ラビリンス-6-

 遅れて部屋から出てきた義一君と託生ちゃんも一緒に、ぼく達は裏門から裏庭に続く小道に出た。歩くたびに乾燥した砂が砂埃となって舞い上がり、匂いが鼻をつく。
 そのときになって、初めて昨日から感じていた違和感の理由に気付いた。
 あの森にいたとき、音も匂いも風も、ありとあらゆる自然に起こる現象が存在しなかったのだ。目に映っているのに幻のように感じていたのは、これが原因だったのかと、ようやく思い至った。
 変わったのは、四人が合流しルフェビュール城の門をくぐったときだ。今思えば、目に見えない境界線のようなものがあったような気がする。
 普段当たり前のようにあるから、それほど気にはならなかったけれど、あの瞬間から全ての物が存在していた。石壁の冷たさも、料理の匂いも、靴音も、布の温かさも。
 そして、今、この小道を歩いて同じ感覚を感じているから、ここも存在しているんだ。
「気分悪くないか、託生?」
 ギイの声に顔を上げると、心配そうにぼくを見るギイの瞳とぶつかった。
「ううん、全然」
 と答えながら、なんとなく見覚えのある風景に首を傾げる。
 そういえば、この辺りだったっけ。暴漢に襲われたのは。
 心配性のギイ。あの事件を思い出して、ぼくが嫌な気分になったのではと心配になったのかな。
 嫌な記憶じゃないよ。それどころか、こうしてギイの側にいれるのは、あの事件がきっかけなのだから、今は感謝さえしてる。あの頭痛は、二度と経験したくないけど。
 顔を曇らせているギイに全然気にしていないよと笑いかけ、繋いだ手に力を込めた。
 小道を逸れ、このまま行けば、あのボート小屋のあった場所だ。
 案の定、湖の畔に変わらず建っている崩れ落ちそうな小屋に、クスリと笑った。誰も来ないとは言え、よくあんなボロ小屋で、ギイに迫ったものだ。
「まだ、残ってたんだね」
「いや。オレ達の世界では、もう小屋はないぞ」
「そうなの?」
「ミシェルが恨みでもあったのかってくらい見事に解体してくれたからなぁ」
「へぇ」
 散々、お貴族様の領地に似つかわしくないと騒いでいたから、ぼく達が帰った後、すぐに壊してしまったんだろう。
「改めてボート置場を作って、今は白鳥のボートが並んでるぞ」
 しかし、続けられた言葉にポカンと口を開けた。白鳥のボートって………。
「公園の池とかに浮かんでる、あれ?」
「そ、あれ」
 目の前の湖に白鳥のボートが、とぼけた顔で優雅に水面を行き来しているのを想像して吹き出した。
 これこそ、お貴族様に相応しいとかなんとか言いながら、ミシェルがいたずらっ子のように笑っているのが目に浮かぶ。ナタリーもそういうの好きそうだし。城の見学に飽きた子供達には好評かもしれない。
「義一さん」
「あぁ」
 義一君に呼ばれて、ギイは表情を引き締めた。そして、二人に向き合い頭を下げる。
「義一君、託生ちゃん、付き合わせてすまなかった。ありがとう」
「いいえ。こういう冒険もなかなかオツなものでしたよ。な、託生」
「………お城の中、見たかったなぁ」
「お前、まだ言うか」
 呆れ半分、でも愛しくてたまらないという風に肩に回した腕で託生ちゃんを引き寄せ、ついでに、その手でコツンと頭を小突く。
「ギイ?」
「この小屋をなくしたら、オレ達は元の世界に帰れる」
「えぇっ?!」
 どうやってここに来たのか、なんのために来たのか。いったい、ここはどこなのか。なにもわからないのに、なぜギイは断言できるんだ?
「ど……どうして、そんなことがわかるの?」
「それは、ここがオレの心の中の世界だから」
 予想もしなかった答えが返ってきて、ギイを呆然と見つめた。
 ギイの心の中の世界………?あの森も、ルフェビュール城も、この湖も、ギイの心の中にあったということ?じゃあ、なぜ、ぼく達だけじゃなく、別世界にいるはずの二人までここにいるんだろう?いや、そもそもギイの心の中って、そんな漠然とした目に見えない世界に入れるものだろうか。
 謎だらけで、どこから紐を解いたらいいのか、いや、紐の先さえもぼくにはわからない。
「君達の子供が見れないのが残念だよ」
「オレと託生の顔を足して二で割って貰えば、想像できますよ」
「それ、なかなか難しいぞ」
 しかし、ギイと義一君の間では話がついていたらしく、差し出したギイの手を義一君がしっかりと握りしめた。
 その様子を見て、ハッとする。元の世界に戻ると言うことは、この二人には、もう二度と会えないんだ。
「託生さんもお元気で」
 差し出された右手に手を重ね、ギュッと握った。
 同じギイの手なのに、ほんの少しギイとは違う。もう一人のギイ。
「うん、色々とありがとう、義一君。殴っちゃって、ごめんね」
「いえいえ、慣れてますから」
「気にしなくていいですよ。どうせ、ギイが義一さんの悪口でも言ったんでしょうし」
「たーくーみーっ」
 二人のじゃれ合いに、笑みが浮かぶ。ぼく達もこうなのかなと思うと、ちょっと複雑だけど。
「元気いっぱいの、赤ちゃん産んでね」
「ギイの子供ですから、絶対元気ですよ」
「がんばってね」
「託生さんも」
 同じぼくだけど、違う世界で生きるぼく。こんなことがなければ、会えなかったもう一人のぼく。これから先、人生が重なることはないだろうけど、彼女には彼女なりの幸せな人生が待っているに違いない。
 そう思うとなぜか愛しさが胸にこみ上げ、思わず託生ちゃんを抱きしめた。
「あ………」
「託生………」
 背後で、唸るような二人の声が聞こえたような気もするけど。
 もう一人のぼく。どうか、幸せに………。
「じゃ、つけるぞ」
 名残惜しいけれど、ずっとこうしているわけにはいかない。ギイの合図に託生ちゃんを離して義一君に返し、小屋から数歩後ろに下がった。
 ホテルから持ち出したらしい紙にライターで火をつけ、ギイが小屋の入り口に置いた。そして、ぼくの側に駆け寄りしっかりとぼくを包み込む。義一君も託生ちゃんを抱きしめていた。
 右に左に転がりながら紙を燃やしていた火はパチパチと大きくなって、すぐ小屋に燃え移り、瞬く間に視界を真っ赤に変えた。元々ボロボロだった小屋は、その古さもあって乾ききっていたのだろう。ゆらめく炎の中で、徐々に小屋が形をなくしていく。壁が倒れ傾き、そのたびに大きな火の粉が飛び散った。
 これだけ大きな炎を間近で見るのは初めてなのに、なぜか恐怖はなかった。
 炎は焼き尽くすことで浄化の作用があるのだと聞いたことがある。水も流し清めることで浄化すると。どこで聞いたのか忘れてしまったけど。
 大きな音を立てて小屋が崩れ落ちる瞬間、ぐにゃりと視界がゆがんだ。
「帰ったら、大切な話がある」
 抱きしめられた腕の中。耳元で囁かれた言葉に頷いて、背中に回した腕でしっかりとギイを抱きしめた。離れないように。元の世界に一緒に戻れるように。
 
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