ラビリンス-3-

 ルフェビュール城に向けて森の中を歩き出し、一時間ほど経った頃だろうか。少し開けた所に、小さな泉が湧きでていた。水面はゆらめいているのに、なんの音も聞こえないのが不気味だが。
「あの水、飲めるかな?」
 ポツリと呟いた託生ちゃんに、オレも少し喉が渇いていることを感じ、
「見てみようか?」
 方向を変えて泉に近寄ってみる。
 底が見えるほど澄んだ泉に、飲用にできるか確かめてみようと手を伸ばしたその時、オレ達を映していた水鏡がゆらゆらと滲み、次に現れた人影に息を飲んだ。
「ギイ!」
「ダメだ!消えてしまう!」
 ビクりと動きを止め、伸ばした指を押さえつけるように胸に抱き、託生ちゃんが「ギイ」と彼を呼ぶ。
 オレ達を映しているようで、微妙に違う。なぜなら、そこに映っているのは、彼女のギイと、オレの託生だ。
 やはり、この世界のどこかにいるんだな。
 水鏡の向こうで、託生が同じように手を伸ばそうとしてもう一人のオレに止められていた。零れ落ちそうな涙を堪えて。
「託生………」
 いつも手を伸ばしていたのはオレだった。そして、繋げた手を離したのもオレだった。
 もう一度触れた手の温もりに安らぎを感じ、心地よい幸福感に酔いしれ、同時に罪悪感がゆっくりと胸の奥底に根付いていくのを、オレは気づいていた。オレの幸せのために、託生を犠牲にしていいのかと。
 水鏡が二人の姿をゆらりと滲ませ、またオレ達二人の姿を映し出す。
 今は、無事でいることがわかっただけでいい。もう一人のオレが一緒なら、必ず大丈夫だ。
 一瞬だけ絡んだ彼の視線が、オレと同じ色を映していたから。
 託生を頼む………。
「彼が、君のギイ?」
 コクリと頷き、ポロポロと涙を零す託生ちゃんの頭を撫でる。このくらいは、お互いさまで許してもらえるだろう。
「大丈夫だったろ?絶対会えるから、もう少しがんばろうな」
「はい………!」
 涙を拭い、ニコリと笑った託生ちゃんは、やはり託生同様前向きだ。彼も、この性格に助けられたことも多いだろう。今のオレのように。
「さて、二人がいるのはどっちの方向なんだろうな。城に着く前に合流できればいいんだけど」
 鬱蒼とした森の中。いったい、どっちの方角に二人がいるのか………。
「あ………あっち!バイオリンの音が聞こえます!」
 託生ちゃんが、城から三時方向を指差し、オレの手を引っ張った。
 耳を澄ましても、全くオレには聞こえない。託生と同じく彼女の耳もいいらしい。
「でも、向こうは、オレ達の場所がわからないよな。そのまま城に直進されたら、遠回りになってしまう」
「ですね……」
 音の聞こえた方向をしょんぼり見る託生ちゃんに、狼煙でも上げられないものかと、周囲を見回しているとき、彼女が嵌めているマリッジリングが光り、空に向かって真っ直ぐに白い光が伸びた。まるで、オレ達の場所を教えるように。
「あ………」
「へぇ、便利なもんだ」
「どうせなら、どこでもドアが出てきたらいいのに」
「そこまで贅沢はさせないぞって?」
「あはは、かもしれませんね」
「では、行こうか」
 大切な人に会うために。


