ラビリンス-5-
瞼の向こうがほんの少し明るく思えて、目を開けた。馴染みのないレトロな天井。
不思議に思い横を向くと、 「ぼく?」 自分の顔が飛び込んできて、一気に目が覚める。 えっと、ここ……あ、そうだった。変な世界に迷い込んでしまったんだ。一晩寝たら戻っている、なんて都合のいいことはさすがにないよね。 「ギイ達は………あれ?どこか、行ってるのかな?」 部屋の中にはぼく達二人だけ。 不可解な世界で、なにが起きるかわからない状態の中、ギイが離れるなんて腑に落ちないけれど、とりあえずは大人しくこの部屋にいた方が良さそうだ。託生ちゃんを一人にするわけにはいかないし。 窓のカーテンをほんの少し捲って、外の景色を見てみた。遠くの方は霞んで、よくわからないけれど、あの暴漢に襲われた小道が存在している。いったい、どこまでがルフェビュール城の領域なんだろう。 あのとき、ギイはこの窓からぼくを追う暴漢を見つけ、慌てて追いかけてきたらしい。ギイの俊足でなければ、とうの昔に、ぼく一人だけ誘拐されていただろう。 卒業間際に起こった事件の全貌、ぼく達の変わらぬ気持ち。 知ってしまったら離れて暮らすことなど考えられず、ギイの暴走に乗じて慌ただしくNYに移転した。あの短期間に一気に物事を進めたから、ぼくはNYに来れたんだ。あと少しでも遅れていたら……ギイが心の奥底にある気持ちに気付いてしまっていたら、全てが白紙になり、ギイと連絡が取れなくなっただろう。そして、また同じような十年を過ごしていたような気がする。 新しい事務所を用意したとき、ぼくを巻き込む危険性が高まったのだということに、ギイは気が付いた。 あの厳重なセキュリティが施された事務所に、SPの増員。ぼくが気付いていないだけで、もしかしたら事務所の外にも、ガードがついているのかもしれない。 そこまでしてもギイの不安は晴れず、行き着くところは、別れだ。 「ん………」 ぼんやりと裏庭を見ながら考え込んでしまっていたぼくの耳に、小さな声が届いた。 振り返ると託生ちゃんが目をこすりながら部屋を見回してぼくに視線を定め、不思議そうな顔して、 「……………ぼく?」 ポツリと呟く。 身に覚えのある反応に吹き出した。やっぱり、ぼくはぼくだった。 「え、あぁっ、託生さん!」 「うん、おはよう、託生ちゃん」 「おはようございます」 ベッドに座りきっちりと頭を下げて、お腹を撫でながら「おはよう」と赤ちゃんにも声をかける。 それが、とても可愛く微笑ましい。 「あの、ギイは?」 「それが、ぼくが起きたときには二人ともいなくて」 「そうですか」 と答えつつ、でも、それ以上の詮索はしない。ぼくも同じだけれど。ギイが無意味な行動をしないのを知っているから。 じっとぼくの顔を見ていた託生ちゃんが、心配そうに小首を傾げた。 「なにか悲しい夢でも見られたんですか?」 「え?そんなことないけど、そんな風に見える?」 「んー、じゃ、もしかしたら元の世界には戻れるかの心配しているとか?」 「それはあるかもね」 苦く笑いながら頷いた。昨日から、なにがなにやらさっぱりわからない状態なんだ。心配になるのは仕方がない。 でも同じ環境にいるはずなのに、 「大丈夫ですよ、きっと戻れます」 なんの心配もいらないと、彼女がニコリと笑った。 その笑顔を見るだけで、本当になにも心配がないような気分になり、ぼくの心は軽くなったけれど、根拠があるのだろうか。 「なにか知ってるの?」 「いいえ、なにもわからないですけど、いつの間にかここにいたから、またいつの間にか帰れそうだなって」 「前向きだね」 清々しいくらいに。 もしかしたら、ぼくもこのくらいの歳のときは、そう考えたのかもしれない。今は、大人の嫌な部分とか社会とか色々なことを見てしまった分、何事も後先の繋がりを理屈で考えてしまう。 「自分の意思で状況が動かないときもあるんだと思うんです。だから、今は待つしかできないかなって」 しかし続けられた言葉は、さっきの前向き発言とは裏腹な、後ろ向き発言。……の割には、さっぱりとした表情。 「努力しても無駄ってこと?」 「ときには…です。どう努力したって、男に戻れなかったんですから」 あ……そうだった。女性の体つきをして、お腹に子供もいるから忘れていたけれど、元々、託生ちゃんは男として生きてきた。卒業間際に判明してから、新たに女性としての生活を送っている。 「それなら、今を受け入れて、これからのことを考えようって」 「今を受け入れる、か。君は強いね」 「強くはないです。何度も落ち込んで、ギイに迷惑かけたりしてますし」 託生ちゃんは何気ない風に言っているけれど、その考えに行きつくまで、どれだけ苦しんだのだろう。もしも、ぼくが女性だったら……全く想像できない未知の世界だ。 