背中で感じる恋 -5-

 古ぼけたテーブルの上に置いたトランクを、男が震える手でロックを外した。中身を恐る恐る触り本物だと確認したとたん、声にならない歓喜の声をあげる。
「ほ……本当に、いいのか?」
「かまわん。さっさとそれを持って、どこかに行ってくれ」
「あぁ。これだけあったら、どこにでも行ける。あのモリスからも逃げ切れる!」
 男はガタガタと椅子を鳴らしトランクを両手で抱きかかえ、逃げるようにドアの向こうに消えた。
 手袋をはめた島岡が、男が置いていった鞄からディスクを一枚取り出し、ポータブルプレーヤーにセットする。
「胸糞の悪い趣味だな」
「それには同意しますね」
 音声をオンにすれば、甘い嬌声どころか悲鳴が聞こえてくるだろう。託生も同じような目に合わされていたかもしれないと考えるだけで、血が逆流するくらいの怒りを感じる。
「一応、残りのディスクも確認しておいてくれ。明日の朝一番で、各社に指示を。違約金が発生するなら、こちらに回せと言っておけ」
「承知しました」
 桜井によると、事務所にはまだとぼけた電話が入るらしい。託生が落ちるのを、涎を垂らしながら待っているのだろう。
 託生を汚らわしい目で見やがって。
「それだけで、十分罪になるんだよ」
 画面の中で醜い体を晒しているモリスに吐き捨てた。


 島岡の配慮により、いつもよりは早く帰宅できた。この時間であれば、まだ託生も起きているだろう。
 そう思いながら入った寝室に託生の姿はなかった。
 バスルーム、隣の居間と覗いて、部屋の向かい、防音室のドアをノックする。ややあってドアが開き、託生が顔を出した。
「ギイ…!」
「ただいま」
 滅多にないオレの早い帰宅に目を丸くしつつも、
「お帰り」
 嬉しそうに微笑む託生の頬にキスをする。
 目を閉じてキスを受けた託生が、どうぞという風に一歩後ずさり、オレは部屋に足を踏み入れた。
 託生がNYに来る前に、急遽リフォームした防音室。部屋の中心にベーゼンドルファー。小さな応接セットとは別に物書き用のデスクがあり、その横のサイドテーブルにはノートパソコンが開けっ放しで置いてある。更にその横には日本から持ち込んだキーボード(鍵盤楽器)とプリンタ。
「キーボードで弾けば、自動的に楽譜にしてくれる便利なもの」
 と、パソコンの扱いが苦手なのにも関わらず、こと音楽ソフトだけは使いこなすという、器用なのか不器用なのか未だに判断できかねる託生の一面だ。
「まだ、練習していたのか?」
「もう、終わりだけどね」
 そう言いながら、譜面台に乗せていた楽譜を片付け、ピアノの椅子に座ってクロスでバイオリンを丁寧に拭き始めた。
 手入れが終わるのをソファに座って待っていると、
「明日から恋シリーズのレコーディングなんだ」
 託生が世間話をするように口を開いた。
 いつもより早い時期でのレコーディングは、モリスのせいだろう。今の託生にはレコーディングくらいしか仕事がない。
 ごめんな。あと数日で決着つけるから。
「今度のCDは、こちらに来てから作ったものばかりを集めてて、ちょっと今までとは雰囲気が違うんだよ?」
 楽しみにしててねと託生が笑う。
 桜井から仕事の報告をなくしたのは、託生から直接聞きたかったからだ。しかし実際はオレから言い出さなければ、託生は仕事に関して何も話さなかった。
 だから、今のように託生から聞くのは初めてだ。
 どういう心境の変化だ?
 オレの声が聞こえたかのように、
「ギイが不安なら、全部話すよ?」
「え………?」
 バイオリンから目を離さず、ポツリと言う。
「練習は見せられないけどね」
「なぜだ?」
「思ったとおりに弾けなくて、落ち込んでいる姿なんて見せられないよ」
 クスクスと笑いながら託生は言うが、
「そんなの今更だろ?」
 祠堂でどれだけ託生の練習を見てきたか。何度も何度もフレーズを繰り返し、自分が納得するまで練習をしていた姿が鮮やかに蘇るのに。
 ケースの蓋をカチリと閉めて振り返り、託生はオレを見詰めた。
「ダメだよ。ぼくはプロなんだ」
 そう言い切った託生の顔が、佐智と重なった。