 山越え谷越えは大げさだが、時折聞こえてくるバイオリンの音に向かって真っ直ぐ道なき道を直進し、そろそろ合流できるはずだがと注意深く進んでいると、進行方向に二人の人影が小さく見えてきた。
「ギイっ!」
「託生、走るな!オレがそっちに行く!」
 同時に、隣で歩いていた託生ちゃんが走り出したのだが、焦った義一君の声に素直に足を止めた。確かに、この悪路で走ると間違いなく転ぶ。
 ここまで来れば、あとは彼に任せていいだろう。全速力で走ってくる彼に負けじと、オレも走り出した。
「ギイ」
「託生、大丈夫か?どこも怪我はないか?」
「うん、義一君が守ってくれてたか……ん」
 抱きしめてキスをして、本物の託生か確認する。しっくりと腕に馴染むこの抱き心地。これがオレの託生だ。
「ギイ、ちょっと……」
 あっちの二人を慮って小声で抗議する託生に、
「向こうは向こうで、同じだと思うぜ?」
 振り向かずともわかる。なにしろ、もう一人のオレだからな。
「無事でよかった………」
「………うん、ギイも」
 もしかしたら託生もこの世界に囚われているかもと気づいたとき、ゾッとした。離れて生きていたときとは違い、こんな不可解な世界に放り込まれたら、生死さえもわからなくなる可能性があったのだ。本当に、よかった……。
 ひとしきり託生の無事を確認し振り向くと、もう一人のオレはまだまだ忙しいようで、そのメロメロ具合に微笑ましくなる。なるほど、たしかにオレより過保護だな。
「わ、ほんとに女の子なんだ……」
「でも、それ以外は、託生とそっくりだぞ?」
 胸さえなければ、託生と瓜二つだ。顔も性格も。もちろん、オレの愛しているのは、隣にいるオレの託生だけどな。
 そろそろ話をしようかと二人に向かって歩きだし、しかし聞こえてきた会話の内容が、オレの眉間に皺を寄せた。
 彼とオレは、ほぼ考え方が一緒のはず。にも関わらず、オレ以上に過保護なのは、なにか理由があるのではと、なぜ気付かなかったのか。
「本当に、無理してないだろうな?!」
「大丈夫だってば」
「腹が痛いとか、違和感はないか?!」
「しつこいよ、ギイ。無理してません。大丈夫」
「もしかして、託生ちゃんって………」
 隣で呟いた託生の声に、警笛が鳴った。
 過保護すぎて鬱陶しいと訴えていたが、オレが同じ立場なら、そりゃ過保護にもなる!
「大丈夫だって。心配性だなぁ。ギイの子供なんだから強いに決まってるじゃないか」
 ………はい、確定。
「託生ちゃん………」
「はい?」
 今までの会話を総合するに、
「君、妊娠中?」
「五ヶ月に入ったところなんです」
 頬を染めて俯いた託生ちゃんに代わり、義一君が答えた。少し彼が疲れて見えたのは、オレの気のせいじゃない。
「わー、すごい!おめでとう!」
 素直に歓声を上げ、託生が託生ちゃんの手を取って喜んでいるが、今まで一緒にいたオレは、どれだけ彼女が無茶をしていたのかよくわかっている。
 走って、つまづいて、転びかけて、もちろんオレがいるから転ぶ前に抱き留めたが、自分のギイがこの世界にいると知ったあとからは、ピョンピョンとスキップをするように「早く早く」とオレを急かして………。ここに来るまでの数時間の出来事が、走馬灯のように脳裏を流れ、ザーッと血の気が引いてきた。
「パッと見、わからないね。全然気付かなかったよ」
「あ、そうですか?それなりに大きくなってきてるんですよ、ほら」
「た、託生、止めろ!」
 託生の言葉に答えながら、躊躇いなくシャツの裾を捲ろうした託生ちゃんに、義一君が声を裏返しそうになりながら慌てて止める。
「どうして?」
 心底不思議そうに見返す託生ちゃんに、乾いた笑いが浮かぶ。オレも託生も一応男だということに気づいているのか、全くもって疑問だ。あぁ、それとも、これが祠堂に在籍していた弊害というやつか?男に対して、なんの警戒心も持っていないらしい。彼も苦労するな。
「お腹、触らせてもらっていいかな?」
「はい、どうぞ」
 腹を撫でさせてもらっている託生を横目に、
「オレが付いていたのに、すまない。かなり無理をさせたと思う」
 義一君に頭を下げた。知らなかったとはいえ、妊婦に無理をさせたなんて、許されざることだ。
「いえ、いつもそうなんで、気にしないでください」
「いつも?」
「えぇ、四六時中、毎日」
「大変だな」
「それが託生ですしね」
 ハハハと力なく微笑む義一君に同情を禁じえない。
「でも、ギイは過保護すぎ」
 彼の言葉に、むーっと隣で頬を膨らませた託生ちゃんが噛みついた。
「お前が、無茶ばかりするからだろうが!」
「してない!」
「してる!」
「してない!」
「しーてーるー!」
「しーてーなーいー!」
 目の前で、ぎゃんぎゃんと始まった夫婦喧嘩に、こめかみを押さえる。オレ達も、はたから見ると、こうなんだろうな。なんとなく章三の気持ちがわかったような気がした。あいつの前では、控えてやるか。
「でも、やっぱり、過保護と心配は違うような気がするよ。ね、託生ちゃん?」
「ですよね!」
 託生の声に味方を手に入れたとばかりに、嬉しそうに託生の手を取って喜んでいるけれど、そもそもこの二人は一緒なんだ。無茶をするところはそっくりなのだから、託生の言葉は当てにならない。
「そちらも、同じようですね」
「………どの世界のオレも、託生に振り回される運命なんだな」
 げっそりとした気分で、しかし、それが心地いいとさえ感じるオレは、託生に勝負を挑む気さえ起こらない。
 恋は、惚れたものが負けなのだ。
 
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