卒業後、別れることなく一緒にいる二人を羨ましいと思ったけれど、義一君が側にいなければ、託生ちゃんはこのような笑顔を取り戻せなかったのではないだろうか。 「今の目標は、託生さんのように自立することです」 「え、ぼくぅ?」 突然、ぼくが目標だなんて言われて、思いっきり狼狽えた。そんなキラキラした目で見られたら、とんでもなく照れ臭い。 「託生さんは、バイオリニストなんですよね?」 「う……うん」 「すごいですよね。ご自分の力で努力して道を切り開いてバイオリニストになれるなんて」 「そうかな?」 「そうですよ。それって、自立してるってことですよね」 「うーん、でもこの歳だからね。ぼくだけじゃなく、他の人も同じじゃないかな?」 世間的にアラサーなんて言われる歳で、赤池君なんて奈美子ちゃんと結婚して新しい家族を作ってるし、普通のことだと思うのだけど。 「ぼくは、ギイの保護下にいるようなものなんです。ギイは、こういうことを言うと嫌がるけど、金銭的にも全部ギイに頼ってます」 「でも、それは色々と仕方ないことなんじゃないかな」 どのような経緯でNYに行き、どんな生活をしているのかよくわからないけれど、高校卒業後すぐってことは、彼女は当時未成年の子供。しかも、右も左もわからないNY。学校や病院のことも含め、下手に動くより義一君に頼ってしまった方がいいような気がする。 気持ち的に納得できないところがあるかもしれないけれど。 「だから、自立したいんです。託生さんを見ていると義一さんと対等に支え合ってるように見えるから。………もっと強くなりたい」 彼女の目が、力強い色を持ち眩しく光る。 「でも、君とぼくとでは立場が違うし、今は自分の意思だけで動くこともできないだろ?極端な例だけど、赤ちゃんがお腹にいるんだから行動そのものが制限されてる」 「はい。だから、何年後になるかわからないけれど、いつか自分の生き方を見つけたいなって」 「長期計画だね」 「はい。いつか見てろよ!な気分で」 拳を握り、まるで義一君に勝負を挑むような彼女が可笑しくて、吹き出した。 「義一君、過保護だから邪魔されないようにね」 「邪魔したら、蹴っ飛ばします」 今を受け入れて前を見る。そして、未来を見ている。 あぁ、たしかこの歳くらいだったな。ギイを忘れようとして、忘れられなくて、それならギイを愛し続けようと自分に誓ったのは。溢れる思いを封印しようだなんて、元からできるものじゃなかったんだ。 ギイを愛してる。これは、誰にも止められない。ギイにも。ぼく自身にも。 十年、ぼくがギイを想って生きてきたように、ギイにもギイの十年がある。 それだけ離れていたんだ。その間に根付いた考え方を変えるのには、同じだけの時間がかかっても仕方がないような気がした。 ぼくは、焦りすぎてたんだ。 努力は必要だけど、今を認める勇気も必要だ。 ギイがぼくの気持ちを受け取ってくれるまで、それまで待とう。何度別れても、ぼくとギイは巡り合うような気がするから。そういう運命を感じるから。 「あれ、起きてたのか?」 ノックもなしにドアが開き、ギイと義一君が揃って部屋に入ってきた。 「おはよう。どこに行ってたの?」 「ちょっとな……。託生」 指先でちょいちょいと呼ばれて側に寄ると、ギイはそのままぼくの腕を引き、廊下に連れ出した。 ギイの背後に見える窓から光が幾重にも折り重なり、幻想的な空間を作り上げている。ギイの輪郭が、光に融けそうだ。 「託生は、元の世界に帰りたいか?」 ぼくの手を握り締めたまま、ギイが真剣な瞳で聞く。 「なに言って………」 帰りたいに決まっているじゃないかと答えようとして、ふと気が付いた。 ここなら、誰も邪魔する人がいない。なぜなら、ぼく達だけだから。ぼくを自分の世界に巻き込む心配がないということは、ギイがぼくを手放すという選択がなくなる。 ずっとギイが隣にいて、ずっとぼくだけを見詰めてくれる極上の世界。綿菓子のように甘い夢の………。 でも、それでいいのか?止まった時間の中に生きていくのは、未来を捨てることに繋がるんだ。 ギイを取り巻く世界、ぼくを取り巻く世界。桜井さんや事務所スタッフ、島岡さん、松本さん……大勢の人達を捨てて生きるぼく達は、本当に幸せを感じるのだろうか。 いや、違う。ぼくは未来を見たいんだ。ギイと生きる世界は、こんな世界じゃない。 「ぼくは………帰りたい!」 ギイと歩ける元の世界へ。 「………わかった。元の世界に帰ろう、託生」 「帰れるの?」 「あぁ、帰れるよ」 驚きに目を丸くしたぼくに優しい笑顔を浮かべ、 「一緒に帰ろう。託生、愛してる」 囁きを直接注ぎ込むように降ってきたキスに答えつつ、そっと胸で呟いた。 ぼくも、君だけを愛してるよって。 |