 ノックの音と共に島岡が顔を出し、
「アポなしで、モリスが乗り込んで来ているようですが」
 どうします?と、面白そうに問いかける。
「計算どおりだな」
 オレまでたどり着くのに、きっちり一週間。そう思って、ここ二日はデスクワークを入れていたんだ。
 クスリと笑い「会ってやるか」オレの返事に、島岡は階下に連絡を取った。
 下準備が済んだ一週間前。モリスの持っている番組全て、Fグループ関連はスポンサーを降りるように指示を出した。モリス以外の番組はそのままなのだから、ターゲットは自分なのだと本人も、そして他の人間も気付いているだろう。
 人気プロデューサーとは言え、スポンサーがつかなければ番組は成り立たない。ちょうど番組編成が行われる時期だ。当然、局からも干されているだろう。
 なんてことはない。託生がされた事を返しただけだ。
 数分後、数人のSPに連れられて、モリスが部屋に入ってきた。
「初めまして。ピーター・モリスと申します。突然の訪問、申し訳ありません」
 怒りを押し殺して頭を下げるモリスにソファを勧め、
「今日は、どのようなご用件で?」
 すっとぼけた振りをして、話を振った。
「どうしてFグループが私の番組のスポンサーをいっせいに降りたのか、理由をお聞きしたくて参りました」
「理由ね……それは、貴方が一番よくおわかりだと思いますが?」
「わからないから、尋ねているんです!副社長のお気に触るような事を、私はやった覚えがない!」
「ふぅん」
 軽く頷いて胸元から取り出したカードを、モリスの前に滑らす。名刺とは別に使っているらしいプライベート用のカード。桜井が保管していたのをオレが預かったのだ。
「タクミ・ハヤマのストラディバリは、オレの物なんだ」
 カードを凝視していたモリスの顔から、血の気が引き額に脂汗が滲んでくる。自分が誰に絡んだのか、これでわかるだろう。
 一局のプロデューサー風情が、この崎義一に喧嘩を売るとどういう事になるか、身を持って教えてやっているのだから感謝してもらいたいものだな。
「ベッドを断られたから、その腹いせに音楽活動を妨害とは大人気ない事してくれるじゃないか。バイオリニスト一人を潰すことなどわけはないとでも?舐めたまねしやがって」
「そ……それは………」
「芸能界の裏世界なんて、お前らが勝手にやっているだけだろうが。お前達には体を使う事など当たり前だろうけどな、一般常識を逸脱している行為なんだって事を認識しろ。託生をその辺りの芸能人扱いなど、このオレが許さん」
「も………申し訳ありません!」
 その場で床に頭をこすり付けているヤツを一瞥し、
「島岡、モリス氏がお帰りだ!」
 話は終わりだとばかりに言い捨てた。
「あの!もう二度と、このような事はしませんから!お願いします!このままでは私……!」
 この期に及んで自己保身か。自分がまだ許されると思っているのか?能天気なやつ。
 退室を促す島岡の手を振り払って、必死の形相で追いすがるモリスを鼻で笑い、
「………もう一度スポンサーについてやってもいいぜ」
 とりあえず天国に引き上げてみる。
 オレの言葉にモリスの顔が輝く。
「あ、ありがとうござ………」
「お前が、ここから局に戻れるのならな」
「そ…それは、どういう………」
 数枚の写真を床に放り、
「お前の性癖も警察にバラしておいたから。ロリコン趣味のSM好きだってな」
 あっけなく天国から地獄に突き落とされ、わなわなと体を震わせ激高して掴みかかろうとするモリスを、SP達が羽交い絞めにし部屋から連れ出した。廊下で何か叫んでいるようだが、もうお前に用はない。
 ビルの前には、島岡から連絡を受けた警察が待機しているだろう。
 未成年者への淫行、しかも13歳未満の子供を手にかけたんだ。性的虐待に傷害容疑。モリスも、これで終わりだな。
 
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