。それは、紛れもない事実だ。
 爪が食い込むほど握りしめ震える拳を義一君が両手で包み込み、ぼくは自分がなにをしてしまったのか今更ながら気付いて狼狽えた。
「あ………」
「大丈夫ですよ。手が早いのは、オレの託生も同じですから」
 そう笑う義一君の口唇の端が血で滲んでいる。
「それより、現役のバイオリニストに素手で殴らせてしまってすみません」
「どうして、君………」
「オレの託生と託生さんは違うけれど、オレは託生にそういう顔をしてもらいたくないんです」
「どういう意味?」
「託生さん。今、本当に幸せですか?」
 そう問いかけられて言葉が詰まった。
 十年の時を越え、もう一度ギイと愛し合って、そして今はギイの側にいる。離れていた十年を思い返せば、これほど幸せな日々はない。でも………。
「たぶんオレは、貴方のギイを誰よりも理解できます」
 ギイは聡い人だ。だから、義一君もぼく達の不安定な仲を勘付いているのだろう。
 でも、
「ぼくも、ギイを理解しているよ」
 ポロリと涙が零れた。
 ぼくを愛してくれていること。愛しているからこそ、離れなければと思っていること。そして、そんな自分の心に傷ついていること。
 嗚咽が止まらないぼくを、義一君は、ずっと背中を撫でてくれていた。
 
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